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「匠の記憶」のトピックス

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 故・忌野清志郎率いる日本語ロックの先駆け、RCサクセションのアルバム『PLEASE』『BLUE』、そしてライブ盤『RHAPSODY』がハイレゾ化された。映画『ラブ&ピース』(監督:園子温)や今秋スタートのテレビドラマ『おかしの家』(主演:オダギリジョー、尾野真千子)の主題歌に起用されるなど、時を超えてなお新しい、そんな魅力を放ち続けている彼ら。moraではデビュー前のライブハウス時代からつぶさに彼らの道行きを見つめ、ディレクターとして今回ハイレゾ化された作品をともに送り出した現・オフィスオーガスタ社長、森川欣信氏へのインタビューを実施。不遇を味わった結成初期のエピソードやレコーディング秘話など、氏にしか語ることのできない臨場感あふれるお話の数々は全ロックファン必読だ。

(リード:mora readings 編集部)

 


 

【プロフィール】

森川 欣信(もりかわ よしのぶ)
1952年8月22日 高知県高知市生まれ。
ワーナー・パイオニアを経てキティエンタープライズに入社、13年間制作部に在籍後1992年音楽制作プロダクションとして(有)オフィスオーガスタを設立(2000年3月株式会社に変更)。
1997年音楽出版社として(有)オーガスタパブリッシングを設立。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――まずは森川さんのRCサクセションとの出会いについて教えてください。

森川 69年、僕が高校2年のときですね。TBSで「ヤング720」という、文字どおり朝の7時20分からやっている音楽やカルチャーの情報番組があったんです。その中にアマチュア・バンドのコーナーがあって、僕もバンドをやっていたのでオーディションに行ったんです。オーディションと言ったって、会議室みたいな部屋で、そのコーナーを任されているADの前でマイクもなしで歌わされるんですよ。そのときにRCもオーディションを受けに来てたんです。彼らは僕らより後だったので、廊下で待たされていたんですが、そこにいたのが清志郎と破廉ケンチとリンコ・ワッショーの3人で。そのときはもちろんRCなんて知らなかったんですが、すれ違ってなんとなく印象には残っていました。後日、番組に彼らが出て、「どろだらけの海」という曲を演奏しているのを観て、この前いたやつらだと思って、そのときにRCサクセションという名前も知ったんです。

――演奏を観てどう思われましたか?

森川 そのときから清志郎はもうああいう声でした。もう少し幼い感じの声だったかもしれないけど、強烈な印象がありましたよね。そのあと、8月の末に東芝(東芝音楽工業)主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」というアマチュアのバンド・コンテストが渋谷公会堂であって、僕の友達が出ていたので観に行ったんですよ。そのときに清志郎たちが出てきたんです。またあいつらだと思ったんですけど(笑)。彼らは「どろだらけの海」を歌って3位になって、翌年(1970年)、「宝くじは買わない」でデビューしました。当時、ラジオで流れているのを聴きましたけど、清志郎の声は個性的で好きでしたが、演奏は生で観たときの迫力はないなあと思いましたね(笑)。

――当時からライブがすごかったということなんでしょうね。

森川 僕は高校を出てから浪人したんですが、あるとき渋谷公会堂でビートルズのフィルム・コンサートがあって、その帰りにジァン・ジァン(小劇場/ライブハウス)の前を通りかかったら手書きの看板にRCサクセションと書いてあったので、入ったんですよ。そのときのRCはほんとにすごかったですね。40分ぐらいのステージでしたけど、コーラスや楽器のアンサンブルも含めものすごい迫力でした。アコースティック・ギターでここまでやっているやつがいるんだって、ほんとにビックリしましたね。それから1年経たないぐらいに「ぼくの好きな先生」(1972年)がヒットしたんですよね。アルバム『初期のRCサクセション』も出て。僕は都市センターホールへ彼らのアルバム発売ワンマン・ライブを観に行った記憶があります。ジァン・ジァンのときほどではないにしろ、やはりパワーがありました。「ぼくの好きな先生」が当たっていたからお客さんも満員でした。でも、彼らはそれから瞬く間に消えていったんですけど(笑)。実はそれと前後して、僕もバンドをやっていたから、RCと2回ぐらい一緒にライブに出たことがあるんですよ。武蔵野美術大学と明治大学の学園祭で、僕らがフロント・アクトをやって、RCがメインで。

――そのころは、まだ直接の交流はなかったんですか?

森川 なかったですね。楽屋なんかでは一緒になっていたけど、彼らの周りはなんとなく話しかけづらい雰囲気が漂ってて(笑)。君らのことが好きだっていうのは伝えたかったけど、自己紹介するのもなんだから……。その後2~3年、彼らはいつしかまったくメディアから消えてしまって、僕が大学を卒業するころかな、ラジオで「スローバラード」(1976年)が流れてきたんです。同時にアルバム『シングル・マン』もリリースされ、ラジオ・スポットをものすごく打ってたんですよ。清志郎の声は懐かしかったし、アルバムを買ったらそれも素晴らしい内容で。コンサートに行きたいと思ったけど、どこでやってるのかわからない感じだったんですよね。情報が無かったです。実際コンサートらしいものはやってなかったようですが。だからそのころ彼らのライブを観ることはできなかったんですけど。そのあと、大学を卒業して貿易会社に就職してからかな、新宿のロフトでRCがやっているというのを聞いて、観に行ったんですよ。そのときには、ギターの破廉ケンチが抜けて、清志郎とベースのリンコさんと土井耕太郎(dr)の3人組になっていて、清志郎はレスポールを弾いてましたね。リンコさんもエレキ・ベースだったし、もうフォーク・ユニットじゃなくなっていました。お客さんはRCを観に来ているというより、ただロフトへ飲みに来てるだけみたいな、演奏なんかほとんど誰も聴いてない悲惨な状況でしたね。でもすでに「よォーこそ」とかやってた。「ボスしけてるぜ」も確かやってたかな。清志郎のボーカルは相変わらずパワーありましたが内に籠っている感じで覇気がない、どこか投げやりで客に聴かせるつもりもないし、MCもろくにしない、僕は「あぁ、これでRCは終わっていくんだろうなぁ」と思いました。世間はニューミュージックの全盛期だったし、彼らがやってることはそれに逆行している感じですしね。これで俺ももうRCを観ることはないんだろうなと思ってお別れしたわけですよ(笑)。

――そうだったんですね……。

森川 それから1年半ぐらい経ってからかな、僕はワーナーパイオニアに転職したんです。ワーナーの先輩ディレクターが古井戸の加奈崎(芳太郎)さんのソロ・アルバムを作っているというので、「RCの清志郎のソロ・アルバムを作るほうがいいのに」なんて馬鹿なことを僕が言ったんです。まだ、どこか清志郎のファンでしたし。そしたら、彼らはパンク・バンドになって渋谷の屋根裏でやってるよ、って。パンクって清志郎らしい感じだなって思いました。それで、今日、加奈崎さんのレコーディングに清志郎が来るから紹介するよ、詳しいことを訊いてみればって言われて。ビックリしました。ワーナーの上にあるスタジオで待っていたら、夕方になって清志郎がボーッと来て、そのときに初めて話したんです。

――ついに直接の対面になったんですね。

森川 そう。それで、今までああだったこうだったっていう話をしたら、清志郎もビックリしてました。で、その日に僕は、厚かましくもあいつの車に乗り込んで、送ってもらったんだよね。ボロボロのサニーでした。

――それは、「スローバラード」に出てくる車ですね!?

森川 たぶんそうだと思います。その車の中でいろいろ話をしました。今度、屋根裏へ観に来てくれよって言うんで観に行ったんですよ。そこからですね、親しくなったのは。

――森川さんが屋根裏へ観に行ったときには、CHABOさんはもう入っていたんですか?

森川 入っていました。ギターがCHABOと元カルメン・マキ&OZの春日(博文)、ベースがリンコさん、ドラムももう新井田耕造になってた。だから、小川銀次が入る前のRCですね。そのとき、清志郎はすごく生き生きとしてました。MCで悪態つかないし。どこかユーモアがあった。声も昔より太くて、どこかスッキリ垢抜けたように僕には感じられて、一般の人にもとっつきやすくなったんじゃないかなと思いました。『RHAPSODY』(1980年)や『PLEASE』(同年)に入ってる曲はほとんどやってましたね。『RHAPSODY』のショーと近い感じで、強烈に面白かったです。あんなライブは生まれて初めて観た。翌日会社で、「RCを(ワーナーで)絶対にやるべきだ」っていう話をしたんですよ。それがきっかけで中毒のように僕は屋根裏に通うようになりました。ワーナーのスタッフを連れて行ったら、いいねって言ってくれる人も出てきました。僕は俄然やる気で。でも清志郎たちと話したら、キティと契約があるということだったので、キティに契約を切ってくれないかって話に行ったんですよ。契約してたってレコードを出さないんだから、それならワーナーでやらせてくれませんかって。僕も若くてよく契約の重要さとかわかってなかったから、そんな筋違いなことをやったんだよね(笑)。キティからは、RCは切らないよっていう返答が返ってきました。それで、諦めるしかないかと思ったんです。ところが、僕はワーナーの(社員ではなく)契約ディレクターだったんですけど、そのころ社内事情がいろいろあって、契約ディレクターは首を切られることになったんです。そこでキティを紹介してもらえることになって、二転三転あったんですけど、結局キティに入ることになって、それでRCをやれることになったんです。

――それは縁があったということですね。運命とでも言いますか。

森川 僕がキティに入ったころ、ちょうど清志郎もレコーディングが決まったと言って喜んでいました。それで、「ステップ!」(1979年)のレコーディングから、僕はちょこちょことスタジオに顔出すようになりました。あと、プロモーションする人がいなかったので、かなり悪戦苦闘しました。雑誌社を回ったりとかシンパ作りに奔走しました。キティにRCがいる間は、もうRCの仕事しかしてなかったですね。実は僕がキティに入ったのは、多賀(英典)社長の運転手としてだったんです(笑)。多賀社長から「お前は何をやりたいんだ」って聞かれたから、「RCの制作です」って言ったら、ほかにやる人がいないからやっていいよっていう話になって、それで多賀社長の運転手はやらないまま、RC担当になったんです。

――そうだったんですか。では、その「ステップ!」をハイレゾで聴いていただきたいと思います。

♪「ステップ!」(1979年)pc_btn_play.png

森川 ハイレゾだとハイがこんなに聴こえるんだね。厚みもあるし。ハイもそうだけど、ちょっと聴こえすぎな感じもあって、そうか、あのころ、こんなふうな音を作ってたのかとわかって、ちょっと恥ずかしくもなりますね(笑)。

――この曲のバックはスタジオ・ミュージシャンがやっているんですよね。

森川 そう、僕がキティに入ったときにはもうミュージシャンも決まってて。清志郎たちは「ステップ!」を8ビートでやってたんだけど、こういう16ビートの感じにアレンジもされてたんです。(所属事務所の)りぼんのディレクターがまだ彼らの演奏を認めてなかったんですよね。僕は、バンドなんだし、RCのメンバーでやったほうがいいんじゃないのって思ってたんですけど。清志郎としてはレコードを出してくれるってことで嬉しかったんでしょうけど、心の中では不満だったと思います。だから、次の「雨あがりの夜空に」(1980年)は強引に自分たちでやったんだけど、かといって自分たちの思うような音にはならなかったんですよ。RC主導ではないし、変なオーバーダビングはされちゃうし。歌詞の一部はいじられるし。なにより当時のエンジニアは、まだロックのレコーディングに慣れていなかったこともあったし。聴きやすくバランスを取るというか……。そういうことで、清志郎たちは不満があったみたいですね。

――キティからの最初のアルバム『RHAPSODY』(1980年)がライブ盤になったのは、そういう不満があったからなんでしょうか?

森川 そうです。スタジオでは自分たちが思うような音が録れない。ライブはあんなにいいのに、ということで。カセットで録ったライブの音を聴くと、すごく迫力があっていいんですよ。ピーク・レベル超えてるようなラフな感じでやかましくて。テープ・リミッターが自然にかかってて。それで清志郎たちは、ああいう感じにならないのかなってずっと言ってて。だから、アルバムを作る話になったときに、ライヴ・アルバムにしようということになったんです。

――それは森川さんのアイディアではなかったんですか?

森川 うん、僕じゃない。メンバーからですね。それで久保講堂を押さえて、16か24チャンネルのレコーダーを持ち込んで録ったんです。あのライブはツアーでもなんでもないんですよ。レコーディングのためのライブでした。それをあとでスタジオで、ものすごく修正しました。歌詞を間違えたところだけじゃなくて、ギターもベースもかなり入れ替えてます。だから、このアルバム・ジャケットにはどこにも“ライブ”って書いてないんですよ。

――では、その『RHAPSODY』から1曲聴くとしたら何がいいでしょうか?

森川 「よォーこそ」かな。だって、あんな曲ほかにないでしょう?(笑)

♪「よォーこそ」(1980年)pc_btn_play.png

森川 こんなこと言っていいかどうかわからないけど、ハイレゾになって、ドラムが軽い音で録れてるところとかが目立つ気がする。あのころはオフマイク(楽器からあえて距離を離してセットするマイク)とか、いっぱい立ててなかったんでしょうね。それが昔の録り方だったんでしょうけど、全体的に音がクリアになったな分、そういうのがよくわかりますよね。

――音がクリアすぎて臨場感が足りないという気もしますか?

森川 いや、『RHAPSODY』はもともとあまり臨場感はないから(笑)。かなり修正してるし、やっぱりスタジオでミックス・ダウンするとなんとなくこぢんまりしてしまうというか……ライブの良さが出ていないって、清志郎たちも葛藤してましたね。

――そして、同じ年(1980年)の12月にキティからの初のスタジオ盤、『PLEASE』が出るわけですね。

森川 僕はこのアルバムの音はなかなかいいと思ってたんだけど、清志郎たちは不満があったみたいですね。自分たちが思っている音とは全然違うって。自分たちが聴いてきた洋楽みたいな太い音や空気感がなんで出ないのかとか、ドラムとベースの音がなんで空間的に深くならないのかとか。当時は卓の上のリバーブとかEQなんかで処理してた。コンプレッサーはあったけどボーカルにしか使ってなかった。エンジニアも要求に応えようと苦労して工夫はしてたけど……僕はそんな中でも『PLEASE』はすごくバランスよく録れたと思ったんですけど、清志郎たちにしてみたら音が軽い、薄いっていうのはあったようですね。

――キティからの初めてのスタジオ・アルバムということで、かなり気合が入っていたから余計そう思ったのかもしれませんね。

森川 テイクもかなり重ねましたね。7月ぐらいから録り始めて、10月の初めぐらいまでかかったのを覚えてます。僕は『RHAPSODY』や『PLEASE』には、本当にRCの隆盛を極めたような名曲がバランスよく入っていると思います。清志郎って、そのときそのときのことを歌う人で、このときの彼は若くて、貧しくて、無名なわけですよ。そんな気持ちを込めた曲なのに、聴くとさらっとした仕上がりなんですよね。なんで認められないんだとか、こんちくしょうとか、焦っているような気持ちとか、そういうのがパッケージされなかったと思っていたんじゃないかな。エンジニアはきれいに録ろうとするし、聴きやすく仕上げようとしますからね。

――では、『PLEASE』からも1曲聴いてみたいと思います。

森川 『PLEASE』なら「トランジスタ・ラジオ」かな。

♪「トランジスタ・ラジオ」(1980年)pc_btn_play.png

森川 いいですね。これはアルバム全体通してそうですけど、曲が素晴らしいし、清志郎の声もよく出てる。ただ、まだ若いからか、ちょっと声が細いような気はしますね。聴いてて思い出したんですけど、“彼女 教科書ひろげてるとき”というところに3度上の裏声のハーモニーを入れようって、僕は帰りの車の中で清志郎に言ったんです。そしたら清志郎に、「お前ね、それはビートルズだよ」って言われてね(註:森川氏はビートズル・マニアとしても有名)。「ダメ?」って訊いたら、「ビートルズは甘い!」とかなんとか言われたのを覚えてる(笑)。どっちかというと彼らはストーンズっぽかったからね。でもこの曲はマージー・ビートというか、ビートルズっぽいんですけどね。オールディーズの感じもある、わかりやすくてシンプルな曲を作ろうって、朝、ラジオ関東に行くときの車の中で清志郎とコード進行の話して、それでできてきた曲なんです。彼らも売れなきゃいけない、受けなきゃいけないと思っていたから、ただガナっているだけじゃない曲を作ろうというのは意識してたんだと思います。

――「Sweet Soul Music」ではサザン・ソウルと言いますか、オーティス・レディングへの愛情が表現されていますよね。

森川 これは最初、上田正樹のために清志郎が書いた曲だったんです。でも上田バージョンはいいテイクが録れなくて。僕はすごくいい曲だと思っていたから、RCでやったほうがいいよって感じで、自然の流れでレコーディングに至りました。彼らはその前からソウルみたいなものが好きだったんだけど、まだそれほど黒っぽいノリは出せていなかった。それがこのころになって、真似じゃなくて、向こうのものを自分の中で消化して、オリジナリティを出せるようになったと思います。このころGee2wo(key)が入ったでしょ? 彼がクラビネットとかを弾くから、ファンキーな味を出しやすくなったということもありますね。

♪「Sweet Soul Music」(1980年)pc_btn_play.png

――この曲はハイレゾ化がとても効果的な曲に思えますが、いかがでしょうか?

森川 そうですね、ブラスの音とかいいですね。楽器と声のバランスもいいように思います。前はボーカルだけ飛び出したように聴こえたんですけど。

――『RHAPSODY』では小川銀次さんがいましたけど、『PLEASE』ではギターはCHABOさんだけになってしまいましたよね。CHABOさんとしてはそこに責任感というか、プレッシャーみたいなものは感じていたんでしょうか?

森川 感じていましたよ。もともとCHABOって古井戸時代からアコギ歴が長かった人だから、バッキングのギタリストとしては素晴らしかったけど、弾きまくる人じゃなかったし。銀次がいなくなってからは、どうやってあの音を埋めなきゃいけないかとかって考えてましたね。だから、この時点でCHABOはエレキがものすごく上達したと思います。

――なるほど、やはりそうなんですね。

森川 今思い出したんだけど、「ぼくはタオル」をスタジオで初めて聴いたとき、僕はレッド・ツェッペリンを思い出して、「移民の歌」じゃないけど、頭にターザンみたいな声を入れようって言ったんです。ジャングル・ビートだし。そしたら清志郎が「ターザンみたいな声って言われてもわからないから、森川、やってみろ」っていうから、ア~ア~ってやったんですよ。そしたら清志郎がそれを気に入って、それがそのままレコードに入ったんです(笑)。

――そうなんですか(笑)、ぜひそれも聴いてみましょう!

♪「ぼくはタオル」(1980年)pc_btn_play.png

森川 こんな声してたんだね(笑)。

――ハイレゾで甦ってしまいましたね(笑)。さて、1981年に『BLUE』がリリースされます。これは、清志郎さんたちが『PLEASE』の音に対してあまり満足していなくて、そのために一発録りを試みたと言われていますが、先ほどの話からするとそれは正しいようですね。

森川 そうですね。『BLUE』はエンジニアをリンコさんの弟の小林キンスケに替えたんです。彼はRCのライブのPAをやってた人なんです。だから、すごくライブっぽい音とスタジオ録音のバランスが取れるんじゃないかということで起用したわけです。スタジオも自分たちが当時ずっとリハーサルをやっていた並木橋のスタジオJで、そこに16チャンのレコーダーがあったんで、それで録ろうってことになりました。清志郎たちがよく、『PLEASE』は“歌謡曲ミックス”みたいなバランスだって言ってたから。それでキンスケは頑張ったんですけど、スタジオの鳴りもあるし、録り方もあっただろうし、機材的にもまだまだだったし、僕らもやり方がわからなかったし、清志郎たちもわかっていなかった。だから、『BLUE』って極端にボーカルが小さいでしょ? 洋楽って日本のものほどボーカルがオンじゃない、引っ込んでるって言われるけど、でもそれでちゃんとバランスを保っているんですよね。『BLUE』の場合には、バッキングの音を大きくしてボーカルを抑えるとロックっぽくなるんじゃないかという試みでやったんだと思いますが、はたして成功したかというと疑問です。

――では、「ロックン・ロール・ショー」を聴いていただきたいと思います。

♪「ロックン・ロール・ショー」(1981年)pc_btn_play.png

森川 ボーカルに何かフェイジングのような変なエフェクトがかかってるね、コンプかな(笑)。録り終えてからトータル・リミッターみたいなのをかけたのかな、これ。不思議なサウンドですね。

――確かに不思議なサウンドですし、声がやや遠い感じもしますね。でも、ハイレゾだからそういうところがよりわかるということはありますよね。

森川 そうですね。でも僕はこのアルバム、好きは好きなんです。当時は斬新なミックスだなって思いました。この中にも昔からの曲がまだ多く入ってるんですよ。新曲は「ガ・ガ・ガ・ガ・ガ」と、CHABOの「チャンスは今夜」ぐらいかな。「Johnny Blue」はCHABOが古井戸でやってた曲を少し変えたものだし、「よそ者」も原型はずっと前からあったんじゃないかな。ほとんどが前からある曲ですね。彼らは持ち曲がすごくあったんですよ。30曲ぐらいは使える曲があったから。

――「チャンスは今夜」でCHABOさんが初めてボーカルを取ったのは、そろそろバンドとして新たな展開を図ろうとか、そういうことだったのでしょうか?

森川 ビートルズだってジョージも歌うし、ストーンズだってキースの歌う曲がアルバムに1曲入ってたりするでしょう? CHABOもギタリストだけど素晴らしいソングライターであるしボーカリストでもあるから、彼のボーカル曲を入れようということになったんですよね。バンドっていう意識がより強くなってたんじゃないかな。

――今回『PLEASE』のボーナス・トラックとして「雨あがりの夜空に」のシングル・バージョンが入っていますので、それもお聴きください。

森川 ちょっと間抜けなシンセが入ってるやつだね。このアレンジはやめようぜって言ったんだけどね(笑)。清志郎たちがやってるままでいいよって。

♪「雨あがりの夜空に」(1980年)pc_btn_play.png

森川 楽器が多すぎますね。シンセとか全然いらないと思うし、ピアノもうるさい。小川銀次がサビの後ろで素晴らしい対旋律のフレーズを弾いているんですけど、それがあんまり聴こえない。あのときにもっと勇気を出して、音をいっぱい入れるのはやめようって言ったほうがよかったな。ハイレゾで聴くと恥ずかしくなるね(笑)。屋根裏でやってたときのRCってほんとに良かったんですよ。そこに、例えば僕もそうだけど、レコード会社のスタッフが意見を言うし、事務所の人もいろいろ言うでしょ? あの屋根裏のライブのすごさをそのままパッケージするには、僕らが余計なことを言わないほうが良かったのかもしれないという気はしますね。まぁ、お互い遠慮もありましたから。僕がやらないほうがRCはもっと売れたのかもしれない(笑)。

――今振り返ってみて、森川さんにとってRCというバンドはどういう存在ですか?

森川 清志郎というのは稀有なボーカリストだというだけではなく、詩人であり曲を作る天才でもありましたね。そこにCHABOをはじめ清志郎を理解している素晴らしく絶妙なメンバーがいた。それこそまさにバンドです。今の日本のロックというのは海外のロックの真似をしているんじゃなくて、日本独自のものですけど、それは清志郎たちが作り上げたものだと思います。日本語のロック、そしてロック・バンドというものをね。

(インタビュー&テキスト:細川真平)

 


 

「ステップ!」「君が僕を知ってる」
「上を向いて歩こう」「雨あがりの夜空に」の4曲を追加収録!
『PLEASE+4』

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「ボスしけてるぜ」「キモちE」の2曲を追加収録!
『BLUE+2』

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アナログ・マスターテープからの最新リマスタリングが実現!
『RHAPSODY(Live)』

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

 

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 「太く短い」人生を地で行った伝説のアイドル・岡田有希子。竹内まりや、小室哲哉、坂本龍一など現在も日本の音楽界で「巨匠」と仰がれるミュージシャンが数多く参加した彼女の楽曲が、全56曲一挙ハイレゾ化。mora readingsではこれを記念し、当時のディレクターであった国吉(旧姓:飯島)美織さんにインタビューを実施。岡田さん本人の学習能力・センスのよさ、またそれに導かれたかのように綺羅星のごときアーティストが関わっていった記憶を、情感たっぷりに語っていただいた。

(リード:mora readings 編集部)

 


 

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(イラスト:牧野良幸)

 

――岡田有希子さんと言えば渡辺有三さんというポニーキャニオン(当時キャニオンレコード)の名物プロデューサーが有名ですが国吉(クレジットでは旧姓:飯島)さんはどのような経緯で岡田さんのディレクターになられたんですか?

国吉 キャニオンに入社して「有三さんの下で勉強しなさい」ってことで当時有三さんがプロデューサーをされていた堀ちえみちゃんの仕事を渡されて、それと「アーティストの尾崎亜美さんから色々と学びなさい」って話しで先ずこの2人の担当になったんです。そこから今度は「その現場で色々と学んだことを岡田有希子という子につぎ込んでくれないか」と言われたので彼女のディレクターになりました。

――最初に彼女に会われた時の印象って憶えています?

国吉 普通のカワイイ高校生だったんですけど、一緒にショッピングやカフェに行ってお話しをした時に頭の良さは感じました。とても勘が良くて反応も良いし、ちょっと言った事を直ぐに受け止める力が強かったので面白い子だなって思いましたね。

――楽曲だと初期は竹内まりやさんの印象が強いのですが、そこはプロデューサーの渡辺有三さんのセレクトだったのでしょうか?

国吉 そうですね。彼女をどういうタレントにしようかってなった時に他のアイドルの子達よりもしっとりとした知的な子だったので、有三さんが「六大学野球を観に行く山の手のお嬢さんのようなイメージでいきましょう」って言い出して、みんなも「それはピッタリかもしれない」って話しになったんです。それで「そのコンセプトだったら竹内まりやでしょう!」っていうことでまりやさんの名前が上がったのでお願いに行った所快諾して下さいました。

――以前BOXセットで発売になったCD「贈りものIII」に入っていたブックレットに、有三さんご自身が書かれた手紙をまりやさんが読んだ事が楽曲提供の秘話として載っていたのですが、一方でファンの間では一度断られたのを岡田さん自身が直談判しに行った事が決め手になったという話しも有名なのですが。

国吉 私もその話し小耳に挟んだ事がありますけど、私の記憶ではそうではなかったと思いますが(笑)

――直談判の話しはガセだったんですね。長いこと信じている昔からのファンもいると思うのでこのことは今回ちゃんと書いておきましょう。

国吉 そうですね(笑)。快諾して頂いて有希子ちゃん本人も凄く喜んでいましたから。まりやさんはデビュー曲のレコーディングの時スタジオに来てコーラスまで歌って下さったんです。

――そのレコーディングはどんな感じだったんですか?

国吉 まりやさんの楽曲に決めたとはいえ、初めはまだ岡田有希子の可能性というのがどんなものなのかスタッフにもわかりきれていない所があったので色々な人達に曲やアレンジを頼んでいて、それを彼女に歌わせて合っているものを見極める所からレコーディングは始まりました。まりやさんも何曲か書いてくれていたのでそれらを同時に録って比較して、デビューシングルはちょっと哀愁の入ったマイナー調の曲なんだけれども、ルンルンキャンキャンじゃないアイドルなんだよっていう所も見せたかったからあえて「ファースト・デイト」を選んだんです。

――1980年代はアイドル全盛時代でしたが、岡田さんの曲は一聴して明らかに当時のアイドルソングとは違いましたよね。

国吉 そうですね。それを本人が歌いこなせたっていうのが一番大きいと思うんですよ。曲に派手なコーラスが入って来たり、豪華なプレイヤーの素晴らしい演奏が入って来ても負けない歌が存在したのでいい音楽が作れたっていうのはあったと思います。

――今回ハイレゾ音源になった全作品を聴いてみてどう思われました?

国吉 スタジオで聴いていた音がそのままお届けできる時代になったんだなって凄く嬉しかったですね。10の世界観が2ぐらいになってしまっていた音が10届けられるっていう風に聴いた時に思いました。普通のCDだと歌、ドラム、メイン楽器に他がちょっと聴こえるぐらいだったものが、細かいキーボードやパーカッションとか音楽的な彩(あや)の部分も聴こえてきますし、人間が生み出すグルーヴ感とか空気感とか世界観て言う本来音になっていない部分までもが聴こえてくる感じがしましたね。そういうのって実際あると思うんですよ。CDでは表現出来ていなかった暖かい音みたいなものがハイレゾでは感じられるんだなと思いました。

――当時のレコーディングはアナログマルチだと思うのですが、そういうアナログの良さみたいなのも出ていると思いますか?

国吉 出ていると思います。デジタルのように信号で録るのではないので、芯の音だけじゃない周りにある音とかもアナログの時は録れていたと思うんです。CD化された時にアナログ盤と比べて硬い音になってしまったなって感じていたので、今回ハイレゾのマスタリングでは中音域を上げてもらって当時の音に戻したサウンドにしました。なのでアナログ録音した良さというのが凄く良く出ています。

――岡田有希子サウンドの特長というとどういう所なんでしょうか?

国吉 デビューシングルではまだ掴みきれていない所もあったんですけど1枚目のアルバムを録った後に、この子はどんな曲が来ても自分の色に変えて表現出来る力があるからかなりのテクニックを持ったプレイヤーやアレンジャーの曲でも大丈夫なんじゃないかって話しになったんです。上品な歌声の子だったから、私としてはそれがもっと出せるアルバムが作れたらいいなと思って色々考えたのですが、その中で松任谷正隆さんのサウンドが一番ぴったり合う気がしたので2枚目のアルバムは松任谷さんにお願いしました。そこからはもう自信を持って岡田有希子ワールドを作って行こうという気持ちになりましたね。

――今回マスタリングにも立ち会われたとの事ですが何か改めて発見した事とかありましたか?

国吉 1stアルバムの1曲目「さよなら・夏休み」はデビューシングル候補の1曲だったので、ラジオやテレビで流れた時に派手に聴こえるようにしようって当時出始めだったコンプ(コンプレッサー)を使ったんですよ。でもそれが掛かり過ぎていて「ここまでやると音が潰れちゃってるよね」ってぐらいだったんです。レコードやCDにした時はその音が派手で良かったんですけど、ハイレゾで聴いた時に「コレは!」ってなって(笑)。でも今からコンプを取る事は出来ないので何回かやり取りをして「これならいいよね」って所まで持って行きました。せっかくハイレゾで出る1枚目のアルバムの1曲目が「なんでこんな潰れた音なの?」ってなったら悲しいじゃないですか(笑)

――いい音で聴こうと思ったのに「あれっ?」てなりますよね。岡田さんの作品にはお話しに上がった竹内まりやさんや、松任谷正隆さんを始め数多くの有名ミュージシャンが参加されていますよね。そう言った方々との制作エピソードみたいな所も曲をあげて頂きながらお聞かせ頂ければなと思うのですが。

国吉 では先ず2枚目のアルバム「FAIRY」の中の「森のフェアリー」なんですけど、これはかしぶち哲郎さんにお願いした曲で。

――そう言えば、かしぶちさん始めムーンライダーズのメンバーが参加されているのは國吉さんのセレクトだとお聞きしたのですが。

国吉 そうですね。誰とやりたいかっていう話しを有三さんとしていた中で私はムーンライダーズのメンバーを上げていて、特にかしぶちさんは絶対合うと思ったんですよ。堀ちえみちゃんは白井良明さんみたいな明るいキャラクターで面白がれる人がいいなと思ったんですけど、かしぶちさんのしっとりとした上品な世界観というのが岡田有希子ちゃん向きだなと思っていたのでお願いしました。でもお願いしたのはいいんですけど「大丈夫かなぁ」とも思ってしまって(笑)

――それはどういう意味で?

国吉 凄く難しい曲が上がって来て歌いこなせなかったらどうしようっていうのが心配だったんです。でも頂いたのがアイドルにピッタリの曲で、しかもかしぶちさんならではの世界観もあったので、これだったら松任谷さんがアレンジした時に広がりも出せるし「やった!」って思って本当に頼んで良かったなって感謝したんですよ。実際の歌入れでは有希子ちゃんもそれを直ぐにキャッチして歌いこなしてくれたので良かったと思います。

――かしぶちさんは4枚目のアルバム「ヴィーナス誕生」では全曲のアレンジを担当されていますよね。

国吉 ムーンライダーズの中でもどちらかというと派手な感じではなくてマニアックな人達が好む曲を書いていらっしゃる方だったので、頼んだ時には「オレ?」って感じでした(笑)。でも結果的には凄く相性が良かったんじゃないかと思います。

――かしぶちさんの曲だと7枚目のシングルだった「Love Fair」が僕は大好きな曲なんですけど。

国吉 「Love Fair」をシングルにしようっていうのは、サンミュージックのプロデューサーだった杉村さんが言い出したんです。「アルバムの曲としてこういうのも歌いこなせたらいいよね」って話しからかしぶちさんに頼んだ曲だったので意外だったんですけど、そんな曲を事務所のプロデューサーがシングルに選んでくれたっていうのは私としては凄く嬉しかったですね。それと同時に有希子ちゃんもこの曲が出たことで、他のアイドルとは違う路線が歩めるようになったので良かったんじゃないかなって思いました。

――ファルセットからの曲の始まり方が独特で当時聴いた時に衝撃だったのですが、あそこは最初からあの感じだったんですか?

国吉 そうですね。かしぶちさんに頂いた時からあの感じでした。ハイレゾで聴くとあそこがいいんですよ。デモテープの段階でも凄く良い曲だなと思ったんですけど、松任谷さんのアレンジがそれを更に更に良くしてくれて「わぁーもっとこんなに良くなるんだ」っていうのにも当時驚きました。それと有希子ちゃんの声がちょっと鼻声でそれも気持ちいいですね。この曲は中音域の音の豊かさがハイレゾだと良く出ていると思います。

――80年代の中頃はニューミュージック系のシンガーソングライターがアイドルに曲を提供する事が増えて来ていた時代でしたけど、岡田さんはそこだけではなくジャパーニーズニューウェーヴと呼ばれていたようなアーティスト達も曲や演奏に参加していたので当時面白いなと思っていたのですが。

国吉 私や有三さん、倉中さん(4thアルバム「ヴィーナス誕生」ディレクター)みんな音楽好きで、特にコアな音楽が好きだったっていうのがあったからだと思います。せっかく制作に携わっているんだったら人と人を結びつけたり、世界と世界を結びつける役割をディレクターとして100%出したいって思いはありましたね。だから岡田有希子ちゃんのレコーディングはこれでお給料貰っていいのかなってぐらい毎回楽しかったです(笑)。一流のミュージシャンがいい意味で裏切った曲やアレンジをあげてきたり、演奏をしてくれる度に「こう来たか!」って思ったりとか。勿論有希子ちゃんの歌や私達の仕事が彼等から引き出したものもあると思うので「新しい音楽が出来た!」っていう喜びがありました。そう言えば3枚目の「十月の人魚」の1曲目「Sweet Planet」と10曲目の「水色プリンセス―水の精―」は小室哲哉さんの曲なんですけど、これは彼が初めて他人に提供した作品なんですよ。小室さんはまだ無名時期で、この2曲は誰かに提供したくて作っていたデモテープの中に入っていたものだったんです。

――レコード会社とかに良く配られる作曲家の売り込み用デモテープの1本だったわけですね。実は今回お話しを伺うにあたって小室さんが参加されていた件については是非聞いてみたいなと思っていたんです。「十月の人魚」の発売が1985年でTMネットワークがデビューした翌年ですよね。小室さんが提供した最初のヒット作渡辺美里の「My Revolution」が1986年なので目をつけるのが凄く早かったなと思ったのですが。

国吉 そういうこれから育って行く人に着目するのもディレクターの大事な仕事なんじゃないかなと思っていましたね。やっぱり小室さんのデモは他の人と違うキラメキがありましたし凄く才能を感じました。それで曲がちゃんと出来上がったので松任谷さんのご自宅のポストにテープを置いて来たんです。

――ポストに直投函だったんですか!勿論メールもバイク便も無い時代ですもんね。

国吉 そうなんですよ(笑) 3ヶ月に1枚のシングルと半年に1枚のアルバムリリースでとにかく有希子ちゃんのスケジュールが厳しかったし、私達も含めてずっと走り続けないといけない感じだったのでいつも車やタクシーを飛ばして渡しに行ってました。それでそのテープを松任谷さんが聴いて後日スタジオに来た時に「誰これ?面白いね」って反応されて。

――特に「水色プリンセス―水の精―」は小室サウンドと呼ばれるものがもうこの頃には出来上がっていたんだなってわかる曲ですよね。

国吉 まさにそうですね。この曲は有希子ちゃんも頑張ってくれたんですけど、歌いこなせていなかったかなって感じでした。あの世界観は最終的には出せなかったかなって思っていて、デモテープの小室さんの歌が凄く良かったのでそれを出したいぐらいなんですけど(笑)」

――今でこそ馴染みのある小室さんの音ですけど当時としては斬新すぎますよね。

国吉 譜割りもこれここに言葉を入れていいんだろうかって(笑)。作詞家の方も凄く迷ったみたいでした。

――アルバムに関して「十月の人魚」では水、「ヴィーナス誕生」では宇宙みたいに毎回コンセプトがあったのも特長だと思うのですが、これはどういう所からの発想だったんですか?

国吉 それは洋楽好きの私達の意向ですね。シングル用に10曲録って選ばれなかった曲を集めてアルバムを作るんじゃ寂しいなと思っていて、曲ごとの良さっていうのも勿論あるんですけど、アートワークも含めてアルバムをトータルで聴いた時にもっと違う世界観が見えて来るんじゃないかっていうのが私達の考えでした。

――そういう意味ではシングルもアルバムを意識して作られていたって事ですか?

国吉 そうですね。デビュー曲は「シングルとしてどうしましょうか?」って話して作りましたけど、その後は全部アルバムとして録っていた中からのセレクトで出していました。

――やっぱりそういう作りだから冒頭にもちょっと触れましたが、当時ヒットしていたアイドルソングと比べた時に異質に感じたんでしょうね。タレントとして凄く人気がある人だったのに、シングルチャートでベスト3に入ったのも最後の作品となってしまった8枚目の「くちびるNetwork」の1位だけですし。

国吉 商品を作るか作品を作るかって天秤にかけた時に私達は作品を作るって方に傾いていったんだと思うんですね。でもそのおかげで結果ではありますけど今回みたいに何十年も経った時に形を変えてリリースする事も出来たし。良い作品というのは必ず残っていってそこからまた何かが始まるんじゃないかって当時も信じていました。チャートが7位だったから次必ず1位を獲れるものをみたいに焦って制作するのは違うんじゃないかなって考えはありましたね。

――岡田さん本人はそういう制作スタンスについてどう思っていたのでしょうか?

国吉 チャートに関しては話したことはなかったのでわかりませんけど、絵が描けたり、文章も書けたりアーティストに近い特別なアイドルでいたいって気持ちはあったと思うので、スタッフがやっていることを多分喜んでくれていたんじゃないかなって思います。

――彼女の凄さとか魅力はどういう所だったと思いますか?

国吉 学習能力が高い子だったので、こちらが意図している“こうやって歌って欲しい”とか“こういう音楽を作りたい”とかいうのを掴み取る力がとても強かったんです。だから“こんな風に出来上がったらいいよね”っていう音楽がそのまま再現出来たっていうことがスタッフ達の喜びでもありました。とにかく世界観を掴むのが上手かったです。どこかでレッスンを受けてああしなさい、こうしなさいって言われたわけではなく、こうしたらいいんじゃないかなっていうのを自分で掴んで取り入れてやっていたし、とにかく真面目な子でしたよね。歌手として長いこと通用する人でいてほしかったので、色々学んで吸収してくれたらいいなってスタッフはみんな思っていました。マイナスな所をあまり見せない子だったのでそこは可哀相だったかなとは思いますけど。レコーディングのスケジュールがなくて3時間の中で4曲録ってくださいとか言われて、こちらが「そんなの無理ですよ」って思っていても彼女は自分の力でそれを可能にしてしまったりしていましたからね。レコーディングのあとに仕事が入っていたりすると「今日はけつかっちん(終了時間を延長出来ない業界用語)ですか?」って自分から聞いてきて時間内できっちりレコーディングを終わらせるし、自分のレコードの売り上げもちゃんとチェックしていましたから当時は凄い子がいるんだねっていう風に思っていましたけど、今思うとそういうのが大変だったんだろうなって思います。

――岡田有希子さんが亡くなってから来年で30年になるわけですが、今回全作品がハイレゾ配信と高音質CDで発売されるにあたってのお気持ちを最後に訊かせて頂けますでしょうか?

国吉 ストリーミングだったり無料配信されたりする楽曲がある一方で、こういうハイレゾで聴ける昔のいい演奏、いいアレンジ、いい歌唱っていうものもあって、そこには両方の良さがあるんですけど、私は音楽にハマるとか堪能するって意味でハイレゾ音源を若者達にも是非聴いてもらいたいなって思うんです。ストリーミングとかで聴いていると音もあまり良くないし音楽を聴くことが嫌いになってしまうんじゃないかなって思ってしまうんですよね。当時のアナログで録った素晴らしいミュージャンやアレンジャーの音楽を聴いて頂いて、そういう風に今の若者も大切に音楽を作って行くべきだし、そうすれば今回みたいに30年経っても聴いてもらえるチャンスだってあるだろうし、それは残って行く音楽になるんじゃないかなと思うんです。なので大事に音楽を紡いでいく事をハイレゾ音源を通して私は訴えていきたいなと(笑)

――岡田有希子さんは勿論ですが渡辺有三さんがご存命だったら今回の音を聴いて喜ばれたでしょうね。

国吉 本当に喜んだと思います。みんないいものに対する気持ちが強かったしその人達が作り上げた賜物なので。今回新たな形でそれを出してもらえることは岡田有希子に関わっていた全てのアーティスト、スタッフ、ファンが嬉しいと思うんです。

(インタビュー:山村哲也)

 


 

<プロフィール>

国吉美織(くによし・みおり)
上智大学英文学科卒 在学中EAST WESTにてグランプリ、最優秀キーボーディスト賞を受賞。 1982年(株)ポニーキャニオン入社、女性第一号のディレクターとなる。 退社後は、自ら作曲・演奏・プロデュースするmilly la foretの活動を軸に、 Zaine Griff、錦織健、斎藤ネコ、三橋貴風ら重鎮音楽家達との共演、 陶芸家、華道家、役者、ゲームクリエータとのコラボレーションなどを行っている。
HP:http://miorio.net/

 


 

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 レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジによるリマスタリング・シリーズ、最後のタームとなる『プレゼンス』『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』『コーダ(最終楽章)』が7月31日に配信されました。
 これを記念してmora readingsでは、レッド・ツェッペリンの日本での担当としてその「伝説」を最も近い場所で目に焼き付け、「胸いっぱいの愛を」など印象的な邦題を生み出したその人、折田育造さんにインタビューを実施。生粋の音楽人としての確かな熱量に裏打ちされた、ここでしか読むことのできない貴重な証言の数々をお楽しみください。

(mora readings編集部)

 


 

【プロフィール】

折田育造(おりた いくぞう)

1941年11月29日 生まれ。
1965年3月 慶應義塾大学経済學部卒。
1965年4月日本グラモフォン(株)[現ポリドール(株)]入社。
1970年10月ワーナー・パイオニア(株)[現(株)ワーナー・ミュージック・ジャパン]入社。
1986年1月 同社邦楽部部長。1988年9月同社洋楽部部長。
1989年11月 ウィア・ミュージック(株)代表取締役専務を経て1990年9月 同社代表取締役社長に就任。
1991年8月 (株)ワーナー・ミュージック・ジャパン代表取締役社長就任。1995年2月 同社退職。
1995年3月ポリドール株式会社代表取締役社長就任

洋楽・邦楽問わず、あらゆるジャンルの音楽に精通する、根っからの音楽人間。
現在も、折田氏の信奉者は業界でも数多い。


インタビュー&テキスト:細川真平
1964年、香川県生まれ。早稲田大学卒業。出版社、レコード会社勤務を経て音楽ライターに。ジェフ・ベックほか多数のCDライナーノーツ、国内外有名アーティストへのインタビュー、音楽誌/ギター誌の記事等を手がける。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――折田さんは1965年に日本グラモフォンに入社され、69年にレッド・ツェッペリンがデビューしたときに初代担当になられたわけですが、まずは当時の状況を教えてください。

折田 67年の1月に、アトランティック・レーベルがビクターからグラモフォンに移ってきたんだよね。ビクターはジャズのタイトルにばかり力を入れていて、リズム&ブルースのヒット・レコードをいっぱい持っていたアトランティック側はそれが気に入らなかった。だから俺たちは、まずは向こうでヒットしたものは全部出そうと。営業は堅く売れるジャズを出したがっていたから、編成会議ではいつも大喧嘩してたけどね(笑)。そんな中から68年には、前年に飛行機事故で亡くなったオーティス・レディングの「ドック・オブ・ベイ」の大ヒットが生まれた。でもその後、黒人のリズム&ブルースは急速に売れなくなっていってね。でも、グラモフォンは当然のことながらイギリスのポリドールからリリースされていたジミ・ヘンドリックスとかクリームとかも持っていて、そういうのは売れていたんだ。そういうこともあって、68年半ばには会社としてもロックに力を入るようになっていたんだよ。そしたら、10月の終わりにニューヨークのアトランティックから連絡があったんだ。今度、レッド・ツェッペリンというロック・バンドと、20万ドルという破格の契約金で契約したと。

――リズム&ブルースの凋落と、ハード・ロックの原型としてのブルース・ロックの躍進があって、そこに新たな可能性を秘めたバンドとしてツェッペリンが登場したということなんですね。

折田 そう。で、11月の終わりに音が来たのよ。1枚目はイギリスでは12月に出たけど、アメリカでは69年の1月。日本では1月の編成会議にかけて、当時としては一番早い6月25日の発売になった。そのときに日本では宣伝用にツェッペリン飛行船の風船を作ったの。これを俺がアメリカに行くときに持っていったら、アトランティックのやつらからえらく受けてさ(笑)。欲しいって言われて、あとからずいぶん追加オーダーしたよ。

――当然、「幻惑されて」などの邦題も折田さんが付けられたんですよね?

折田 もちろんそうだよ。苦労して付けた覚えがあるね(笑)。

――では、その「幻惑されて」をハイレゾ音源で聴いてみましょうか。

 

note「幻惑されて」
(原題:Dazed And Confused|試聴

 

折田 やっぱりかっこいいね。ツェッペリンのいいところはドラマティックにグーッと盛り上がってくるところだよね。その匙加減がいいんだ。これは音楽的にどうこうというよりも、感覚、センスだと思うんだよね。

――1曲目の「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」のイントロも、ハイレゾで聴くとそのすごさがより感じられると言われている部分ですので、それも聴いてみましょう。

 

note「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」
(原題:Good Times Bad Times|試聴

 

折田 うん、これだよ! ジミー・ペイジというのは本当に音にこだわっているからね。それが分かるよね、これを聴くと。71年にツェッペリンが来日したときに、来日公演をレコーディングしたんだ。広島以外の全公演をね。それがリリースされなかった理由は簡単でさ、ペイジが音を聴いて“ワースト・レコーディング(最低の録音)”って言って、発売を許してくれなかったからだよ。自分の理想とする音じゃなかったんだろうね。そのあとのディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』がなんで出たかっていうと、エンジニアとして、かの有名なマーティン・バーチを呼んだら来たからだよ。音の良さにメンバーが納得してくれたんだ。

――ツェッペリンの1枚目が出たときの日本での評判はどうだったんですか?

折田 あのころ音楽雑誌は『ミュージック・ライフ』ぐらいしかなかったけど、待ってました! という感じだったよ。困ったのは写真がなくてさ、同じ写真ばかり使うしかなかった(笑)。あと、深夜ラジオが乗ってくれたね。まだ若かった福田一郎さんとか中村とうようさんとかがDJをされていてね。

――2枚目も同じ69年に出ますよね。

折田 これはペイジに知られたら怒られちゃうんだけどさ、向こうから来たハブ巻き(上下2枚のフランジがなく、ハブのみにテープが巻かれ状態)のマスターテープを、会社のあるやつがドジってバラバラにしちゃってさ、元のきれいな状態に戻すのが大変だったんだよ(笑)。2枚目を最初聴いたときには、やっぱり1曲目の「胸いっぱいの愛を」がかっこよかったよなあ。

――もちろん「胸いっぱいの愛を」という邦題も折田さんが付けられたんですよね? もうそれだけで尊敬しますけど(笑)。

折田 これも考えるのにかなり苦労したんだよ!(笑)

――ではこれも、ハイレゾで聴いてみましょうか。

 

note「胸いっぱいの愛を」
(原題:Whole Lotta Love|試聴

 

折田 よくこんなリフが考えられるよね。それをベースがフォローしていく感じが、すごく聴き取れる。で、やっぱり、そのあと入ってくるボンゾのドラムがすごいんだよね。

――当時聴いたときの衝撃が甦りますか?

折田 いや、それは違うな。だって当時は初めて聴くわけだから、感激の度合いが全然違うよ。思い出すのは、あのころってレコードにするときにデシベル(音量)を抑えちゃってたのよ。会社の規定があってさ。これ以上デシベルを上げると針飛びしちゃうっていうことでね。でも俺は、工場へ行ってカッティングのチェックをして、デシベルを上げさせてたんだよ(笑)。じゃないとしょぼい音になっちゃうからさ。

――マニアの間では、当時の日本グラモフォンの国内盤はオリジナル輸入盤よりも音がいいと言われているのですが、そういう理由があったんですね。

折田 へえ、そんなこと言われてるんだ。じゃあそのせいだろうね。

――その後、70年に折田さんは新たに設立されたワーナーパイオニアに移り、ツェッペリンを含むアトランティックもそちらに移籍しますよよね。

折田 71年の正月がワーナーパイオニア創設初の新譜発売日で、ツェッペリンの「移民の歌」のシングルもそのひとつだったね。これは10万枚売れたよ。で、そのあと1月25日に3枚目のアルバムが出た。前年12月にグラモフォンから出て、すでに売れに売れていたんだけどね。

――ということは、3枚目はグラモフォンとワーナーの両方から出たんですか?

折田 そうだよ。「移民の歌」のシングルはアトランティックに連絡して、ワーナーからしか出せないようにしてくれって頼んだんだけどね。それでさ、ワーナーパイオニアは設立に当たって、70年11月に記者発表をしたんだけど、そのときにアメリカからアトランティック社長のアーメット・アーテガンが来てくれたの。その場で彼は、“当社のレッド・ツェッペリンを日本に行かせるから”ってぶち上げたんだよ。それで71年9月の来日が決まったわけ。武道館を2回、広島県立体育館、大阪フェスティバルホールを2回。俺はライブを観て、ツェッペリンというのは本物だと感じたね。他のバンドとは違う、別格だって。

――広島はチャリティ・コンサートでしたね。

折田 あれはペイジというか、バンド側からの発案だったね。原爆記念館ではペイジもプラントもすごくショックを受けていた。そのあと、広島市長に会ってコンサートの売り上げの700万円を寄付したんだ。で、その夜がライブ。広島県立体育館は古いから、音がでかすぎて壁が崩れたんだよ(笑)。

――チャリティを行う反面、彼らの行状はかなり悪かったようですね(笑)。

折田 世界中でこれよりひどいのはザ・フーぐらいしかいないと事前に聞かされていたけどね(笑)。広島から大阪へは夜のうちに寝台列車で移動したんだけど、付いてきてたグルーピーを探してペイジが他人の部屋を勝手に開けまくるしさ。大阪のロイヤル・ホテルでは、ボンゾがお土産に買ったおもちゃの日本刀を振り回したっていう話があったけど、あれをやったのはアトランティックから来ていたフィル・カーソンなんだよ。でも確かに部屋は壊したね。東京でもそうだった。めちゃくちゃにしたよ。まったく破天荒だったよな。

――ちなみになんですが、そうした費用というのは誰が持ったんですか?

折田 事前にアトランティックから連絡が来てたんだよ。やつらはいろんなことをやるから、その費用はあとでまとめてアトランティックに請求してくれって。で、アトランティックはそれをツェッペリンの印税から差し引くんだ。だから、やつらは自分でちゃんと払っていたってことなんだよ。そこが偉いよね(笑)。

――そのあとの3枚目、4枚目あたりで、ハイレゾで聴いてみたい曲はありますか?

折田 ギターの切れがいいってことで、「ブラック・ドッグ」がいいかな。

 

note「ブラック・ドッグ」
(原題:Black Dog|試聴

 

折田 うーん、ペイジのリフがとにかくすごいよね。でもそれだけじゃなくて、ギタリストとして多彩だということもよく分かるね。

――『聖なる館』、『フィジカル・グラフィティ』の中だといかがでしょうか?

折田 「カシミール」(『フィジカル・グラフィティ』に収録)だね。あの途中の盛り上がりのところとか聴きたいね。

 

note「カシミール」
(原題:Kashmir|試聴

 

折田 お、いいね、やっぱり立体感が違うね。ツェッペリンというのは、ブルース、ジャズ、フォークから、こういう民族音楽風なものまで、本当に幅広く取り入れていたよね。それが当時の評論家には分かってなかったんじゃないかな。なんて言うか、フェイクとして捉えられてしまったというかさ。だからこうしてリマスターされた音源を聴いて、やっと最近じゃないか、ツェッペリンのすごさが本当に理解されるようになったのは。ツェッペリンって、そのエネルギーを聴いちゃうみたいなところがあるから、今になってやっと音楽的に聴いて、音楽的に評価できるようになってきたというかさ。

――今年の7月31日に新たにハイレゾでリリースされたのが、最後の3作、『プレゼンス』、『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』、『最終楽章 (コーダ)』です。ここからは、ボンゾのものすごいドラミングが聴ける「モントルーのボンゾ」(『最終楽章 (コーダ)』に収録)を聴いてみましょうか。

折田 こんな風に聴こえるんだね。昔はまとまりで聴いていたけど、ひとつひとつの太鼓の音がしっかりと聴こえるよね。ボンゾって力任せに叩いていただけじゃなかったっていうことも分かる(笑)。あと、小さい音で聴いても音圧が感じられるよ。

――振り返ってみて、ツェッペリンがロック史に残したものは何だったと思われますか?

折田 誰もツェッペリンの真似はできないね。影響はいっぱい残ってるよ、バンドやってりゃ、彼らみたいになりたいってみんな思うしね。でもロバート・プラントみたいに声が出るやつも、ジョン・ボーナムみたいに叩けるやつもいない。そういう真似できないすごさっていうのを残したっていうかな。あと、すごくイギリスのバンドだなという気がするよね。アメリカからはこういうバンドは出ないね。アメリカにはブルースがその場にあったけど、イギリスはそうじゃないから。よそ者なんだよ。でも、本場にいないからこそ、客観的に見ることができるわけで、それがよかったんだよ。あとさっきも言ったけど、ツェッペリンにはいろんな要素が入ってるよね。ブルースやジャズだけじゃなくて、ブリティッシュ・トラッドとかさ。そういうところもすごいし、何と言っても「天国への階段」はその集大成だよね。この曲なんかを聴くと、ちくしょう!って気になるね。

――なるほど、折田さんにとってツェッペリンというのは、“ちくしょう!”と言いたくなる対象でもあるんですね?(笑)

折田 そりゃそうだよ。ああいうバンドを作れたらどんなにいいだろうと思うよね。世界中のやつらが思ってるよ。ちくしょう!って(笑)。

(インタビュー&テキスト:細川真平)

 


 

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 日本中を驚かせた大ヒット曲『帰ってきたヨッパライ』(オリコン史上初のミリオン・シングル)、『悲しくてやりきれない』、『イムジン河』を作り出したザ・フォーク・クルセーダーズのコア・メンバー、加藤和彦。
 加藤は若くして度々イギリスを訪れ、マーク・ボラン(T-REX)、デイヴィッド・ボウイ、ブライアン・フェリー(ロキシー・ミュージック)らの破天荒さ、煌びやかさを世界に向かって放つグラム・ロックとファッションに多大な影響を受けることで「フォークからロックへ」と自らの音楽を変革させていく。加藤は妻でノン・ミュージシャンの(福井)ミカをシンボルにして日本から世界へと飛び立つことができるバンドを結成。それがサディスティック・ミカ・バンドである。
 メンバーは加藤和彦、高橋幸宏、小原礼、高中正義、今井裕、そしてミカという現在では破格のスーパー・バンドと化し、ザ・ビートルズからピンク・フロイドまでを手掛けていたイギリスの名プロデューサー、クリス・トーマスを迎えてセカンド・アルバム『黒船』をリリース。遂には日本のバンドとして初めてイギリス・ツアーを敢行(しかもグラム・ロックの覇者の一つ、ロキシー・ミュージックのフロント・アクトとして!)した。世界を目指す加藤和彦、サディスティック・ミカ・バンドと音楽を共有したディレクター(※当時、東芝EMI)の新田和長さんに日本のロックに新たな発想と展開をもたらしたレコーディングに迫る。

 

インタビュー&テキスト:伊藤亮(プロジェクト・コンサルタント)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――サディスティック・ミカ・バンドは70年代初期では極めて特異な存在だったと思います。あのサウンドはどのように受け止められていたのでしょうか?

新田 まずミカ・バンドが世界的に評価を得るまでの日本の音楽の状況をお話しておきましょう。1973年にサディスティック・ミカ・バンドのファースト(『サディスティック・ミカ・バンド』)が出た。同じ年にチューリップは『心の旅』を出しています。そして、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、アリス、赤い鳥で“ラヴ・ジェネレーション”というコンセプト・ツアーをやったんです。まだ彼らにはヒットがないからイベンターやプロモーターを通さずに音楽メーカーが自ら「これからはこういう音楽です」と伝えるためのツアーでした。有料媒体に広告を出すよりも目の前で観て、聴いてもらったほうが確実にリスナーに伝わると考えたからです。同時期にユーミン(荒井由実)もデビューしたばかりでした。ヒットこそなくても、誰の耳にもアコースティック・ギター中心のフォークから新しい音楽へと移行していることが明らかでした。
 しかし、そこには弊害がありました。加藤君がロックをやろうとするとその頃のロック・バンドたちには「オマエはフォーク出身だ。ロックじゃない」と言われる。チューリップの財津(和夫)さんはフォーク・ギターにアッテネーター(アコースティック楽器の音を電気的に変換し、音量に強弱をつける機器)をつけていて、バンドにはドラムがいたもんだから、フォーク・シンガーたちには「オマエはフォークじゃない。ロックだ」と言われていました。僕は彼らの担当で、困惑したわけです。「ミカ・バンドはロックじゃないと言われ、チューリップはフォークじゃないと言われる。それじゃ、彼らの音楽は何なんだ?」と。そして、同時期に音楽業界で自然と発生し、広まったのが“ニューミュージック”という言葉でした。ロックでもない、フォークでもない新しい音楽を総称した言葉です。今となってはニューミュージックなんて誰も使わないし、あの頃でも「言葉が軽すぎる」とも言われました。しかし例えばユーミン(荒井由実)の音楽はフォークではないし、ロックでもないですよね。既存の音楽へのアンチ・テーゼとなった音楽が次々に産まれてきた時代でした。そういう音楽をニューミュージックと総称し、僕たちは「芸能界じゃなくて音楽界を作るんだ」と言ったんです。生意気なことですけどね(笑)。その中でも加藤君、サディスティック・ミカ・バンドは「日本から世界へ」を目指していました。

――ミカ・バンドの『黒船』がイギリスでリリースされた経緯をお話いただけますか?

新田 日本語の音楽だけど、サウンドも演奏力も世界でイケるぞ、という気概があったんでしょうね。まだ日本ではシングル至上主義でしたが、欧米はもうコンセプト・アルバムの時代になっていました。ミカ・バンドにはシングル・ヒットはありませんでしたがアルバム全体で何度も聴いて尚、耐久性があった。そこで、イギリスのEMIに“ハーヴェスト”というレーベルがありまして、そこのマネージャーのスチュワート・ワトソンという男を日本に招いて2カ月ほど僕の世田谷の家に泊まってもらったんです。彼を招いて、日本を知ってもらうことが目的でした。彼も「日本に招待してくれるなら出す」と言ってくれてね。

――日本のバンドの海外リリースが担当者の日本滞在で決まるなんて、相当に牧歌的なエピソードですね(笑)

新田 そうですよね(笑)。でも、おかげでイギリスのEMIから日本の東芝EMI原盤を海外盤でアルバム・リリースをすることができました。思えばあの時代は“西高東低”と言って「日本の音楽は西欧の音楽には敵わない」というのが常識としてずっと続いていました。日本の音楽は西欧の、あるいはアメリカの音楽のパクりだと、ね。いや、実際に影響の大きさは誰も否定してはいませんよね。でも、パクるんじゃなくて影響を受けて咀嚼し、日本の音楽にしてきたんです。加藤君は言わばコンテンポラリー・フォーク(戦後のフォーク・ミュージックの初期)を完璧に把握していました。とにかく詳しいんだ。ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーはもちろん、キングストントリオだって何だって知ってる。もちろんビートルズは言うに及ばず、デイヴィッド・ボウイだって完全にコピーできるほど研究していました。その感性の速さと強さには驚きましたね。西欧の音楽を模倣することから、洋楽をしっかりと咀嚼して日本の音楽のオリジナルを作るということにおいて加藤君の知識は重要な意味があったんだと思います。

――ミカ・バンドは成り立ち自体にも当時の加藤さんが考えた新たなバンドの在り方が反映されていると思います。

新田 ビートルズのメンバー、ポール(マッカートニー)は奥さんのリンダとウィングスを作り、ジョン(レノン)はオノ・ヨーコさんとプラスティック・オノ・バンドを作った。サディスティック・ミカ・バンドはモロにプラスティック・オノ・バンドからきてますからね。加藤君は「これからは家族が核になったバンドだよ」と言っていました。ヨーコさんもミカさんも所謂ミュージシャンではありませんが、個性が強くシンボリックな存在です。

――ファーストの『サディスティック・ミカ・バンド』とセカンド『黒船』の大きな違いはどこにありますか?

新田 一つはバンドの編成。最初のドラムはつのだ☆ひろさんですが(高橋)幸宏さんに変わった。そしてファーストにはキーボードがいなかったけど、セカンドで今井裕さんが入ってきた。この二点はバンドのサウンドに大きな変化をもたらしています。そして最大の違いはセカンドの『黒船』にはプロデューサーとしてクリス・トーマスがいます。

――エンジニアはどちらのアルバムも蜂屋量夫さんですよね。

新田 そうです。当時はレコーディング・エンジニアのほとんどがレコード会社所属、所謂ハウス・エンジニアでした。蜂屋君は東芝EMIのエンジニアです。彼のレコーディング技術も偉大なんです。70年代初期、イギリスではグラム・ロックが流行っていて聴感的にレコードの音がデカい。リミッターを使って音量を突っ込んでいってました。加藤君も「リミッター、リミッター!」って呪文のように言っていた。そこで蜂屋君とのファースト・アルバムのレコーディングは最初のテーマが「T-REXよりも音を突っ込もう!」と(笑)。かなり突っ込んでると思いますよ、70年代初期の日本のロック・サウンドとしてはね。

――あとからフォローした世代の僕にはどれだけ「突っ込んだ」音かは判断できないんですけど、改めてハイレゾでファーストを聴くと、ところどころヴォーカルが歪みそうだったりしてますし、ドラムのキックとベースの音がデカいですよね。

新田 そうかもしれません。でも、もちろん東芝EMIのスタジオの機材なんて大したことはなかったから、実はそんなに音がデカくなったりしてないはずなんです。だから今はちょっと冷静になって「突っ込んだのは音以上に情熱だったんだな」なんて思いますね(笑)。だけど、ファーストの時点で加藤君は吉田拓郎のアルバム・プロデュースをやったりして、言わばアーティスト・プロデューサーの先駆けで、スタジオで言ってたことはエンジニアにすごく近かった。工学的な技術はないから、そこは蜂屋君とガッチリ組んでいましたけど感覚的にはそこら辺のエンジニアよりも優秀だったと思います。

――加藤さんはプロデューサー気質だったんですね。

新田 ザ・フォーク・クルセーダーズで大ヒットを飛ばしたし、東芝EMIの“エクスプレス”からソロ・アルバムも出した。次に彼がやってみたいことが二つありました。一つは加藤和彦個人のレーベルが欲しい、と。それがミカ・バンドをリリースした東芝EMI内の“ドーナッツ・レーベル”です。日本のメジャー音楽メーカーの中にアーティスト個人の自由度が保証されたレーベルなんてなかったんじゃないかな。もう一つはライヴのPAです。70年代は海外のバンド、アーティストが来てライヴをやると前座は日本人のバンドたちです。そうすると日本のバンドの音はPAのマスターで音を下げられちゃうんです。独自のサウンド・システムが日本にはなかったからね。それでイギリスのライヴ・サウンドを目標にして加藤さんがPA一式を買ってシステムを組んで、PA会社を設立しちゃうんです。それが“ギンガム”って独自のライヴ・サウンド・システムの会社です。そこに社員としていたのが重実博君です。忘れることが出来ないスタッフの一人ですね。彼は松任谷正隆さんと同級で慶応幼稚舎から一緒でしたね。重実くんも『黒船』のレコーディングに参加し加藤君のみならず何かとメンバーのヘルプもしてくれました。勿論、私の補佐もしてくれました。イギリスにおける、ロキシー・ミュージックとのジョイントツアーにも私の代理で同行してくれるなど、ミカ・バンド、『黒船』を語るとき黒子としての重実君を外すことは出来ないんです。その後、彼は東芝EMIに入社し、私の部に配属されて稲垣潤一君などを担当してヒットを出すことになるんです。

――改めて考えると一人の音楽家がメジャー・メーカー内にプライヴェート・レーベルを持ったり、PA会社を作っちゃうなんて欧米でもなかなか例がないです。

新田 バンドを作るだけではなくて、「これからの時代」を作ろうとしていたんだと思います。だから彼はファーストの『サディスティック・ミカ・バンド』はまだまだ中途半端な挑戦だと考えていました。常に「次は世界だ!」と言っていました。では「世界に通用するアルバムを作るにはどうすればいいか?」。それはやはり「世界的なプロデューサーを起用すべきだ」となるわけです。加藤さんが僕らに提案してきたのがクリス・トーマスです。

――彼はすでにビートルズに始まり、プロコル・ハルムにピンク・フロイド、加藤さんも影響を受けていたブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックと、まさにイギリスのスーパー・プロデューサーになっていましたね。

新田 それでクリスにプロデュースを依頼に行ってくると僕が言うと、加藤君も一緒にと。加藤君が行くとなれば幸宏さんも高中さんもと、男どもがゾロゾロとロンドンへ(笑)。僕らは予算がなかったから一泊4ポンドくらいの宿ですよ。ミルクと紅茶とパンが一切れの朝ご飯ってホテル。ベッド&ブレックファストですね。すでにクリス世界的なプロデューサーです。どうやって彼に会えたのかと言うと、僕がたまたまジョージ・マーティンさん(ザ・ビートルズのプロデューサー)弟子でもあって、その頃、幸運にもマーティンさんの秘書のシャーリー・バーンズさんがクリスの秘書を兼任していた。バーンズさんが親身になってコーディネートしてくれたこと、クリスがミカ・バンドのファーストを気に入ってくれたことでプロデュース依頼の交渉は思いの外に上手くいきました。ほぼ二日で契約まで漕ぎつけたんじゃないかな。加藤君たちは余裕が出来て、その週末にはパリに遊びに行ってましたから(笑)。

――クリス・トーマスさんとの契約で差し支えない内容を教えていただけませんか?

新田 とにかく大きかったのはレコーディング期間、つまり彼の日本滞在期間です。2カ月も必要だと言うんですよ。もう世界的なプロデューサーですからね、それ相応のホテルに滞在してもらおうと思って都内のホテルで宿泊費を計算したらそれだけでアルバム制作費が吹っ飛ぶ金額になりそうでした。そこで僕が産まれて初めて某大手不動産会社を訊ねて一戸建ての家の賃貸物件を探しました。スタジオからあまり離れた場所では困るんで、六本木の星条旗通りに一軒家を借りました。家賃は一カ月15万円くらいだったな。その頃の僕の月給が4万円ですからけっこうな家ですよね(笑)。クリスはそこで2カ月間、完全にサディスティック・ミカ・バンドのセカンド・アルバムのプロデューサーになったんです。

――おそらく日本で初めてアルバム丸ごとを海外のプロデューサーに完全委任した作品だと思います。

新田 そこからがたいへんでした。レコーディングの初日です。クリスがレコーディングをしないんですよ(笑)。東芝EMIの1スタ(第1スタジオ)のコンソールの「スピーカーの左右バランスが違う」と彼が言うんです。それだけでなく音質まで違うと言い出した。スタジオのスタッフは「そんなはずはない」と。なぜなら当時の東芝EMIのスタジオのメンテナンスは細心の注意を払っていて、世界的にも誇れる環境を維持していたからです。モニター(スピーカー)はアルテック、604Eというシルバーメタルの機種です。クリスは東芝EMI中から、あらゆるスピーカーを1スタに持って来ては吊るして鳴らして組み直して、「違う」「まだ違う」と延々とやるんです。スピーカーの状態を調整するだけで1日が過ぎ、2日が経つ。僕らはスタジオのモニター環境は「そういうものだ」と信じ切っているのが当然だった。でも彼は完全にモニター調整ができなければレコーディングはしない。「海外のプロデューサーはすごいなぁ。スタジオのスピーカーを変えさせちゃったよ!」とただただ感心するしかなかった(笑)。

――今でもそんなことは誰にも出来ませんよ。プロデューサーがモニター環境を変えちゃったら今度はエンジニアがモニターを信じられなくなります(笑)。

新田 次にね、スタジオのイコライザーのシステムは当時の東芝電機が作ったものでした。まだSSLやニーヴ(いずれも70年代後半以降に日本でもスタンダードになったレコーディング/ ミキシング卓、録音システム)もないですからね。クリスは「こんなシステムじゃ足りない」ってんで、東芝EMIにありったけのイコライザーを片っ端から1スタに持ち込んでどんどん繋げていってデカいシステムを作っちゃったんです。さらにリミッターも足りないってあちこちからリミッターを持ち込んでモジュールに繋いでしまってね。気がつけば1スタのコンソールは軍艦みたいな物々しい様相ですよ。僕らはみんな「これが1スタかよ!?」と(笑)。そうなってくると、1スタはもうクリス以外の誰にも使えないスタジオになってしまっているわけです。当時はロックアウト(数週間から数カ月間、一つのスタジオを独占的に使用すること)なんて言葉はなかったけれど、自ずと1スタはサディスティック・ミカ・バンド専用スタジオと化していました。

――加藤さんのお話によると「アナログのスタジオは一度で電源を落とすと音が変わってしまうから、『黒船』のレコーディングでは電源を落さなかった」とまでおっしゃっておられます。

新田 さすがに2か月も電源を落さないってことはなかったと思うけどね(笑)。加藤君がそう言っているなら、そのくらいの勢いというか、厳重にサウンドを管理していたんでしょうね。とにかく過去やったことがないことばかりをやっていましたから。僕が驚いたのは“テープ編集”です。その頃、録音テープは2インチ、チャンネルは16です。そのテープをクリスが「切ってくれ」って言うんですよ。録音テープは普通に剃刀で切って、別に切ったテープに貼り付けて繋げる。それはいいんです。なぜならそれが出来るテープがあり、それが出来るカッティング・レール(テープを切るための専用の台)ってのがあったからね。でも16チャンネルの2インチのテープですよ。専用のカッティング・レールもないのに、そんな高いテープを日本では誰も切って編集したことなんてないです(笑)。そんなもん怖くて切れないってんで、わざわざアメリカのキャピトル・レーベルに頼んで2インチのレールを送ってもらったんです。その上に2インチの幅、しかも厚みのあるテープを乗せてホルダーでガチャガチャって固定する。そうしないとテープが弛んでしまいますからね。テープは固定された。しかし、切る役目のエンジニアの蜂屋君の手が震えていました。失敗したら、取り返しがつかない。今みたいにデータでバックアップもない。2インチのテープが音の記録の全てなんですから。

――この記事を読んでくださるみなさんにも想像を絶する緊張ですね!

新田 エンジニアの蜂屋君の偉業には暇がないんです。『よろしくどうぞ』のチンドン屋風の演奏の録音も面白かった。ノイマン(ドイツの名門マイク・メーカー)の87(ハチナナ)のマイクを使っています。このマイクは12ボルトで交流じゃなくて直流で使えます。それで電池を入れて複数の87を立てて、スチューダ(マルチ・トラック・レコーダー)でバランスをとりながら当時、デンスケって言われてた2チャンネルのテープ・レコーダーに繋いで録った。一発録音です。ヘンなことをやってましたねぇ。蜂谷君がよくぞそんなわけの分らない録音方法に対応してくれたな、と思います。それにミカ・バンドには管楽器奏者はいなかったけど、この曲のサックスは今井さんが吹いている。彼は芸達者だったので、キーボードだけじゃなくて、マルチに楽器を演奏できたんだ。

――それもクリスさんのプロデュース・ワークですか?

新田 彼は意表を突くと言うか、スタジオの現場を驚かすことが好きだったんです。他にもジーパンを使ってジッパーの開け閉めの音を録ったりとか、コップを5、6個ほど割った音をいくつかのチャンネルに振って、何十個ものコップが割れているような音にする。

――今で言うサンプリングですね。

新田 そうそう、まさにサンプリングの手法をアナログ・テープでやっていた。70年代の初めですからね、それこそが作りたい音に対する創造力です。

――最早、何をやっても社内で治外法権だったんですね。プロデューサーとしてクリスさんを立てた『黒船』らしいエピソードです。

新田 だけど、とても印象的なことがありました。クリスがミカ・バンドのプロデュースをするに当たり新聞のインタビューを受けた際にこう言ったんです。「今回はプロデューサーではなく、ディレクターになりたい」って。僕らはディレクターっていうポジションが嫌でプロデューサーになりたいんですよ。でも、彼は「ディレクターがいい」って。プロデューサーは予算を管理しなきゃならない、レコーディングを順調に進めるためにはメンバーたちの健康管理にも気を使わなきゃなりません。クリスは『黒船』に関してはそんなことを考えずにディレクターとしてレコーディングのクリエイティヴに徹したい、集中したいと言ったんです。そういう彼の姿勢が罷り通ったのは日本のミカ・バンドであり、『黒船』だけだったのかもしれません。だから、彼がレコーディングに集中できるように、それ以外のことは僕が全部やった。さっきお話した『黒船』の海外盤では僕はエクゼクティヴ・プロデューサーという肩書になっています。それはディレクターよりもエラいということではなくて、クリスをディレクターとしてレコーディングに集中してもらうために僕が出来ることをやった、それだけです。僕は喜んで裏方になりました。

 

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クリス・トーマス氏(左)と新田和長さん(右)。今回新田さん自らご提供いただいた貴重すぎる一コマ!

 

――そこにクリスさんと新田さんの暗黙の了解があったんですね。それと、もう一つ、『黒船』のレコーディングではメンバーたちはほとんど曲を作らないでスタジオに入ったという説があります。現場でヘッド・アレンジをするライヴ感を活かしたかったのかな、と思うのですけど。

新田 うん、それは間違いないです。ライヴ感というよりは実験的と言ったほうがいいかもしれない。全く何も無い状態でスタジオに入ったというのは誇張だけど、そういう意味では“ほとんど”曲は出来ていなかった。スケッチ的なメロディはあっただろうし、作詞をされた松山(猛)さんと加藤君が話をして、「日本から世界へ、世界から日本へ」って逆輸入の発想で「イギリスのプロデューサーのクリスとアルバム作ってやろう」ということでの『黒船』というコンセプトもあった。日本人バンドが海外のプロデューサーと『黒船』を作るんだってね。だからスタジオでクリスが居る現場で曲を作る。一緒に実験してみる。「一緒に黒船を作って世界に向かって船出するんだ」ということでしょうね。

――予め曲を作らず、アレンジせず、リハーサルもしていない状態の『黒船』のレコーディングで最も印象的な曲はどれでしょうか?

新田 1曲目の『墨絵の国へ』かな。

――意外ですね!ミカ・バンドの代表作とは言われていませんけど。

新田 この曲はね、幸宏さんのナレーションと言うかな、詩の朗読が素晴らしいんですよ。彼の詩の朗読が左と右、ステレオでそれぞれに違いますよね。一つの朗読テイクをパニングしてグルグル回したんじゃなくて、敢えて左右を別々に録って加藤君のヴォーカルとはタイミングをズラしています。丁寧にレコーディングしました。

――幸宏さんは今や世界的にも有名な「曲を作って唄ってドラムを叩くシンガー・ソング・ライティング・ドラマー」ですけど、幸宏さんの「声」が初めてきちんと聞こえたのはこの曲だと思います。

新田 こういう録音にこそ時間がかかるわけです。何でもなさそうなことなんだけど、アルバムではスゴく意味がある。

――それに、この曲の小原さんのベース・ラインが最高にファンキーですね。ゆったりとしている曲なのに、リズミックです。

新田 こうやってハイレゾで聴くとベースの響きが伸びやかですね。ベースをPAで鳴らしてルーム・エコーを使って響きを拾っているように聴こえます。でも、小原さんのベースはこのときは全てライン(ミキサー卓に直接繋ぐ)で録っています。これって、ハイレゾがミックス段階でのエコー処理を活かしているからなんでしょうね。個人的な感想だけど、ミックスの仕方が良く分るなぁ。『黒船(嘉永6年6月4日)』を聴いてみましょう。

――完全にプログレッシヴ・ロックですね。

新田 良くこんなアルバムを作れたなぁ。本当にすごいアルバムですね。今でもそう思います。

――今井さんのキーボードのフレージング、幸宏さんのドラムのタイトさとエコー処理に高中さんのギターが奔放に重なって……。時代が交錯すれば、ミカ・バンドが先かピンク・フロイドが先か?というくらいにプログレです。

新田 この曲は今井さんのキーボードからの始まりもいいし、高中さんのギターの語り方もいいんだけど、何よりも幸宏さんのドラムの入り方が最高なんだよねぇ。あのドラムのフィルに震えるために何度、この曲を聴いたことか(笑)。ハイレゾで聴くと確かにドラムのエコーも実に気持ちいいですね。

――『黒船』はファーストに比べると全体のミックス・バランスが整っているように聴こえます。

新田 『黒船』では「音圧を突っ込む」ということに拘るのをやめたんです。クリスがモニターのバランスに徹底的に拘ったというように、音圧よりは加藤君が理想としたアルバムの世界観とメンバーそれぞれの演奏力、エンジニアの蜂屋君とクリスの実験。そのバランスがあって出来たアルバムです。

――デジタル機材がないときに、どうやって録音してミックスしたのかが分らないエフェクトもあります。

新田 フェイザー(音の位相をズラす効果を出す)みたいな機材も東芝EMIのスタジオにはなかったからね。それで、どうやってフェイザーみたいな音を作ったかと言うと、録音した音をスピーカーで鳴らして、それをマイクで録り直すんですよ。

――録った音をまたモニター・アウトして、それを……?

新田 そう!ご想像の通りです。ステレオでモニター・アウトした音をまた二本のマイクでステレオで録るんですけど、そのときにスピーカーの前で二本のマイクを手動で左右に大きく振るんです。そうするとマイクから拾う音に「シュワシュワ」という左右に響く妙な音響効果が出る。フェイザーに近い音が出来るんです。フェイザーがないなら、フェイザーに近い音を手で作る。

――そうなってくると音響バカですね。

新田 バカですよ(笑)。日本のマイクをスピーカーの前でブンブン振るなんて傍から見たら「オマエら何をやってんだよ?」という姿です(笑)。でも、それが面白い音を作る。今のデジタル・フェイザーでも出来ない音が出来るんです。

――『黒船』って、僕らの世代にとっては革新的でありながらも、スタンダードな作品なんですけど、新田さんのお話を伺っているとデジタル・レコーディングになった今でも手動で面白い音が作れそうなヒントがたくさんあるんですね。

新田 クリス、蜂屋君と加藤君、メンバーたちが『黒船』を東芝EMIでレコーディングしたことで音楽的にというだけではなく、音響だったり録音技術的に東芝が獲得したことは多かった。『黒船』によって日本で初めて実現したサウンドがあります。この音を真似した音楽メーカー、音響機材メーカーの方々は少なくなかったと思います。

――『黒船』は音楽的というだけでなく、録音、音響的にもチャレンジされていたんですね。

新田 「どうして一枚もヒットもないバンドのアルバムにあんなに時間がかかったのか?」と思えば、実験をする時間が必要だったということなんですよ。すでに出来上がっている曲をただ音として録ればいいって言うのが当時の日本のレコーディングの主流だったけど『黒船』ではスタジオでクリスと蜂屋君と加藤君がスタジオで理想のサウンドを議論する時間も必要だったんだと思います。

――日本では『黒船』はどれだけ売れたんでしょうか?

新田 僕はプロデュース側でセールス側ではなかったから正確な数字は分らないですけど、国内では少なくとも8万枚は売れていたんじゃないかな。今ならかなりのヒットですよね。最終的には15万枚くらいは売れたんじゃないかな。

――『黒船』がリリースされて、ミカ・バンドはイギリスでブライアン・フェリー率いるロキシー・ミュージックとツアーを敢行しました。クリス・トーマスさんの力も大きかったとは思いますが、ミカ・バンドは西欧で歓迎されたようですね。

新田 蜂屋君と話をしてみると事実としては必ずしも成功していたとは言えない。会場によっては前座のミカ・バンドのときにはお客さんが外に出ていて、ロキシー・ミュージックになったら大盛況ってこともあったらしい。

――ロキシー・ミュージックとのツアーを終えて日本に帰ってくるとき、ミカ・バンドのメンバーは「さぞや空港でファンもメディアも待っているだろうと思ったら誰も待ってなかったからガッカリした」という話もあります。

新田 それはねぇ・・・僕らスタッフがもっと気を使えば良かったよね(笑)。凱旋して歓迎されるだけのことはやったんだからね。音楽評論家たちだって諸手を上げて『黒船』を評価してくれていたのに、大ヒットにはなってなかった。でもね、加藤君、メンバーたちは当時の日本ではサディスティック・ミカ・バンドの音楽は大ヒットはしないという予感はあったんだと思います。だからこそ、世界に出る意味があったんだろうな、と。

――『黒船』をリリースして売るための東芝EMIの戦略はどんなものでしたか?

新田 やっと『黒船』が完成して、リリースになるってときに僕はレコードの帯に「録音時間300時間」って書きました。どれだけすごいレコーディングだったかを時間で表してリスナーに伝えよう、とね。でも、それはウソなんです。実際には600時間はかかっていました。だけど、「録音時間600時間」って書いちゃうと、東芝EMIの誰が見ても制作予算をオーヴァーしちゃうんです。僕が会社から怒られちゃうよね!だから、仕方なくて半分の「300時間」って書きました(一同爆笑)。本当は「600時間」って書きたかったんだけどねぇ(笑)。でも、僕らの悪知恵ですね。リスナーにはとっては「300時間」でもスゴいわけですから、実際にかかった時間の半分でも驚いて興味を持ってもらえるだろう、とね。

――加藤さんも、新田さんも、クリス・トーマスさんもそれぞれに気質はプロデューサーなので、相互が当たり合うことはなかったんでしょうか?

新田 それはなかったな。クリスが先生で加藤君も僕らも生徒。彼が言うこと、やろうとすることを理解してメンバーに伝えてレコーディングするという意味では加藤君もプロデューサーだったし、クリスが2カ月に渡ってミカ・バンドのレコーディングに集中するために僕がやったこともプロデューサーだったとも言えるのかもしれない。それぞれが『黒船』というとてつもないアルバムを作るために出来ることを精一杯にやっていただけです。それは、「僕らには出来ないことはない」、「日本で作られる音楽が世界へ行けるだけの力を持っている」というメンバーたちの感性と演奏力の素晴らしさへの確信があっただけですね。

――『黒船』のサウンドから今でも伺える多幸感はその確信から40年以上経っても活き活きとしていると思います。

新田 ハイレゾになった『黒船』を聴いて、ありありと思い出すのはやはりあの軍艦のようになったレコーディング・スタジオです。東芝EMIの1スタがクリス・トーマスというプロデューサーによって僕らが知っているスタジオではなくなってしまった。ケーブルで足の踏み場もない。積み上がった機材で照明も十分ではない。そして暑い。気持ちが熱いだけじゃなくて、積み上がった機材に電源が入っているからスタジオの温度が高くて暑い。その熱量は『黒船』を作るぞ、というバンド、クリス・トーマス、蜂屋君、僕らスタッフ、お互いの理想と尊敬の熱量の高さだったんだと思います。

――新田さんはそうして作られ、これまで“ロック・クラシック”になっている『黒船』を今の若い世代が聴いたときに、どう感じると思われますか?今後、CDではなくハイレゾで初めてこのアルバムを聴く世代も現れるでしょうし、サブスクリプションで初めて聴く世代にもなっていくと思うのです。

新田 アナログ・レコードと聴いたこともないし、CDさえも聴いたことがないという方々の話ですね。音楽業界のセールスの中心であるCDというメディアの恩恵は計り知れません。ソニーとフィリップスが世界で標準化した規格で僕らはここまで音楽を作って、届けることが出来ました。しかし、その規格に捕らわれ過ぎてきたとも言えます。16bitと24bitの差、サンプリング周波数での44.1kHzと96kHzの差。この差は大きい。でも、その差の大きさを知らない世代がこれからの相手になるんですよね。

――音楽がインターネットで流通されるようになってからは、「如何に音楽を圧縮するか?」が重要な技術開発になっていましたし、そういう音に耳が慣れてしまった世代も産まれています。

新田 確かにそうですね。そこで改めて考えてみてください。映像の物理メディアの容量はDVDからBlu-rayへとどんどん大きくなっているのに、音楽のデータはCDを基準にして、それ以降はどんどん圧縮される方向に向かってしまったわけです。しかも、“アナログ・レコード”という僕らの耳に最も充実したサウンドが届くメディアを捨ててしまったんです。
 僕は音楽をハイレゾ化する最大の目標は「デジタル化される音楽がアナログ・レコードの音に近づいていくことだ」とさえ思っています。音楽はどこまで追求しても空気の振動なんですから、声を録るマイクも、その声を聴くスピーカーも完全にデジタル化は出来ないわけです。マイクもスピーカーも電気的ではあるけど、デジタルではない。感覚的にはデジタルには隙間がないように思いませんか?隙間を埋めて圧縮することがデジタルであると。そこで圧縮されるのは音と音の間、隙間、空気の響きなんじゃないかな。「どれだけ小さな空間にどれだけの音を詰め込めるか」という、ね。
 ハイレゾはそうではなくて、デジタルの音像、音と音の間に本来のスタジオ録音で僕らが聴いていた隙間をとり戻せるか、ということのように思うんですよ。
 お話したように、クリス・トーマスというプロデューサーはレコーディング・スタジオで2日もかけてステレオのモニターの空間的な響きを調整しました。その音を僕らは聴いていますし、その音が僕らに最大限に再生出来たのはアナログ・レコードです。CDではその「最大限の音」の再生は無理でした。僕らが知っているスタジオの空間的な響きが届けられるならハイレゾ化にはCDからずっと進んだ音楽の未来があるんだろうと思います。

 


 

サディスティック・ミカ・バンド
『黒船』

M.01 墨絵の国へ
M.02 何かが海をやってくる (インストゥルメンタル)
M.03 タイムマシンにおねがい
M.04 黒船 (嘉永6年6月2日)
M.05 黒船 (嘉永6年6月3日)
M.06 黒船 (嘉永6年6月4日)
M.07 よろしく どうぞ (インストゥルメンタル)
M.08 どんたく
M.09 塀までひとっとび
M.10 四季頌歌
M.11 颱風歌
M.12 さようなら

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 氷室京介、布袋寅泰、松井常松、高橋まことによる伝説のロックバンド、BOØWY。大躍進のきっかけとなり、後の日本のロックシーンを変えたといわれる3rdアルバム『BOØWY』が、オリジナル・アナログ・マスターからテッド・ジェンセン(NY Sterling Sound)による最新リマスタリングによって24bit/192kHz ハイレゾ化リリースされた。30年前の1985年2月26日〜 3月15日、当時まだ東西が“ベルリンの壁”で分断されていたベルリンのハンザ・トンスタジオにて、佐久間正英によるプロデュースのもと、デヴィッド・ボウイの名作アルバム『ヒーローズ』のレコーディングにも参加したエンジニア、マイケル・ツィマリングとともに作り上げた日本のロックシーンにイノベーションを起こした鉄壁のサウンド。その後、ロックシーンはBOØWY前、BOØWY後と分けて語られるようになった。伝説となったベルリン・レコーディングの真相について、BOØWY3rdアルバム『BOØWY』からラスト・アルバムとなった6thアルバム『PSYCHOPATH』までディレクターを担当したユニバーサル ミュージック(※当時、東芝EMI)の子安次郎さんに迫ります。

 

インタビュー&テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)

 


 

【プロフィール】

子安次郎(こやすじろう)

ユニバーサル・ミュージック 執行役員 Prime Music マネージング・ディレクター 兼 USMジャパン 邦楽カタログ本部 統括本部長
1956年東京生まれ。大学在学中に大滝詠一氏と出会い、「ナイアガラ・エンタープライズ」において、「書生」として学ぶ。大学卒業後、東芝EMIに入社し、3年間の営業部配属を経て、制作部門に異動。薬師丸ひろ子のADなどを担当後、BOØWYを担当。BOØWY3rdアルバム『BOØWY』から6thアルバム『PSYCHOPATH』を制作し、バンドをブレイクへ導く。その後、ウルフルズなどを担当し日本のロックシーンを牽引する。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――今回、24bit/192kHzにてリリースされたBOØWY の3rdアルバム『BOØWY』は、1985年の6月22日にリリースされたので、ちょうど30年の節目となりました。このあと8月には、Blu-rayオーディオ盤や高音質CD、重量盤アナログのリリースも控えているそうですが、伝説となったベルリン・レコーディングについてお話を聞かせてください。

子安 ものすごく思い入れの強い作品ですよね。BOØWYに出会わなかったら、とっくの昔に会社をクビになっていたと思いますから(笑)。それに、ベルリンへレコーディングに行く2日前に長男が産まれたんですよ。長男もちょうど今年30歳なので、覚えやすいという(笑)。

――それはすごいタイミングでしたね。子安さんのBOØWYとの出会いを教えてください。

子安 私は当時、どちらかというと歌謡曲・ポップスの制作部にいました。当時、東芝EMIは、BOØWYの事務所であるユイ音楽工房さんに所属していた長渕剛さんや、中原めいこさんをリリースしていました。そんな流れでユイさんのほうから、「(東芝EMIで)バンドをやりませんか?」というお話をいただきました。ディレクターは?となったところで、私が隣の制作部から異動になって、担当することになりました。

――そのころの東芝EMIは、どんなアーティストが活躍していた時代ですか?

子安 やっぱり一番大きいのはユーミン(松任谷由実)、長渕剛さん、甲斐バンドですね。

――その中で、新人バンドで移籍組として迎えられたBOØWYはどういうポジションだったんですか?

子安 実は最初は社内でまったく相手にされてませんでした(苦笑)。当時、ちょうどM-BANDが同じタイミングで移籍してきたんですよ。2つロックバンドが移籍してきて、でも会社的にはM-BANDがイチオシだったんですよね。それは担当として悔しいじゃないですか? だったら逆手にとって「会社の目の届かないところで好きにできるな!」と奮起しました。

――なるほど。それにしてもベルリンでレコーディングって、なかなかない発想ですよね?

子安 なかなかどころか、普通じゃないですよね(苦笑)。BOØWYが移籍してきたときに、進むべき方向性などいろいろ考えたんですよ。とにかくもの凄い才能があるなと。でも才能を全部あらわしきれてない状況が、それまでの彼らにはあったんですね。特にレコーディングに関して。これは誰か兄貴分的に、彼らの才能を引っ張り出してくれるプロデューサーが必要だなと。さて、誰がいいだろうということで候補が3人いて。佐久間正英さん、土屋昌巳さん、伊藤銀次さん。じゃあメンバーに会ってもらおうと。それで最初に会っていただいたのが、布袋さんも会いたがっていた佐久間さんだったんです。でも、佐久間さんは、半分断るつもりだったみたいで(苦笑)。それで「ベルリンでレコーディングするんだったら、やってもいいんだけど……」みたいなムチャ振りをされて。まぁ、そういうことを言えばレコード会社も断るだろうと思ったそうなんですよ。そこで思わず膝を叩いて「それは最高だ!」と答えてしまって(笑)。

――すごい話ですよね。海外レコーディングって滞在費含め、予算的に大変だったんじゃないですか?

子安 これが、意外にも当時のベルリン・レコーディングというのは安かったんですよ。スタジオ代にエンジニア代も含まれていて、なおかつ1週間、2週間とやるとさらに値段が下がって。実際にスタジオを使ったのはレコーディングとミックスで、ちょうど2週間ぐらいでした。そして、結果的にハンザ・トンスタジオでレコーディングしたという経験が、後のBOØWYの成功に凄くプラスになったんです。

――それこそ、ビクターでリリースした1枚目の『MORAL』は一発録りに近かったそうですね。そして、2枚目の『INSTANT LOVE』はメンバーだけの自主制作に近いレコーディングで。実は、BOØWYというバンドは3枚目の『BOØWY』まで、ちゃんとしたレコーディングを経験していなかったということですね。

子安 そうなんですよね。

――そこでいきなり、デヴィッド・ボウイ、ブライアン・イーノ、イギー・ポップ、デペッシュ・モード、ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズの名盤が誕生したベルリンの伝説的なハンザ・トンスタジオで海外レコーディングって、ほんと驚きですよね。

子安 プロデューサーの佐久間さんが、環境が大事ということで提案されていたんですね。海外の閉ざされた空間で、音楽だけに集中できる場所の大切さというか。BOØWYのメンバーは佐久間さんにロックな音作りを望んでいたんです。そこで、本物の欧米のロックを生み出している環境を与えるということが、重要だと考えていらっしゃったようですね。

――実際、日本のレコーディングと比べて、現地でのレコーディングはどのような感じでしたか?

子安 エンジニアは、マイケル・ツィマリングというスタジオを支えていたエンジニアが参加してくれました。彼は叩き上げなんですけどすごく優秀で。レコーディングする時ってヘッドフォンをするじゃないですか? 自分たちの出している音をヘッドフォンで聴きながらレコーディングするんですね。その聴こえてくる音が全然違ったんです。メンバー自身がまず驚いたんですよ。最初に自分たちが「ジャーン!」と音を出したときに、それまで彼ら自身が聴いていた音とまるで違ったそうなんです。みんなが驚きの声を出したのをすごく覚えてますね。やっぱり素晴らしい音を聴きながらプレイをすることによって、プレイもどんどん良くなっていきました。スタジオ自体も、ヨーロッパらしい大きな古いビルで。

――もともとナチスの娯楽施設を改良したスタジオだったらしいですね。

子安 壁がとにかく厚くて。普通はスタジオの扉って、ぎゅっと閉め切ったりするじゃないですか? でも、ちゃんと閉まってなくてもいい音なんですよ。石造りの文化ですよね。建物自体の鳴りがものすごく良かったんです。響いてる音がまるで違う。開放的な環境でした。

――初の海外レコーディングで、エンジニアも海外の方というと、メンタル的に大変だったりということはなかったんですか?

子安 メンタル面で大変だったという記憶はないですね。もちろん身振り手振りのカタコト英語でコミュニケーションだったんですけど「音を出せばわかる」みたいな交流が生まれました。そういえば、スタジオの1階のレストランが美味しかったんですよ。そこのメニューでヴィーナー・シュニッツェルっていう、日本のトンカツのような料理があって、非常にホッとする味でした(笑)。毎日それを食べてましたね。2年目からはトンカツソースを持参して、ボトルキープしてもらってました(笑)。

――ハハハ、それはいい話ですよね(笑)。でも当時は、いわゆるドイツを東西に分けた“ベルリンの壁”があった特殊な時代ですよね?

子安 そうなんですよ。ハーヴィス・インターナショナルというホテルから壁ぞいを歩いて3分、スタジオまで毎日通ってました。石炭の匂いがする真冬のベルリンという生活でした。ホテルのドアマンの方が優しい笑顔で迎えてくれたことを今でも覚えています。

――ロンドンで活動されていたフォトグラファーのハービー山口さんも同行されていたんですよね?

子安 そうですね。アーティスト・ヴィジュアルとなる写真を撮っていただきました。

――プロデュースが佐久間さんで、写真がハービー山口さんというのも素敵な巡り合わせですよね。しかもベルリンでという。

子安 その後いろんな面でお世話になる人たちが、このプロジェクトに集まってきてくれていました。

――BOØWYって、ヴィジュアルをすごく大切にされていたアーティストだと思います。ベルリンでの様子を押さえた写真集だったり、映像素材であったり。アーティスト・ブランディングとして、どんなイメージをアウトプットしていこうというのは見えていたんですか?

子安 ヴィジュアルに関してメンバー自身のこだわりがすごく強かったですし、スタッフもそれを理解していましたね。そういう意味での迷いは無かったと思います。ちなみに、ベルリン・レコーディングをコーディネーションしてくださったのが、GSで活躍された加藤宏史さんがロンドンで設立したL.O.E ENTERTAINMENTという会社でした。そこからヴァン・モリソンやミック・テイラー、ケイト・ブッシュなどと共演されたクマ原田さんにつながったんですね。クマさんが現地コーディネーションをしてくださいました。さすがにヨーロッパの暗い感じの空港に降り立ったときは心細かったんですけど、クマさんが空港でにっこり笑ってらっしゃって、ほんと助かりましたね。沢田研二さん、布袋さんのソロ、花田裕之さん、今井美樹さん、高宮マキさん、湯川潮音さんのツアーやレコーディングに参加されてますね。

――クマさんとの出会いはそこでだったんですね。その後も、クマさんとの付き合いが続いていくわけですもんね。

子安 そうですね、いろんな形で続いていきますね。

――そんな環境でレコーディングされた『BOØWY』が、今回24bit/192kHzとして、ハイレゾ音源で配信されますが、聴かれてみていかがでしたか?

子安 ベルリンの素晴らしい環境の中で録った本当にいい音なんで、それが30年たって、時代のいろんな進歩とともに当時のスタジオで録音した環境に近い音で聴けるというのは感動ですね。空気感ってやっぱり大事で、当時の思い出がよみがえってきましたよ。

――今回テッド・ジェンセンによる、オリジナル・アナログ・マスターからのリマスタリングということで、こだわりも感じますね。オリジナルを忠実にされているなと感じました。

子安 そうですね。いいマスタリングをしていただきましたね。本当に、聴き所がたくさんあると思います。まずは、最初の出音、1曲目「DREAMIN’」のリフの鮮やかな響きがすごく印象的でした。

――では、ちょっと聴いてみましょうか。

 

note「DREAMIN’」(試聴

 

子安 いや~、かっこいいですよね(笑)。あの頃のベルリンの空気感がよみがえってきます。

――ハンザ・トンスタジオで録ったからこそこの硬質なビート感が生まれて、その後BOØWY以降、ビートロック的なカルチャーが生まれて80年代末にバンドブームが起きました。佐久間さんも、日本のオリジナルのロックを生み出す方法論をBOØWYと出会ったことで掴んで、その後のプロデュースワークにも活かせたと話されてましたね。子安さんはもともと大瀧(詠一)さん周りで書生として学ばれていたと思いますが、ニューウェーヴなロックと、日本ならではのポップミュージック・センスを上手く融合したBOØWYならではのオリジナルなロックを、どのようにとらえられていましたか?

子安 最初にデモテープを聴かせてもらったときの印象ですね。デモの時点でとても素晴らしかったんですよ。作品もいいし、歌も素晴らしいし、いままでにない新しさを感じていました。これはどこまで化けていくんだろうと、未知な感じがすごくしました。

――布袋さんは、デモテープの時点ですごく作り込まれてきますし、音楽的才能というのをこの時点で感じられたりしましたか?

子安 最初に20曲以上デモテープで聴かせてもらって。これはこういう傾向の曲という風に、方向性として3つぐらいに色分けしたんですね。それを見ても単にビートロックとは括れないような音楽性、スケール感の大きさ、幅の広さを感じていました。それこそ、今回ボーナストラック的に収録されている「“16”」なんかは、そうして色分けした中の2つの楽曲をひとつにしたらどうなるんだろう?みたいなところから始まって生まれた曲なんです。

――なぜ、もともとは別々だった曲(未発表曲の「TEDDY BOY MEMORIES」と「BOOGIE」)をひとつにされたんですか?

子安 みんなでミーティングをしてた時に……、誰が言い出したのかはちょっと思い出せないんですけど、「頭のスローパートと、アッパーなパートをくっつけてみたら面白いんじゃないかな?」って話で盛り上がったんですね。

――かつてのインタビューでも、子安さんがこの曲をとても推していた記憶があるんですけど。

子安 個人的にとても好きな曲なんですよ(笑)。

――「“16”」は、1985年6月1日にリリースされた、シングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」のカップリング曲として収録されたわけですが、なぜ当時はアルバムに収録されなかったんですか?

子安 ベルリンでのプロジェクトでは一番最後にレコーディングした曲だったんです。アルバムに先駆け、シングル盤「ホンキー・トンキー・クレイジー」を出す上で、B面はアルバムに入っていない曲にしようということになりました。

――「ホンキー・トンキー・クレイジー」が、BOØWYの1stシングルとなりましたが、この曲についてはいかがですか?

子安 「ホンキー・トンキー・クレイジー」は、メンバーにシングル候補をデモで聴かせてもらったときに、もう一回作り直してくれないかというお願いをしたことがあって……それに応えてくれた作品なんです。そういう意味でも思い入れが強い曲ですよね。

――この曲だけ、作詞作曲が「BOØWY」名義になってるんですよね。

子安 そうなんですよね。レノン=マッカートニーじゃないけれども、みんなでとにかく作り上げた作品ですね。どこが氷室さんで、どこが布袋さんのパートかって考えると面白いかもですね。

――ビートロック・バンドだけではない、オールディーズ的なポップ感をニューウェーヴで料理したかのような、オリジナリティあふれるポップセンスが開花してますよね。

子安 そうなんですよ。引き出しの多さがすごいですよね。あのコーラスワークを含めて、ロックバンドの方法論として画期的だと思いますよ。あと忘れられないのは、とにかく彼らはレコーディングが早かったですね。彼ら自身が、どういう出来上がりになるかっていうのが最初から見えていたんでしょうね。

 

note「ホンキー・トンキー・クレイジー」(試聴

 

子安 ライブでほとんど毎回演奏されていた曲ですね。外人女性のコーラスや、掛け合いでバンド名があったり、BOØWYらしいシングルへのアプローチがみられますね。

――そういえば、ベルリンのレコーディングのあと、ローリングストーンズ、ヤードバーズ、レッドツェッペリン、ザ・フー、キングクリムゾン、イエス、ジミー・ヘンドリックス&エクスペリエンス、ピンクフロイドなどが出演したロンドンの名門ライブハウス、マーキー・クラブで初海外ライヴをBOØWYは行っているんですよね。

子安 そうなんです。ちなみに、私はライヴには行ってないんですよ。メンバーはレコーディングが終わったらイギリスに渡ってライヴをやりました。私と佐久間さんは、マイケルといっしょにスタジオに残ってミックスの作業をやって、終わってからロンドンに合流したんですね。

――合流はされたんですね。

子安 当時はベルリンから日本には直行できなかったんですよ。パリかロンドンかモスクワからしかアプローチできなかった。帰り道だったんですね。

――当時、海外ライヴって画期的だったんじゃないですか? しかも名門マーキー・クラブでなんて。

子安 L.O.E ENTERTAINMENTがコーディネーションしてくれたおかげで実現したんですよね。後に映像集としてリリースした『“GIGS”BOX』に当時の模様が収録されていますね。

――そして、帰国後は4月に赤坂ラフォーレミュージアムで、マスコミを招いたコンベンション的なライヴを行い、6月には無謀といわれながらも渋谷公会堂で初のワンマン公演を成功させるという、ものすごいスピード感で動員を広げていきました。このスピード感を、子安さんはどう感じられていましたか?

子安 1985年歌謡曲全盛の当時、BOØWYのようなロックバンドが、どうやって世の中にアプローチしていくかって方法論は無かったんですよ。当然テレビに出れる場所は無いし、ラジオでもなかなかかかりませんでした。そんな中で大事だったのがライヴで直接ファンに伝えるということ。あと、レコード店の店頭、そして有線。新宿有線で1位を獲ったりしていました。あとはソニーさんが旗振りになって『PATi PATi』など、音楽雑誌が盛り上がってきていたんです。我々が徹底してやったのはこの4つでしたね。

――そして同時期に、レベッカが売れてきたり、TM NETWORKや米米クラブ、バービーボーイズなど、新世代のバンドが同時期に現れて、ジャンルは違えど音楽シーン全体に勢いが生まれつつあったと思います。BOØWYは、動員力だったり常に開拓者として一歩先を走っていた感じがあるのですが、子安さんの中では、80年代中盤に生まれた新しい音楽シーンに関してどのようにお考えでしたか?

子安 振り返ってみてそうなっていたんだなって感じなんです。BOØWYをやってる最中は、とにかく短期間で駆け抜けたバンドだったのでまわりは見えていませんでした。今と違ってネットもないですしね。常にレコーディングして、ツアーしてプロモーションをやって……という繰り返しで。一切振り返ることがなかったんですよ。とにかく目の前にいるファンの人たちを信じて、作品を届け、ライヴをすることが最大のテーマでした。

――そうですよね、1985年に3rdアルバム『BOØWY』をリリースして、1986年には武道館でワンマン、1987年のクリスマスに渋谷公会堂で伝説の“解散宣言”をしてしまったワケですもんね。実質3年で駆け抜けたという。短いといえば本当に短い。

子安 そうなんですよ。いま、同じようなことを他のバンドでやろうとしても絶対にできないと思います。あの奇蹟的なスピード感というのは。

――それこそ、佐久間さんとの出会いであったり、成長のきっかけとなった海外レコーディングなど、いろんな要素が上手く噛み合ったということなんでしょうね。

子安 結果として彼らのすごい才能がどんどん外に外に広がっていったということが最大の成功の理由なんでしょうね。

――才能ということでいうと、「BAD FEELING」という曲は布袋さんがソロで歌い継がれてますが、この印象的なイントロのギター・カッティングであったり、パーカッシヴでグルーヴィなファンクチューンというのは「只者じゃない!」ですよね。日本の曲でああいうセンスって今を持ってなお無いですよね。

 

note「BAD FEELING」(試聴

 

子安 ほんとそうなんですよ。3ピースのギターバンドでの表現として驚きますよね。いかに音楽性が高かったかがわかると思います。BOØWYならではのオリジナリティですね。ハイレゾだと、アタック感が絶妙に伝わってきますね。

――レコーディングでは、様々なアプローチがあったと思いますが、「黒のラプソディー」ではパブロックっぽい要素だったり、「BABY ACTION」はリズミカルなナンバーだったり、「唇にジェラシー」は氷室さんらしい艶やかなナンバーなど、いろんな要素が詰め込まれています。ディレクターとしてBOØWYを形にしていく上で、子安さんの中で大事にされていたことは何ですか?

子安 私がやったことっていうのは、彼らが才能を発揮できる環境をつくるっていうことだけだったと思うんですよ。彼らが才能を発揮してくれればそれが一番いいワケなんで。そこが一番気を使ったところですね。

――この『BOØWY』というアルバムは、10曲中半分が氷室さん曲というバランスで成り立っているんですよね。その中で「CHU-RU-LU」という曲は、氷室さんと松井さんがアマチュア時代に在籍していたデスペナルティというバンド時代に制作された「ブルー・シガレット・ラブ」という曲が原曲で、BOØWY以前からあった曲なのですが、この曲のデモが3バージョンほど海賊版として出回っていて、聴いているとBOØWYというバンドが、ニューウェーヴの洗礼を受けて出来上がっていく過程というのが見えるんですよね。最初すごく歌謡テイストだったものがどんどんセンスが生まれ変わっていくんですよね。

子安 なるほどね。私の出会いは3枚目のこのアルバムからなので、それ以前はわからないんですけど、そのお話はわかるような気がします。3枚目の『BOØWY』というアルバムは、彼らのこれまでとこれからが絶妙に交差している作品ですね。そして、翌年のリリースとなる4thアルバム『JUST A HERO』でバンドとして完全に覚醒していきます。

――ですね、覚醒という意味では「DANCE CRAZE」という布袋さんのソロボーカル曲がアルバム『BOØWY』に入っているのはインパクトがありました。デモでは、実は氷室さんヴァージョンもあるんですよね。

子安 みんなでミーティングをして「これは布袋さんが歌ったほうがいい」と一致した意見だったと思いますね。このアルバムはいま仰られたように、いろいろヴァリエーションがあるんだけれど、別の言い方をすればひとつの色で統一されている。そこがBOØWYらしさを生んでいてすごいなと思いますね。

――それこそ、3枚目にしてはじめてバンド名をタイトルにつけていますよね。

子安 事務所もレコード会社も変わって、心機一転再スタートという意味合いは強かったのでしょうね。変な大人にもう騙されないぞっていう決意もあったのかな(苦笑)。

――4人の目が並ぶというアートワークもすごくインパクトがあるんですけど、どうやってこういう形になったんでしょうか?

子安 これはもう亡くなってしまった私の同期なんですけど、デザイン部にいた小林さんという方が出してくれたアイデアなんですよ。初めて、事務所のユイ音楽工房の会議室でメンバーと会ったときに、とにかく目の力の強さをすごく感じたんです。迫力があるので怖かったんですよ。向こうからすれば「どうせまたレコード会社の人間に俺たち騙されるんじゃねえか?」みたいな、そういう穿った目で見ている感じがひしひしと伝わってきまして(苦笑)。なおかつ、「子安さん、いままでどんな(アーティストを)担当をされてたんですか?」となって「えーっと、薬師丸ひろ子さんです……」と言ったらみんな椅子から転げ落ちそうになって(笑)。「俺たちロックバンドなのに!」みたいなことでね。

――ハハハ(笑)。当時、子安さんって何歳ぐらいだったんですか?

子安 1985年ということは……、28歳ですね。アートワークが目をフィーチュアしていたのは象徴的でしたよね。

――このアルバムの中で代表曲といえば「CLOUDY HEART」があります。この曲は元々はライヴでもやられていた曲で、「ROCK'N ROLL」というタイトルだったんですよね。

子安 そうなんです。レコーディングしている最中もまだ「ROCK'N ROLL」という曲名でした。でも、エンジニアのマイケルが氷室さんの歌を聴いて「これはCLOUDY HEARTな感じだね」と言ったんですよ。

――この曲は、子安さんにとっても思い入れの強い曲なんじゃないですか?

子安 いやあ……もうすごく強いですよね。このアルバムは「DREAMIN’」から始まって、この「CLOUDY HEART」で終わっていくわけですけど、この曲はやっぱりBOØWYの、彼らにしかできない世界観を持っているし、彼らが解散するっていうのがわかったときにBOØWYの最後の曲はこの曲にしたいなと勝手に思ったことがありました。

――なるほど。

子安 1987年にシングルで「MARIONETTE」が出て、6thアルバム『PSYCHOPATH』も出て。会社からはこのアルバムを売り伸ばすために、アルバムから一曲シングルカットしろと、当時の上司の石坂敬一さんからありました。石坂さんは「PLASTIC BOMB」がいいとアドバイスを頂いたんですが、その時実はすでに解散することが決まってたんですね。でも、石坂さんにも誰にも言えなかったんですよ。そんなこともあって解散ということだったら、やはりA面は「季節が君だけを変える」だろうと。で、シングルなのでB面があるわけですけど、ここは彼らの最後の作品だから……A面が終わってB面ですべてが終わるから「CLOUDY HEART」しかないと。少し音も足したりして……、メンバーにとっても我々スタッフにとっても、もの凄い思い入れの深い作品ですよね。

 

note「CLOUDY HEART」(試聴

 

――あらためて、音がいいですよね。ポイントは、イントロのアルペジオの音の響きですよね。

子安 いいですよねぇ。当時のライヴでは、この曲の前に氷室さんのMCが長かったんですよね。いろんなことを思い出しますね。何より大事なのは、音だけじゃなくてベルリンの空気感がこの中に入ってるということですね。それがすごく感じられます、この音像に。

――以前、氷室さんにロング・インタビューをさせていただいたときに、子安さんのことを伺ったら「大事な友達です」と言われていて。そんな子安さんから見て氷室さんというのはどんな方なのでしょうか?

子安 とにかくとんでもない才能を持った方ですね。あの声は唯一無二のものだし。ものすごく情熱を持ってる方だし。触ると火傷するぐらいのエネルギーを持たれていますね。

――その勢いで引っ張っていったところもありそうですもんね。布袋さんはどんな方だったでしょうか。

子安 氷室さんとはまた違った才能の塊の人ですね。レノン=マッカートニーじゃないですけど、フロントの二人が違った才能だったからこそ、バンドは掛け算以上のものになったのでしょうね。布袋さんは、プレゼン能力も高いんですよ。説明というのがすごく上手いですよね。だからうちの会社では、これは冗談ですけど、うちの会社の営業部長をやって欲しいぞって感じで(笑)。天才的なプレゼンテーションをされますよね。

――じゃあ、松井常松さんは?

子安 松井さんは、すごいピュアですよね。後のソロアルバムにも佐久間さんと作り上げた名盤がありますね。それこそ、アルバム『BOØWY』のレコーディングで佐久間さんにみっちりしごかれ。ベーシストとしてのスタイルが確立されていきました。

――高橋まことさんについてはいかがでしょう?

子安 最高のドラマーであり、最高のキャラクターですよね。とにかく彼がいるからBOØWYってやっぱりBOØWYなんだなっていう。他の3人にないあのムードメーカーなノリですね。たまにレコーディングで、ドラムを叩いてたと思ったらいきなり大声で叫び出して、何事かと思ったら自分の足を打ってたっていう(笑)。バスドラムの音がだんだん小さくなるから変だなと思ったら、叩いてるうちにバスドラムが前に動いてたりとか(笑)。そういう愉快なネタを提供してくれて、スタジオが非常に和むんですよ。

――いまの時代、アナログもまた盛り上がりつつあり、8月には音の良い重量盤のアナログもリリースされますが、高音質CDやBlu-rayオーディオ盤など、オーディエンスの需要に応えることって素晴らしいことだなと思います。次世代への音楽文化の継承にもつながるんですよね。CDに変わる音楽を楽しむフォーマットは、音楽配信やストリーミング・ビジネスなど、いまは本当に過渡期だと思いますが、そうした中で『BOØWY』という作品を高音質なスタイルでリリースできるということは、当時ディレクターだった子安さんとしてどのような感覚なのでしょうか?

子安 時代が進歩して、様々な高音質なフォーマットで聴いて頂けるというのはスタッフ・サイドとしてもすごくうれしいことです。特にこのアルバム『BOØWY』は、最初から最後までアナログでレコーディングしているので、そんな意味ではハイエンドに最も対応している作品なんですよ。

――アルバム『BOØWY』が、24bit/192kHzハイレゾ化されたことは、ファンにとってうれしいと同時に、新たなリスナーの方が聴くきっかけにもつながると思います。あらためてBOØWYの音楽性の高さが伝わると嬉しいですね。あと、最後にお聞きしたいのが、当時の東芝EMIの制作部では、洋楽制作部時代にザ・ビートルズやピンク・フロイドを手がけ、原田知世、薬師丸ひろ子、本田美奈子らを育て、クリエイションを海外で売り出し、音楽業界に大きな貢献をされた石坂敬一さんがボスだったと思いますが、今作『BOØWY』のレコーディングにおいてどんなやり取りがありましたか?

子安 石坂さんご自身が元々欧米のロックを日本に紹介されていた方なんですね。「お前ら、ディレクターはとにかく海外に行かなきゃダメだ!」という持論をお持ちだったんですよ。普通なかなか海外レコーディングって社内では言い出しにくかったりするんですけど、石坂さんはチャンスがあるんだったらとにかく行けと。絶対にプラスになるからいろんなことを吸収して来いと。すごく背中を押してくれましたね。

――そうなんですね。

子安 その代わり、当時はパソコンも、FAXすらまともになかった時代なので。海外に行った際は、毎日電話で報告をしなきゃいけなかったんです。だから石坂さんが会社に出社されたころを見計らって、ベルリンで深夜に、毎晩メンバーがみんな見てる中で電話していました(苦笑)。制作費を抑えるために、私と事務所の糟谷(銑司)さんとマネージャーの土屋さんは3人部屋で、メンバーはそれぞれ2人部屋で、佐久間さんは1人部屋でした。夜は広いところということで、わたしがいた3人部屋にみんなで集まってお酒を飲んだりしてたんですよ。そのタイミングで必ず電話しなきゃいけないという(苦笑)。

――ちょっと緊張しますよね(苦笑)。ベルリンでは観光的なこともできたんですか?

子安 スタジオがあったのが西ベルリンなんですが、観光客は24時間だけ東ベルリンに行って帰ってこれるという制度があったんです。「じゃあ子安さん偵察してきてよ!」ってことになって(笑)。ひとりで東ベルリンに行きました。ドイツ語かロシア語しか通じなくなるんですね。心細いのですが、カフェとか見つけてお茶飲んだりケーキ食べたりして、帰ってメンバーやスタッフに報告しました。で、次の日に残りの全員で行ってましたね。なので、東ベルリンでの撮影の際は僕だけ留守番してました(笑)。

――では、最後にアルバム『BOØWY』秘話を是非……。

子安 そうですねぇ。細かいことですよ。当時は24チャンネルのアナログ・マルチトラック・レコーダーで録音してまして。レコーディングが終わって、メンバーはロンドンに行って、今度はそのテープのミックスダウンが始まったんですけど……なぜか、なぜだかはいまだにわからないんですけど、その前に使っていたエンジニアが、テープレコーダーの1chから24chと、通常の逆につないでいたんですよ。なので、マイケルがマスターに信号を入れる作業をやっていて、空いてるチャンネルに信号を入れ始めたんですけど、何か変だと急に言い出して。テープが逆にセットされていたことに気がついたんですね。そこで、なんと音が入ってるところに信号を入れてしまったんですよ。で、青ざめて「俺はもう一生このまま西ベルリンから帰れない……」と絶望したのを覚えています(苦笑)。結果、ラッキーだったことにドラムのエフェクトした音のチャンネルだったので、それはミックスのときに再現できたんですよ。これがもしボーカル・トラックだったらと思うと、冷や汗どころじゃないですね……。

――まさに不幸中の幸いという奇跡的なお話です。いろんなことがありつつ完成した作品だったということですね。貴重なお話をありがとうございました。

 


 

『BOØWY+1』

M.01 DREAMIN'
M.02 黒のラプソディー
M.03 BABY ACTION
M.04 唇にジェラシー
M.05 ホンキー・トンキー・クレイジー
M.06 BAD FEELING
M.07 CHU-RU-LU
M.08 DANCE CRAZE
M.09 ハイウェイに乗る前に
M.10 CLOUDY HEART
M.11 “16”

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