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「匠の記憶」のトピックス

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 前回に引き続き、ソニー・ミュージック・グループにて洋楽担当ディレクターとして活躍されていた野中規雄さんにお話を伺います。今回のお題は言わずと知れたスーパー・バンド、エアロスミス! しかし彼らも当初はヒットを疑問視され、「倉庫の中にあった売れないアルバム」から発掘されてきたというから驚きです。いかにしてクイーン、キッスと並ぶ「三大バンド」と称されるまでに至ったのか!? またしても飛び出した貴重な証言の数々をお楽しみください。

 


 

【プロフィール】

野中規雄(のなか・のりお)

1948年生まれ。群馬県出身。72年にCBS・ソニー入社。ザ・クラッシュをはじめ、数々の洋楽アーティストを手がけた。退職後は(株)日本洋楽研究会を設立。日本が培ってきた洋楽を後世に残そうと働きかけている。FM COCOLO 放送のラジオ番組『PIRATES ROCK』の制作も6年目に入っている。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――エアロスミスを担当するきっかけは何だったのでしょうか?

野中 アメリカではデビューアルバムが1973年、1974年に2枚目なんだけど、アメリカでほとんど売れてないし、日本には担当したいディレクターもいなくて、日本では未発売だったのよ。輸入盤が倉庫の中にしまわれたまま。当時のCBSソニーにはサンタナ、シカゴ、サイモン&ガーファンクル、ジャニス・ジョプリンとか大物がいっぱいいて、そういうレコードを担当してる先輩ディレクターたちには興味を持たれない取りこぼされたレコードだったんだね。で、1974年にディレクターになったばかりの新米ディレクターの野中はモット・ザ・フープルしか担当してなかったので、他のアーティストを探してた。でも売れ線はみんな先輩が担当しちゃってる。

――だから、発掘しなきゃいけない。

野中 そう、だからしょうがないので倉庫に行って、ボツになった中に担当できそうなアーティストがいるんじゃないかと。それで一枚ずつずーっと探していったら、エアロスミスのデビューアルバムがあった。これ担当していいでしょうかね? って上司に聞いたら簡単に「いいよ~」って。でもその時はアメリカでも売れなかったレコードをいまさら出しても無理だろうということで、とりあえず「じゃあ私もらいましたから」と預かった。 で、3枚目の発売がアメリカの予定に上がって来てた時期に「よし、出そう!」って。それでまずは2枚目の『Get Your Wings』を75年の5月21日に『飛べ!エアロスミス』という邦題で出した。もう次の新譜が見えてるからね、タイミングを見てたってのはある。一年間に発売できるアルバムが3枚あるわけなんで、「ミュージック・ライフ」なんか三回顔出せるかもって計算もできる。

――なるほど。

野中 普通は一年に一枚くらいしか出さないから、一枚出すと翌年まで待たないと新譜は来ないけど、この場合はためてたから、2nd→3rd→1stっていう風に予定通り出していけた。そうしたら運がいいことに4枚目が『Rocks』っていうアルバムで、それがめちゃくちゃいいアルバムだった。それで爆発したみたいな。

――それは全米でも同時にですよね。

野中 そう。このときはもうすでにある程度売れてたんで、『Rocks』は音が届くのを待ってましたって感じ。営業も「今度のエアロスミスの新譜がきたら推しますよ」って体制で……1976年の7月だね。

――私は初めて買ったのが『Rocks』なんです、帯が金色の。

野中 エンボス加工されていてね、宝石のジュエルみたいな。

――ですね。その『Rocks』ですけど、邦題がついてないじゃないですか。それは何かあったんですか?

野中 75,6年あたりから邦題ってものが減ってきてるんだよ、時代的に。もうひとつはエアロスミスが『Rocks』の頃はある程度人気があって確立してたから、邦題で奇をてらう必要がなくなった。じゃあどうして3枚目までは邦題が多かったかというと、売れてない時代は邦題で禍々しいイメージにしないと、新人で、バンド名もカタカナで、タイトルもカタカナだと全部カタカナじゃないですか。そうするとそれがはたしてハードロックなのか、フォークなのか何もわからないから、たとえば『野獣生誕』(※1stアルバム『Aerosmith』の邦題)……これでイージーリスニングなわけはないんだから(笑) あと、少なくともエアロスミスの1枚目2枚目ぐらいまでは、音楽専門誌にもレコードレビューが出なかったのよ、ほとんど。

――ああ。

野中 小っちゃくタイトルと曲目、あとレーベル名と価格、それぐらいしか出ないので。そこで目立つには、邦題の活字しかないじゃない? だからカタカナにはしなかった。でも『Rocks』の頃にはもう邦題はいらないなって。

――続く『Draw the Line』も当然そのままで。

野中 そうそう。あとは世の中もそろそろ……ロックはそっちのほうが(邦題をつけないほうが)かっこいいって雰囲気になり始めた頃じゃないかな。ポップスはまだずっと残ってたけど。

――なるほど。話は戻るんですが……倉庫からピックアップされたときに、何が発売する決め手になったのかなと。

野中 それはもう、「Dream On」だよね。

――あ、楽曲だったんですね。

野中 楽曲。その一曲だけだね。だってあのアルバム、レコーディングもぺらんぺらんだし、将来このバンドが一流のバンドになるなんてとてもじゃないけど思えない音をしてたんで。ただその中で「Dream On」だけは楽曲として絶対的に頭に残ったの。この曲がいいと思うんで、「私担当したいんですけど」となった。それが後々シングルヒットするわけじゃん? アメリカでも。そういうときが一番うれしいんだよ。わー当たってた! みたいな。

――戻ってちゃんとそこも評価されてるってことですよね。

野中 ずいぶん後だよね。実際にヒットしたのは。

――75年~76年初めくらいですね。ではその一曲を聴いてみましょうか。

 

♪「Dream On」試聴

『Aerosmith』収録

 

野中 これが噂のハイレゾ? ブラッド・ウィットフォードのギターの音がこんなに聴こえるなんてありえないよね(笑)

――ははは(笑)

野中 そんなに(音が)入ってたのかっていう。

――解像度が上がってるんで。

野中 今まで曇りガラスみたいだったもんがスパーッて全部現れてくるもんね。

――よく言われるのが、地デジだとごまかせる女優の肌が4Kだと見えちゃう、みたいな(笑)

野中 クリアだよね。でもこれオリジナルの音源は同じなんだよね。

――そうですね。リマスターはしてると思いますけど。

野中 ということは、スタジオでこのぐらいで録ってたってことなのかな。

――そうでしょうね。アナログと比較したらどうかってのは、ちょっとあるんですけど。

野中 だって、あの一枚目のアルバムがこんな音になってたら……違うアプローチしてたよ。

――(笑)

野中 セコかったんだから、アルバムが……(年表を見ながら)これ見るとね、アメリカでの発売が73年の1月だって、1st。日本は76年の1月ってことは……3年間も出てなかったってことか。いまの時代だったらありえないよね。

――2枚目の『Get Your Wings』も、決め手はやっぱり楽曲だったんですか?

野中 『Get Your Wings』は、自分にとって2組目の担当アーティストをいつ出そうかって時期だから、中身がいいか悪いかということより、このアルバムから出すんだと。プロモーションは、磯田さんってサンタナのディレクターの人がやってたブルー・オイスター・カルトってバンドと一緒に、ヘヴィメタルキャンペーンってのをやったよね。ヘヴィメタルって言葉は今でいう「ヘビメタ」とは違う文学用語みたいな立ち位置で、ブルー・オイスター・カルトは確かにそうでも、エアロスミスはそうじゃないんだけど、「ハードロックだからまあいっか、入れちゃえ」みたいな(笑) それと二つ一緒にすれば広告にも載るじゃない。会社はブルー・オイスター・カルトのほうが推しだったんで、エアロスミスを下のほうに付けて。 時期的にはツェッペリンがそろそろピーク打ったかな、みたいな頃で、74年にクイーンが日本デビューして一気に売れてた。「ミュージック・ライフ」は、ツェッペリンの次の世代のスター候補に、クイーンひとつじゃなく二つ三つ組ませたいっていうことでキッスを次にピックアップした。エアロスミスは実はお情けなの(笑) 日本って昔から「三羽ガラス」とかいろいろ言うじゃん。三つ四つ一緒にしてやりたがる……で、クイーンとキッスはほぼ決まりで、じゃあ三羽目を誰にしようかっていう時に、音楽性も違うんだけど「ソニーのエアロスミスでいいんじゃないの」ってことになったみたい。あとはルックスも大きいよね。クイーンが王子様風じゃない? キッスはメイクがあって。その後につづく、“ワル”のエアロスミス……特にスティーブン・タイラーの猿みたいな顔! 音楽もビジュアルも三者三様で。数字的には当時の枚数で言うと、クイーンが60万枚、キッスが30万枚。エアロスミスは10万枚だから、クイーンの6分の1しか売れてないんだよ。「三大バンド」ってことで押し上げてもらって並ぶようになったけど、実は売上的にはもうめちゃくちゃ差があったんですよね。

――そして、『Rocks』の頃には日本もアメリカも揃って大ブレイク。

野中 アメリカは3枚目の『Toys in the Attic』からもうすでに当たってたんだよね。日本ではそこそこだったけど。日本では完全に『Rocks』からで。

――シングルの「Walk This Way」も変なタイミングで売れてませんでしたっけ?

野中 えっとね、「Walk This Way」はアメリカもシングルカットが遅かったの。76年の終わりごろじゃないかな。『Rocks』の後にシングルが出たって感じだったね。……で、さっきの邦題の話でいうとまさに「Walk This Way」に「お説教」ってつけたわけじゃない。「お説教」ってつけて発売したのは『闇夜のヘヴィ・ロック』だから……75年か。で、来日が決まったときにアメリカでシングルカットが「Walk This Way」だとわかったわけよ。まさかシングルカットになると思ってないし、前のアルバムの収録曲だし。それが来日記念盤になっちゃったので、急遽カタカナに変えたの。

――(笑)

野中 来日記念盤が「お説教」じゃまずいよなと(笑) 普通だとあのタイミングでシングルカットされるはずがないようなタイミングでのシングルカットだよ。だからこっちも焦って、シングル盤はカタカナで「ウォーク・ディス・ウェイ」、アルバムの曲目も次の版からカタカナにした。でも相変わらず、「お説教」で持ってる人がいるんだよね(笑)

――それは今ではかなりのレアアイテムになっていますよね。ではせっかくなんで「お説教」……もとい、「Walk This Way」を聴いてみましょうか。

 

♪「Walk This Way」試聴

『Toys In The Attic』収録

 

野中 これは驚くほどの音ではないね。

――この頃になると盤もマスタリングだったり、元々がよくなってるということじゃないですかね。……ところで僕は関西なんですけど、気のせいかもしれないですが、「Sweet Emotion」がよくかかっていた記憶があって。

野中 「Sweet Emotion」もね、シングルカットしてるよ。カタカナに直して。

――確か最初のタイトルは「やりたい気持ち」だったんですよね(笑)

野中 そうそう(笑) でもあれは「お説教」と違って、そのまま直訳だからね。「やりたい気持ち」っていうようなタイトルつけるバンドが、(行儀の)いいバンドであるわけがないじゃない。

――不良性、というか。

野中 そう、どっちかというとその方向に持っていきたかったというのもあるし。あと『Toys In Attic』は『闇夜のヘヴィ・ロック』っていう風になってるでしょ。あの頃は「ロックンロール」って言葉がね、なかなか使えなかったの。

――ダサいってことですか?

野中 あのね……「シャナナ」っぽかったの。

――ああ(笑)

野中 ストーンズをロックンロールって言ってる人もいたけど、ロックンロールっていう言い方自体がね、やっぱりリーゼントでこうやってる……

――オールディーズな。

野中 そうそう、そんなイメージになっちゃってて。だからエアロスミスはロックンロールなんだけど、ロックンロールって言いにくくて。音はもっと重いよと。チャラチャラ軽くツイストなんてやってないよと。そういうのもあって「ヘヴィロック」ってつけてたんだよね。

――ストーンズのコピー品、みたいにも言われてたじゃないですか。でもサウンドはストーンズのコピーじゃなくてヘヴィだったんで……それはやっぱり若かった当時の僕たちには、こっちのほうがかっこいいなというのは思いましたね。

野中 それは確かに意識してた。どっちかって言ったら、あえて言うならハードロックに近いんですよというのをアピールしたかったみたいな感じでね。

――それが『Rocks』でひとつ結実したということで。

野中 そうそう。『Rocks』はさっき金色の帯が付いてたって言ってたじゃない? それも金帯にしたくなるくらい間違いなくこれは名盤になるって自信があったからで。イニシャル10万近くからスタートしたんだよ。

――そうなんですね。一曲目から「来るぞ!」という感じがたまらないアルバムで。

野中 いまでも覚えてるのがね、スタジオのスピーカーから音が出た瞬間に「勝ったわ~」って(笑) 税関を通ったマスターテープが届くのを信濃町のスタジオで待ち構えてて、準備のできたマスターを日本で一番最初に聴くのが自分だっていう興奮もあるんだけど。邦楽の人と違って、洋楽のディレクターは作っていく過程を間近で見ていることができないから、出来上がったものを聴くだけじゃない。だからもうドキドキだよね。どんなのができてるのか……あとはもう直せないんだから(笑)で、そのときは頭っから「勝った! これは来るぞ!!」ってスタジオから電話かけまくったの。「ミュージック・ライフ」の編集長だった東郷かおる子さんとか、渋谷陽一さんとか、伊藤政則さんとか、大貫憲章さんとか……そういう人たちにもうスタジオから「聴こえる!? 聴こえる!?」って。電話だからよく聴こえるわけないんだけど(笑)

――やっぱり「Back In The Saddle」からやられた感じですか?

野中 そうだね。あのオープニング……「デンデンデンデン♪」という。イントロだけでも聴いてみようか。

 

♪「Back In The Saddle」試聴

『Rocks』収録

 

野中 壁みたいなのが「ガツーン!」ときたんだよね。このイントロが。……で、このアルバムの後で来日するのよ。初めて自分担当のアーティストが来日、それが日本武道館で、これもラッキーといえばラッキーなんだけど。

――武道館までいける! という手応えはあったんですか?

野中 その頃にはもう一気に人気が出ていて。76年はクイーン、キッス、エアロスミスが席巻していた。エアロスミスが初めて「ミュージック・ライフ」の表紙になったのも76年だね……その時にこれは有名な話なんだけど、シンコーミュージックの営業の人が「なんでこんなものを表紙にするんだ」って言ったらしいの。「毎号クイーンにしとけばいいんだ」ぐらいの。

――(笑)

野中 エアロスミスの初めての表紙は、スティーブン・タイラーの顔のどアップで。でもそれが売れたんだって。で、営業の人も「あ、売れるんだ」という反応だったらしいです、聞いたところによると。で『Rocks』が出た頃にはなんとなく、「エアロスミスも初来日で武道館やれちゃうんじゃない?」っていう雰囲気になってた。ウドー(音楽事務所)さんもどんどん新しいロックのアーティストを招聘してたし。

――折田さん(※折田育造さん。レッド・ツェッペリンの日本での担当ディレクターを務めた。当時のエピソードはmora readingsでも過去に語っていただいている)の話……レッド・ツェッペリンの“蛮行”じゃないですけど、エアロスミスのメンバーはどうだったんですか。

野中 エアロのメンバーはね……行儀がよかったと思う。トラブルはなかった。ただ、マネージメントの社長が来たんだけど、マネージメントとバンドは上手くいってなかったかな、今から思えばその兆しがあった。あと来日ネタとしては、結構これも有名なんだけど、エアロスミスが日本で初めてコンサートをやったのは前橋なの。

――群馬県の。

野中 そう。前橋っていうのは地方都市だし、エアロスミス以降そういう旬の洋楽のロックバンドがコンサートを前橋でやったことは一度もない。で、前橋ってのは野中の出身地なのよ。だから自分の田舎に連れていったんじゃないかっていう風にも言われたんだけど、それは偶然だよね。入社3,4年のディレクターが自分の田舎にアーティストをブッキングなんてできるわけないんだから(笑) でも途中から面倒くさいからもうそれでいいやと、「はい、連れて行きました」と言うようになっちゃったんだけど(笑) あれはいわばゲネプロ的な、慣らし公演だったよね。

――追っかけとかは大丈夫でしたか?

野中 追っかけはいたけど、移動に困るほどじゃなかった。関越自動車道がまだないから往復は電車でね。これもどこかで言ってるんだけど、高崎駅のホームでメンバーがかけそばを食べたんだよ。それが初めて食べた日本食で。

――(笑) そのあと、割と間を空けずに『Draw the Line』でしたよね。

野中 そう。で、『Draw the Line』がダメだったのよ。さっき『Rocks』でスタジオで衝撃を受けて「売れるぞ!」って自信を持ったって言ったじゃない。『Draw the Line』は聴いた瞬間に「ヤバい!」って思ったわけ。「これは売れない」っていう……担当者として。『Rocks』が当たって、武道館公演もできて、ガーッとウケているときに、このアルバムじゃ終わっちゃうぞ……という。

――そうですか……僕は一番リアルタイムだったんで「きた!!」って思いましたけどね。それこそ一曲目から……。

野中 その時にどうしたかっていうと、もう「エアロスミスの最高傑作だ!」って言いまくったわけ。音を聴かせる前にね。音を黙って聴かせると、低く評価されるのは目に見えてるので、音を出さないで、もうエアロスミスは行き着くところまで来たと。「ロックバンドはこれ以上いけないほどすごい地点まで来てしまった!」みたいな(笑)

――わからないお前が馬鹿だ! ぐらいの……。

野中 そうそう(笑) あとジャケットもキツかったのよ、やっぱし。

――イラストをあしらったものでしたよね。

野中 だからジャケットと音がわかった瞬間に、もう有無を言わせないと。CBSソニーって会社の名前使ってでも悪口を書かせない! っていう……宣伝のスタッフにもそういうプロモーションを徹底させてたと思う。

――そうですか……じゃあ僕はプロモーションにちょっと頭をやられてたのかもしれませんね(苦笑)

野中 正直言えば、悪口言いそうな人間の口を封じる…そういう禁じ手だよね。

――(笑) ではそんな「Draw the Line」を……。

 

♪「Draw the Line」試聴

『Draw The Line』収録

 

野中 でもね、今聴くとちゃんとね、いいのよ。

――いや、先ほども申し上げましたが、僕は大好きなんです(笑)

野中 それはたとえば同じような目にあったのはクラッシュで、『London Calling』っていう大名盤があって、その次に『Sandinista!』聴いたときに「これもヤバいな」って思ったわけよ。

――がらりと内容が変わりましたもんね。

野中 そう。で、同じようなことを味わったんだけど、今聴くとこれもいいアルバムなんだよね。その当時から時が過ぎて自分もいろいろ音楽を聴いてきたから、初めて聴いたときと印象が変わるのは当然だよなって。いまはもう『Draw the Line』もいいんじゃない、って思う。逆にいうとそうやってアーティストが作品を新しく出していこうとするのに対して、ファンというか、ファンの代表であるはずの担当ディレクターがついていけてなかったってことだと思うんだよね。「できたら『Rocks』の延長線上であと3枚くらい出してほしい!」みたいに思ってたわけだからさ。

――(バンドのほうが)先に行っていたってことですね。

野中 うん、そう思うよ。

――このあと、エアロスミスとの関わりは……

野中 野中は『Draw the Line』までしかやってないんだ。77年の暮れ……78年の1月の人事異動でCBSソニーから離れるのよ。そこからはEPICソニーで、チープ・トリックなんかを担当することになったわけだ。

――そうなんですね。では最後に思い出の一曲といえば……。

野中 そうだな…………「Rats In The Cellar」かな。

 

♪「Rats In The Cellar」試聴

『Rocks』収録

 

野中 すばらしいね。

――そういえば、『Rocks』ってガレージか何かでレコーディングしたって話ありませんでしたっけ。

野中 『Draw the Line』をお城で録ったというのはあったな。何とかキャッスルって名前がついてるんだけど、お城じゃなくて修道院らしいのよ。

――ああ、そうなんですね。

野中 ジャック・ダグラスがとにかく音をこもった音にしたいっていうのがあったと聞いたんだけど、もろにドラッグの真っ最中の頃なんだよね。だから「Draw the Line」ってタイトルもそれなんじゃないかと。だから(当時の)状況はよくないんだよ、エアロスミス自体は。それをジャック・ダグラスが一生懸命作り上げたっていう。本来そういう風には訳さないんだけど「Draw the Line」を「限界ギリギリ」って訳したのは、エアロスミスが限界ギリギリの状態で作り上げたアルバムだっていう意味を込めたんだ。

――「一線を画す」ってキャッチもありましたよね。

野中 そうそう。「乾坤一擲」ってのも使ってたね(笑)

 

(インタビュー&テキスト:mora readings編集部)

 


 

エアロスミスの配信一覧はこちら!

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

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 当時本国ではほぼ無名の状態ながら、来日公演として行われた武道館ライブの模様を収めた『At Budokan』の逆輸入によって一躍人気バンドの座に上り詰めたチープ・トリック。近年に至るまでなかなか例のないこのスター誕生の裏側には何があったのか? 当時EPICソニーにて日本側の担当ディレクターとして活躍されていた野中規雄さんに、当時の思い出を振り返っていただきました。

 


 

【プロフィール】

野中規雄(のなか・のりお)

1948年生まれ。群馬県出身。72年にCBS・ソニー入社。ザ・クラッシュをはじめ、数々の洋楽アーティストを手がけた。退職後は(株)日本洋楽研究会を設立。日本が培ってきた洋楽を後世に残そうと働きかけている。FM COCOLO 放送のラジオ番組『PIRATES ROCK』の制作も6年目に入っている。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――チープ・トリックを担当するようになった経緯を教えていただけますでしょうか。

野中 クイーン、キッス、エアロスミスって、「ミュージック・ライフ」が言い出した“三大バンド”っていうのをみんなが使うようになって。それがだんだん2年経ち3年経ちってベテランになってくると、次の顔がほしくなる。雑誌では常に新しいバンドを女の子たちに紹介していく必要があるので、その探してる中でチープ・トリックがピックアップされたっていう。でもプロモーションの力というよりは読者の反響が新しいバンドの中では一番大きかったので、東郷かおる子さん(ミュージック・ライフ編集長)が「これでいきましょう!」みたいな感じで。

――時期的には?

野中 (1stアルバム『Cheap Trick』を指して)ここ。このアルバムはすぐに出したことは出したんだけど、あんまりアメリカでも当たってないし、最初は日本でもそんなにいくと思ってなかったの。77年はエアロスミスの来日があって、まだ担当としては(エアロスミスというバンドの存在が)自分の中では大きいわけよ。しかもその時にジューダス・プリーストがCBSに移籍して、『背徳の門』が出る。それとクラッシュがイギリスでデビューしたって情報もあるから、そうするとそれらのバンドの中では(チープ・トリックは)一番下なのよ、自分の中の期待値としては。でも「ミュージック・ライフ」で新人紹介のグラビア載せたらバンと反応があったというのと、一枚目から渋谷陽一さん(ロッキング・オン編集長)がこれはいいっていう風に言ってくれてて。これはもしかしたらいけるんじゃないかって思ってたところに、このアルバム(2ndアルバム『In Color(邦題:蒼ざめたハイウェイ)』)がきたわけですよ。

――なるほど。

野中 77年の9月発売なので、このアルバムを聴いた7月くらいには「これドカーンとくるわ」と。お客さんの受けとアルバムの出来が間違いなく重なるなっていう感触と確信で。だから実のところ言うとチープ・トリックってそれほど大きなことやってないの、担当としては。

――そうなんですか。

野中 身を任せてたから。ユーザーの人に。

――ロビン・ザンダーとトム・ピーターソンっていうあの二人の美形のルックスと楽曲がまずはポイントだったんでしょうか。

野中 新人のアルバム・サンプルの中から好きなの選んでいいよって上司に言われたので、「じゃあこれ、チープ・トリックってのでいきますよ」と。エアロスミスのプロデューサーでもある、ジャック・ダグラスのプロデュースだったし。「こんなのオヤジが二人いて、受けるわけないだろ」とか言われた当初から、そもそもそんなに期待してなかったんですよ。これ(『蒼ざめたハイウェイ』)が出るまではね。ここで初めて「いい男二人とおじさん二人」ってコンセプトがはっきり出たわけだよね(笑)

――キャラ設定みたいなのを意図的にやったりとかはあったんですか、当時。

野中 このチープ・トリックってバンドに関しては全部(メンバーの)リック・ニールセンのプロデュースだから、日本側が何かイメージ作ったとかいうことじゃなくて。変なの二人といい男二人っていうのは、リックが作ったコンセプトなんだよね。ただ特にこのロビンが日本の女の子に受けたんだよ。いい男ってのは世界中にたくさんいるんだけど、ロビンの“いい男度”が刺さった。あの頃の日本の女の子たちの好みにね。

――僕もチープ・トリック大好きだったんですけど、やっぱりそのリックの変態的な感じ、ギターコレクター的な感じとか、そっちがあってこそということも言われてましたよね。

野中 このアルバム(『蒼ざめたハイウェイ』)の音が来たときに、ある意味「ミュージック・ライフ」をとるか「ロッキング・オン」をとるか選択しなきゃいけないわけです。どういうことかっていうと、たとえば日本に取材にきたときに、どこに一番最初に取材してもらうかっていう。海外取材なんかの写真も、どこに最初に持っていくかっていうことがあるので。そういうときにやっぱり「ミュージック・ライフ」にしようって思ったのは……ある意味でその後のバンドにとって正解だったかもしれない。とにかくビジュアルだったんだよ。その頃のロビンのね、俺のつけたキャッチフレーズは……「青いリンゴ」だったの。

――ははははは!(笑) ちなみに僕は関西だったんですけど、やっぱり「今夜は帰さない」っていうのが、とにかくラジオでたくさんかかってたっていう記憶があって。それでけっこう洗脳されたっていうか。

野中 このアルバムの中の2曲だけは絶対にシングル・ヒットさせたいと思ったんだ。アメリカとは全然関係なく日本だけのシングルカットができてた時代だし、アメリカでは人気のないこのバンド、日本は勝手にやってやろうと。まずはこの2曲に邦題を付けたい、しかも若い女の子向けにということで、「甘い罠」「今夜は帰さない」と付けて。

――女子ウケを狙ったタイトルにしようっていう。

野中 そう。エアロスミスの「お説教」と「やりたい気持ち」は2秒くらいでつけたけど(笑)、これはね、たぶん一日二日かかったと思う。特に「今夜は帰さない」は時間かかった。アルバムの中で邦題がついてるのはこの2曲だけだもんね。この2曲だけで決めるっていう意思がばりばり出てるよね。

――では、ちょっと聴いてみましょうか。

 

♪「今夜は帰さない」(試聴

アルバム『In Color(蒼ざめたハイウェイ)』収録
(原題:「Clock Strikes Ten」)

 

――ビートルズっぽくてサウンドが今っぽいっていうので持ってかれましたね。やっぱりビートルズって年上の人のものだったんで。

野中 そうだね。もろビートルズのおいしいところもらってるから。だからビートルズをデビューのころから体験してきた人間にとっては、「なんだこれパクリじゃないか」って言う人もいるけど、そうじゃない人たちにとってはまた新しい感じに聴こえたかもしれない。

――この流れで武道館ということになるんですかね。

野中 9月の時点でもうこの『蒼ざめたハイウェイ』がめちゃくちゃ売れちゃってるわけ。その頃に音楽舎ってところからチープ・トリック呼びますと。へえ、どこでですかって聞いたら、「武道館ですよ」と。こちらとしては「武道館? ありえないでしょう」と。5月にデビューして、ヒットアルバムが9月で、翌年の3月に武道館なんて、いくらなんだって無理でしょっていう話をしたんだけど、「いやもう決めたんだからやります」「ミュージック・ライフも人気凄いって言ってます」みたいに返されて。まあ、うちがリスクを負うわけじゃないからいいかなって思ってたら、(音楽評論家の)福田一郎さんが「アメリカの前座バンドを武道館でやるなんて何事か!」みたいに怒ったんですよ。

――(笑)

野中 つまりね、武道館っていうのはビートルズから始まったように、実力もステータスもあるバンドがやる場所なんだと。

――そんな簡単に出るなよと。

野中 そうそう。アメリカで誰かの前座しかやってないようなバンドがちょっと人気が出たからって武道館でやるなんてありえないって。だいたい30分か45分しかやれてないはずだから、そいつらが武道館のステージができるわけがないと。ハコとサイズでもって負けちゃうだろっていう風に福田先生は言ってたんですよね。

――まあわりと正論ですよね。

野中 そう。で、みんな「そう言われてみたらそうかもな……」と思うわけじゃない。ところが、それをクリアしちゃったのは、チープ・トリックっていうバンドとあのファンだよね。まず第一にチープ・トリックが30分45分のバンドじゃなくて、2時間でもできるバンドだったということ。前座をやっていたけれども本来彼らはずっと地元でやっていたから演奏力もあるし、構成もできる想像以上のライブバンドだったということがひとつと、武道館を埋めたお客さんたちが「ギャー!」って言ってくれたおかげで、ステージもレコーディングも派手になった。

――でもその前にもうレコーディングを決められてるわけなんで、それはわかってなかったわけじゃないですか。見切り発車なわけで。

野中 あのね、“LIVE IN JAPAN”って当時の日本のレコード会社はわりとみんな録ってたのよ。ブラジル音楽でもジャズでも日本にきたら“LIVE IN JAPAN”を録るっていうのがあって、もうひとつは洋楽のディレクターっていうのは自分で音が作れないから、音を作りたいんだな。

――企画を。

野中 そうそう。自分の制作でレコードを出すのに一番手っ取り早いのが“LIVE IN JAPAN”。だから来日アーティストが来るときはだいたいオファーしてるわけ。で、その頃の契約っていうのは、今みたいに地球上全部同じ契約書でできてるもんじゃなくて、テリトリーごとに違ってたりしたものだから、日本だけで発売するのはわりとね、楽だったの。本国でレコード会社とアーティストが結んでる契約に触れずに日本だけプラスアルファの契約ができたのね。でもその代わり、「日本だけだからね、他の国に持っていくなよ」って条件がついて。それでエアロスミスは断られたの。

――あ、なるほど。

野中 ジャニス・イアンは録れた。でも売れてないから、無名なレコードだけどさ(笑) 同じようにジューダス・プリーストも録った。どんなアーティストにも当たり前のように“LIVE IN JAPAN”録りたいっていうオファーは出してたの。

――なるほど。じゃあそのときはそんなにヨダレが出てたってわけでもなく……。

野中 いやヨダレは出てたよ(笑)。1978年の4月来日でしょ、10月には新会社・EPICソニーができるから、その第一弾にしてががーん!と広告打とうと。結局「Don’t Look Back」(ボストンの2ndアルバム。EPICソニーの洋楽第一弾アルバムになった)の次になったけど、7万枚だか8万枚だか売れたわけ。なのでもう成果は上がったなと、担当ディレクターとしては、『蒼ざめたハイウェイ』が売れて、来日公演があって、『Heaven Tonight(邦題:天国の罠)』も売れて、『At Budokan』 まで7万か8万売れて御の字、もうこれで特賞(ボーナス)の査定はいいわけよ、すでに(笑) だってアメリカでも売れてないバンドで武道館いっぱいにして、そのライブ盤が10万枚近く売れちゃったわけだから、ああOKOK、俺っていい仕事したなと。そしたらアメリカで『At Budokan』が発売になったの。アメリカの発売まで野中がやったかと言われたら、何も動いてないからね。

――最初は(日本からアメリカへの)輸出盤ってことですよね。

野中 そう。だから謙遜ではなくてチープ・トリックの場合は運のよさがね、どんどんどんどん重なっていったっていう。そういえば、つい数年前にアメリカのエピックの当時のシカゴのプロモーター……そいつがこの日本盤をDJのところに持っていって、「これ面白いぜ」って言った張本人だってのがわかって。

――ああ、歴史の生き証人というか……縁結びをしてくれた人が。

野中 そうそう。もちろん全然知らない人なんだけど、もし会えたら面白いよね。日本の担当者である自分と、アメリカで最初にこのアルバム(日本盤)を認めたその人とが。そうして輸出盤が評判になって、6万枚だか7万枚だか日本から出荷された頃、EPICはラジオOA用に何曲かピックアップしたDJコピーみたいなものを放送局に配布したんだけど、もう間に合わなくなって、遂には「アメリカでも発売することにしたから、アルバムカバーのアートワークを送れ」って連絡が入った。それからすぐにイギリス盤も出る、ドイツでもカナダでも出る、どこで出るで、うわーすごいなこれはって言ってたら、あっという間に200万枚みたいな。

――とんでもないですね……日本で発売してから向こうでチャートアクションが出るまでの期間ってどれくらいなんですか?

野中 えっとね、半年ぐらい。年明けには輸入盤が向こうに届いてるからね。シカゴのDJが「ビートルズみたいだ!」って紹介したのが広がっていったんだけど、実はアメリカのDJもリスナーもビートルズ以降ああいう(観客が)「ギャー!」って歓声を上げる文化を知らないんだよね。ところが日本はずっと伝統としてあったから。クイーンもそうだし、ベイ・シティ・ローラーズもそうだったから、チープ・トリックで「ギャー!」って言うのは当たり前なんだよね。でも、アメリカの人たちはクイーンでもベイ・シティ・ローラーズでもあそこまでじゃなかった。いきなりチープ・トリックのライブ音源の「ギャー!」をラジオで聴いて、「何コレ!?」って。目新しさっていうか、珍しさがあったんだよね。

――曲は何がシングルカットされたんですか?

野中 アメリカも日本の真似で「I Want You to Want Me」(邦題:甘い罠)を。それが初めてのチープ・トリックのシングルヒットになったんだよね。

――武道館はレコーディングのセッティングだとかジャケットだとか、どういう風に関わられたのでしょうか。

野中 鈴木智雄さんっていうエンジニア(当時CBSソニー所属)がチープ・トリックを録ってくれることになって。あの人のところにいたスタッフが実はジャニス・イアンを録ったのと同じスタッフなのよ。だからジャニスを録ったときと同じ機材と同じスタッフで二度目なので、じゃあそういうことでお願いしますって、あとはお任せ。

――録ったのは一日だけですか?

野中 武道館と、あと大阪。大阪での演奏も混ぜてあるんだよね。

――ディープ・パープル(アルバム『Live in Japan』)方式で。

野中 そうそう。

――ジャケットには関わられていたんですか?

野中 ジャケットは……たぶん三浦憲治さんだと思うんだけど。あと長谷部宏さんとうちが頼んだカメラマンの人の写真の中から選んで、ジャケットを起こした。

――日本発売で当然イニシアチブもあるし、アートワークもそのまま向こうに行ったっていうことですよね。

野中 そうそうそう。でも本人たちは後になってどこかで読んだけど、気に入ってないんだって。なんかヤギかロバみたいに見える、とか言って(笑)

 

野中 いまでこそパワーポップだとか言われてるけどさ、あの頃はイメージとしてはやっぱりアイドルバンドだよね。捉えられ方としては。だから男の子のファンは少なかった。98%ぐらい女の子だったんじゃない? 隠れチープ・トリックファンって男の子はいたけど……表に出てこれないのよ、恥ずかしくて。

――(笑) 自分はすごい好きでしたけど、確かにライブに行こうとかいう風にはならなかったかもですね。やっぱり『Dream Police』が出て、あまりにソフトになってたんで超がっかりしたっていう……。

野中 そうだよね。あのね、これも何回かいろんなところで言ってるんだけど、このアルバム(『At Budokan』)が出たことによる悪い影響ってのがこういうところに出てくるわけだよ。で、具体的に何かっていうとこれ(『Dream Police』)だってプラチナ・ディスク獲ってるんだよ。

――はい。

野中 売れてるのにみんな『At Budokan』しか言わないわけ。アメリカのマスコミの人もファンの人も……だから「『At Budokan』のチープ・トリック」っていうことをずっと言われちゃって。結果90年くらいからダメになっちゃったね。その段階で終わったと思ったもん、俺も。「あ、消えたな」と。「チープ・トリックってバンドが昔いたよね」みたいな。ところがそれが盛り返してきてるってのが最近なんだよね。

――ついにロックの殿堂入りしましたよね。

野中 今年にね。ロックの殿堂入りってのはさ、すごいんだけど、(チープ・トリックには)似合わないよね。しかも一緒に殿堂入りするのがシカゴとディープ・パープルで。そこにチープ・トリックって……チープ・トリックはノミネート自体初めてされたのよ。5回も6回もノミネートされて取れないのもいる中でね。その人たちに比べると、ノミネートされてすぐ決定!みたいなさ。

――でもミュージシャンへの影響力ってのはすごくありますよね。パワーポップのシーンやら、スマパン(The Smashing Pumpkins)だなんだって。

野中 ミュージシャンに好かれる、いわゆるミュージシャンズ・ミュージシャン。特にリックがそうみたいだよね。自分のところのレーベルからか、インディーズだったと思うんだけど、『ロックフォード』ってバンドの出身地をタイトルにした原点帰りのアルバムを出して、そのアルバムの次に35周年の来日公演をやるの。2008年。その年かその翌年くらい、『ザ・レイテスト』ってアルバムを出すわけ。この『ロックフォード』と『ザ・レイテスト』って2枚のアルバムが、出来がすごくいいのよ。だから結局チープ・トリックってね、曲がいいっていうのはやっぱり一番強くて。しかもそれを表現するロビン・ザンダーっていう歌手はとんでもない歌手だと思う。いまにして思うに。曲によって歌い方が変わる。最初のうちは俺も女の子にウケるアイドルでいいやとか思ってたんだけど、実はこのリックが仕掛けてるバンドのコンセプトとか楽曲っていうのを、特に最近のアルバムを聴くと、すごくクオリティが高いのよ。『ザ・レイテスト』ってのはね、捨て曲なしでほんとにいいですよ。それがもう7年前のアルバムかな。で、今年4月にチープトリックの新譜がユニバーサルから出るんだけど、ビッグ・マシーンっていうテイラー・スウィフトやエアロスミスのスティーヴン・タイラーが契約してるレーベルで。これもいいよ。

 

――『At Budokan』で一曲選ぶとしたら何ですか?

野中 やっぱり一曲目の「Hello There」じゃないかな。暗転の瞬間にぞぞぞぞぞってしたんだよなあ、あの時。

 

♪「Hello There」(試聴

アルバム『At Budokan』収録

 

野中 音を出す前に「ギャーッ!」ってなって。やったわと。ギャーッと言わせてやったわと。

――(笑)

野中 あれはね、担当者冥利につきるってやつだったと思う。自分の担当してたアーティストが、アメリカで全く売れてないのに日本に来てこのありさま、みたいな(笑)
『At Budokan』が78年じゃない? その後2008年に一回だけ武道館でやりに来てるのよ、30周年ということで。さっき言った『ロックフォード』と『ザ・レイテスト』の間に武道館が入ってるわけ。結局彼らにとっていい意味でも悪い意味でもポイントになってた武道館を、自分たちのふるさとの名前を冠した――ロックフォード――っていうアルバムを作って、もう一回やり直そうみたいな、その流れの中に入れたんだよね。一回だけ。で、実はその年の6月に野中、定年退職なのよ。

――すごいシンクロですね(笑)

野中 しかもね、その日はチープ・トリックが武道館やっていて、もう一個ビルボード東京でジャニス・イアンがやってたのよ。

――ご担当されていた。

野中 そんなことがあって(笑) だから武道館を観た翌日にビルボード東京でジャニス・イアンを見たんだけど。その辺の自分の個人的なことも含めて思い入れがあってさ。

――チープ・トリックのメンバーとは合われたんですか、そのタイミングで。

野中 ええ。チープ・トリックは……たびたび会ってる。

――メンバーの方々はそれぞれどんな方なんですか?

野中 それぞれのってのは上手く言えないけど、ただこのグループのすごいのは、ライブをいまでもやってることだよね。

――現役感がある。

野中 だからさっきの「殿堂入りが似合わない」っていうのは、現役だからなんだよね。あと偉そうにしてないの、4人がライブをやってても。で、いまも100本以上やってるらしいんだよ。毎年。リックなんてもう70歳近いんだよ!?

――バーニー(・カルロス)なんかもっと上ですよね? 確かいまはライブには参加していないとか。

野中 バーニーはああ見えてリックよりは若いんだけどね。仰る通りもうツアーバンドからは外れてて、いまはリックの息子がドラムを叩いてる。しかしそれでも100本はできないよ。もし日本のバンドが結成何十周年とかでツアーやったとしてさ、それでおしまいじゃない。10本15本切って「今年はいい記念の年でした、お疲れ様でした、またいつか会いましょう」じゃない。毎年100本やってんだよ!? だからそれがチープ・トリックの現役感でありすごさであり、ロックの殿堂入りが似合わない最大の理由で、ニューアルバム聴いてもいいじゃんって思わせるってことだと思うよ。だから担当してた当時よりも後になってきてチープ・トリックってすごいんだなって担当者が気がついたっていう(笑) 時間が経つにつれてすごかったんだな、みたいな。世間におけるバンドの評価も、そういう気がするしね。

 

(インタビュー&テキスト:mora readings編集部)

 


 

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 前回に引き続き、新田和長さんにオフコースのお話を伺った。そして今回は、二人から五人へと、グループが発展を遂げた時代のことを。しかしこれは、単に人数が増えた、ということに留まらず、自らのセルフ・プロデュースで音楽を届けていこうという、そんな宣言でもあったのだ。オフコース・カンパニーを設立し、レコーディングもライヴ活動も、より“自前”でまかない、より積極的に展開していくこととなる。五人がスタジオで頭をつきあわせて生み出したサウンドゆえ、それはそのまま、ステージでも響かすことが出来た。つまり彼らは人数が増えたことで、“等身大”にもなれたのだ。そして長い間蓄積してきたものが、「さよなら」の大ヒットで一気にブレイクを果たし、前人未踏の武道館10日間公演を大成功させる。しかし、これまでで最高のバンドの結束を感じさせたアルバム『We are』のあとに待ち受けていたのは、解散をイメージさせる『Over』と題されたアルバムだったのだった……。

(インタビュー&テキスト:小貫信昭)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聰、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――小田さんと鈴木さんのオフコースに、やがてギターの松尾一彦さん、ベースの清水仁さん、ドラムの大間仁世さんが加わり、5人体制となるわけですが……。

新田 1973年に吉田拓郎から「ビートルズを正確にコピーして演奏するバッドボーイズというバンドがいる。アルバムを制作しデビューさせないか?」という話しをもらいました。そのバッドボーイズのベーシストが清水仁君です。一方、武藤君が担当していた「ジャネット」には松尾君と大間君がいた。武藤君はこの3人をオフコースのメンバーに加えようと考え、流れをつくっていった。バックバンドではなくメンバーとして固めて行ったことが大きなポイントです。確かにオフコースの音は、すでにバンド的にはなっていました。(前編で聴いてみた)「眠れぬ夜」にしても、あれはまだ二人だけの時代だけど、その方向を打ち出してます。

――新田さんは「バッドボーイズ」にも関わりがあったわけですね。で、オーディションしたとか、そういうことではなく、この5人の“バンド”になった、と……。

新田 でもオフコースの音は、すでにバンドっぽくなってはいたんですよね。(前編で聴いてみた)「眠れぬ夜」にしても、あれはまだ二人だけの時代だけど、その方向を打ち出し始めてますしね。

――アルバムでいうと『JUNKTION』『FAIRWAY』のあたりで5人が揃いますね。その頃の代表的な作品を聴いてみましょう。「秋の気配」。

♪「秋の気配」(1977年)pc_btn_play.png

――この曲はファン投票でつねに上位にくる、ということでも知られる人気曲ですけど、想い出などございましたら、ぜひ。

新田 元々、彼等はアコギ2本,或は、アコギと生ピアノという編成であったために見た目からもフォークとカテゴライズされていました。しかし、他の日本の叙情派フォークとまったく違うのは、バート・バカラック、ジム・ウエッブのメロディーやコード感、或は、ポール・ウイリアムスの詞などにも強い影響を受けた正統派ポップスグループでした。74年に発売された2枚目のアルバム『この道をゆけば』ではかなりの曲がスタジオミュージシャンによる演奏に戻ってしまい悲観するようなこともあったと思いますが、そういう時間を経て、「秋の気配」は小田君とヤスさんの目指す音楽が形になった頃のすごい作品だと思います。アレンジも演奏も録音もすごい。ビートの取り方が16ビートで当時ではごくごく稀でした.16ビートで記憶にあるのはユーミンの「あの日に帰りたい」とか「中央フリーウェイ」くらい少なかった。小田君もヤスさんも大事にしていたビート感を高める為に大間ジロー君、松尾和彦君、そして、清水仁君を迎える。「秋の気配」は5人が揃った歴史的な作品なのだと思います。ドラムやパーカッションの演奏や音も驚きでした。清水仁君のあんな知的なベースにも驚いたものです。バッドボーイズの時はビートルズというお手本があった。今度は何も無いところから作り上げるのですから勝手が違ったと思います。仁君は慣れるまでの間、録音に時間がかかることもありましたが、大間君と松尾君の優しさ、忍耐力が助けたし、小田君にとっても仁君の不良性、正直さ、笑顔は救いだったのだと思います。で、その直後ではないけど、『Three and Two』というアルバムが出来上がるんです。本来なら長いこと苦労してきたんだし、“Two and Three”でいいところだけど、新しい三人を敢えてジャケットの“表1”にした。

――あれは画期的、いや、衝撃的でもありました。オフコースは小田さんと鈴木さんだと思ってた人達は、失礼ながら、「こ、この人達、誰?」、みたいな(笑)。

新田 しかも小田君の偉いところは、「五等分でやっていこう」って、みんなに言ったことです。こういう話しを私が披露していいものかどうかいくらか躊躇しますが……一例が給料の額です。いつから3人が正式にメンバーとなったかは分かりませんが、『Three and Two』の頃だとすれば1979年、『FAIRWAY』の頃と考えれば1978年です。オフコースが正式に何時から始まったかについてもいろいろな考え方がありますが、1969年には間違いなくレコードデビューをしています。芸能界の時代に音楽界を目指して、当時の人達とは似て非なる音楽を目指した訳ですから大変な苦労をしています。僕の力不足もあったし……。どう考えても小田君とヤスさんは新しく加わった3人よりかれこれ10年くらい先にデビューし困難な道を切り開いて来ました。ようやく自分たちがやりたい音楽を自由にやれるところまで来たし、ぼちぼちスターの仲間入りも果たしつつあります。普通は先輩であり功労者の2人の給料を多くし新たに加わった3人については少なくするものだと思います。でもリーダーの小田君はメンバーになった以上、新しいメンバーに対して公平、平等にしたということを知って、私は今でも忘れない程の感銘を受けました。小田君はそんなことを話しません。当時、武藤君から聞きました。本来、今回のインタビューは武藤敏史君が受けるのが一番良いのですが、実現しなかったので私は武藤君のことを語ることを条件に出てきたというわけです(笑)。今回は彼のことで言っておきたいことがあります。話にまとまりがなくて悪いけれど……彼が、もう口癖のように“ホップ・ステップ・ジャンプ!”って言っていた時期があるんです。

――と、いいますと?

新田 1978年の春には2人の時代のオフコースの記録、ベストセレクションが発売され、秋には新しい局面を迎えた最初のアルバム『FAIRWAY』が発売されました。その頃、武藤君は翌1979年度中には必ずミリオンヒットを出す!と編成会議や企画会議の席上機会あるごとに宣言をしていた。曲も勿論タイトルも存在しないうちから3部作をホップ、ステップ、ジャンプといった具合に時間をおかずに発売し、3作目は百万枚を売るという計画を打ち上げたのです。そんなにうまくいくものかしらという気持ちがないわけでもありませんでしたが、「武藤理論」と気迫に会社中がまとまりました。気持ちが揃った時の会社は底力が出るものです。メンバーも期待に応えてくれた。この頃は会社は営業的にもオフコースに期待をしてくれ、精神的にも理解者になってくれていた。といっても、長い道のりの中で通過して行った人達から受けた理不尽な経験の記憶はそう簡単には消えるものでもありませんでした。組織変更や人事,経費配分、アーティストの評価など、もう少し考えてくれればどれだけ嫌な思いもせず遠回りをしなかったか? と納得のいかないことは多々ありました。今に見返してやろう!という気持ちは作品づくりの素直な気持ちの中に常に混ざっていたように思う。振り返ってみれば良く会社を辞めなかった。高宮昇社長がいる間は頑張ろうといったウェットと言われるかも知れないがメンタルにはギリギリでやっていました。

――ではここで、“三部作”の最初、“ホップ”の役割を担った「愛を止めないで」を聴いてみたいと思います。 

♪「愛を止めないで」(1979年)pc_btn_play.png

――歌だけじゃなく、鈴木さんと松尾さんのツイン・リードの間奏が、まさにバンドの醍醐味も伝わる演奏ですよね。

新田 そうですね。ヤスさんと松尾君のツインリード、カッコ良いですね。イーグルスのホテルカリフォルニアで聞けるジョー・ウォルシュとドン・フェルダーの掛け合いからハモりに入っていくツインギターに匹敵します。イーグルスもオフコースもワイルドであっても知的なロックであることも共通していますね。3人が加わって本当に良かった……。小田君の声が若いですね。遂にやってくれたとうるうるします……。この曲はホップの役割を充分に果たしましたが、もし、ステップの役目で2作目、或いは、ジャンプの役割で3作目に発売されていたらどうだったのだろう等と考えたりします。さっき“時間をおかずに”と言いましたけど(ここで新田さんは持参した“オフコース・メモ”を見る)、79年の1月に「愛を止めないで」を出し、6月に「風に吹かれて」を出し、「さよなら」が12月と、とても短い期間だったわけですよ。そしてご存知の通り「さよなら」で、オフコースは押しも押されもしないバンドになっていったわけですけどね。この頃が会社と一番うまくいっていた時期だと思います。「さよなら」のヒットは、メンバーにとっては音楽をやめてしまいたい程の幾多の困難を乗り越えた結果だとつくづく思う。でもこれは序奏に過ぎないという高い志はみな一様に持っていたんではないかな。

――さて、ここで「さよなら」を聴きたいところなのですが、この作品はオリジナル・アルバムには未収録ということで、ベスト盤のハイレゾ配信化が望まれるところでございます!(※取材日の後日、ファン投票によるセレクション・ベスト『ever』が配信された。試聴・購入はこちらから) ところで会社を「見返してやろう!」というのは、この「さよなら」のヒットで果たすことが出来たのでしょうか?

新田 会社を見返してやろうという気持ちは果たせたのだろうと思います。でも、新しい問題が生じる。それは「さよなら」のヒットで手のひら返しをした人達はこれで一種のゴールのような気分でいるわけだけれど、もっと先の高い山をを登って行こうとする人達との間に存在する問題でしょう。「さよなら」のヒットした1980年はいい年のはずです。6月には武道館公演を2日間やります。11月にはアルバム『We are』が発売され1位を穫ります。私事ですが35歳で制作課長から制作部長に昇格します。武藤君はそのような状況の中で寺尾聰さんとも契約し制作を担当します。翌1981年には「ルビーの指環」とアルバム『Refrection』がとんでもないヒットをします。この場では正確な数字を述べませんが、オフコースの新譜や旧譜のカタログを分母にして、武藤君は一人で会社全体の売り上げの(洋楽も邦楽もビデオも特販もすべての中で)3分の1を売り上げます。さらに、翌1982年には伝説のオフコース武道館10日間公演が行われます。会社の社員一人一人に対する従来の公平感は、もはや能力主義、成果主義の時代において、とりわけ、この業種において不公平感になって来ました。単純に報酬の話をしているのではありません。レコード会社やプロダクションに才能がありやる気のある人財が入って来なくなる。即ち、いずれ会社も無くなる、業界もさびれる。実際、僕が創業したファンハウスも無くなったけれど我々が育った東芝EMIも無くなった。英国のEMIですら無くなった。ビートルズの原盤を持っていた会社ですら……。ジョージ・マーティンさんとは何度もこの辺りの話をしました。あれほどのプロデューサーがEMIを辞めたことを割と軽く捉えていた。金の問題もあったけど金の問題ではなかった。ここではこの問題はここまでにします。オフコースと関係がないからではありません。当然、制作環境は音楽と密接に関係していくのですが……その後のオフコースとハイレゾの話を進めましょう(笑)。

――小田さん自身、「さよなら」の時期は、どうやったらより多くの人達に「受け入れられるか」を意識してたそうですが、もちろんそれは、単に“売れれば”、とも違うような…。

新田 そうですか。「より多くの人達に受け入れられるか」を意識していたんですか? どのような意味か正確には分かりませんが、量的には実現してきているので質的なことも多分に含まれるのではないでしょうか? 小田君の優れた能力のひとつに観察力や分析力を挙げることが出来ます。簡単にブレイクしなかったからこそ多勢のアーティスト達がたどった道、今現在進行形の売れっ子たちを冷静に捉えることが出来たのだと思います。ただ売れるのではなく、どう売れるのか? 業界に利用されないバンドになる為の慎重さ、注意力は時に優柔不断に見える程優れていたと思います。自分達が生涯、「ライフワークとして音楽を続けていくにはどうしたらいいか?」ということを、小田君はずっと考えていた。次男的ポジションかも。長くと言っても、ダークダックス的ではない生き方を。

――80年のアルバム『We are』から、TOTOやボズ・スキャッグスなどを手がけた高名なエンジニア、ビル・シュネーがミックス・ダウンを行うようになります。このあたりは今回のハイレゾ配信においても、とても注目したいところですが……。

新田 僕が東芝音楽工業に入社した1969年、会社にはアンペックスの3チャネルのテープレコーダーしかありませんでした。翌1970年に「赤い鳥」と仕事をするようになってコーラスを多重録音するのに苦労しました.マルチテープレコーダーがないからです。3つのチャンネルをピンポン(移動)させたり2チャンネルから2チャンネルにダビングしたり、ベテランというか先輩のエンジニアからは嫌がられました。面倒くさいとか多重するとS/N比が悪くなるとか。何人も先輩のエンジニア達は逃げて行きました。そんな時に既成概念に縛られない年齢も同じくらいの遠慮なく仕事出来るエンジニアを探しました。徹夜してでもいい音楽をつくろうという熱のある人を。やったことのないことをやろうとする人を……。しかし、徒弟制度のようなものがあって、若いエンジニア達は小川のせせらぎとか鳥の鳴き声とか、蒸気機関車の走る音とか音楽の録音までさせてもらえない状況でした。その中の一人が蜂屋量夫君でした。僕は蜂屋君、通称、8ちゃんを誘いました。案の定、オフコース、ユーミン、サディスティック・ミカ・バンドから寺尾聰まで、いい仕事をしました。オフコースがレコードとライブの音の一致を目指したとき、蜂屋君はPAエンジニアであった木村史郎君にいさぎよくその座を譲り陰に陽に応援をしました。ビル・シュニーがミックスをやるようになった時も蜂屋君は率先してテープを持ってロスに行きました。楽器が出来ないといけないと言っては奥さんが演奏するチェロを自分も買い、習って、生の音を研究しました。そんな人です。コンプの使い方、リミッターの使い方、EQの設定、+のみならず−するのも上手い。時々ひとりごとを言う。組んでる人が駄目だと短気な面もあります。ビルのすごさはこれは世界レベルなので日本一と世界一の違いがあるのだと思います。でも、血の違い、歴史や文化の違いで如何んともし難いところと、実は、本当に紙一重のところとあるように思います。惜しいです。たとえ紙一重であっても大きな差ですから見逃せません。これはエンジニアの世界だけの話しではなくて音楽そのものの話しです。日本の音楽はいつどのように世界に出て行けるのか? ……この話はここではこのくらいに。

――では『We are』から、エンジニアのビル・シュネーのドラムの音処理の特色がイントロから分かりやすいと思われる「時に愛は」を聴いてみましょう。

♪「時に愛は」(1980年)pc_btn_play.png

新田 出だしから悔しいくらいクリスタルな透明感のある音がしていますね……。弦のこすれる音、0コンマ何秒の意図的なタイミングのズレ、すべての楽器の定位、幅、奥行き、隙間が見える氣がします。こじんまりせずおそらく実際のスタジオより広く伸び伸びと聞こえてきます。スティックがタムの皮に触れる瞬間の音、すかさず皮が元に戻る瞬間の音が連続して移動していく空気の流れを感じます。音圧も感じます。視覚的には移動するスティックの2本が何本にも増えてスローモーションで空気を切って流れていく。ベースの音も弾いている目の前50cmで見ている時に聞こえる指と太い弦がこすれボディーに共鳴している生の音が聞こえる。ラインがよく見えるからライン録りをしているのではなんて単純なことではないいい音ですね。アンプから出る音もマイクで拾っているのでは?なんていう単純な話でもない。場所によってコンプのかけ具合も触っているのかそんなことはせず自然のままなのか? わかりませんが素晴らしいです。小田君の歌についても、「始まりはいつも愛~」の出だしの「は」は、かすかな顔の動きを感じる。「それは~」の「そ」で唾が見える。「ただ青く~」の「く」で喉の形を感じる。「そ」は歯の隙間を感じる。舌の形かも知れない……。変態みたいですが(笑)、ディーテールの集合が音楽ですから。日本のエンジニアが録りの段階で丁寧に録っていたからビル・シュニーさんもこのように作れたという意味では日米合作です。アルバム全体についての思いということになると、そうですね、ツアーにおける楽屋がメンバーによって別のフロアーになっていくように難しい人間関係の中でよく作り上げたという感慨を持ちます。スタジオはビートルズの「LET IT BE」のレコーディングの重苦しさと重なるような印象を持っています。「Yes-No」が出来て本当に良かった……。

――でもオフコースって、せっかく『We are』というまとまりを見せたかと思ったら、次は『over』なんですよね。“over”を、バンドの終焉と受け止めた人もいて。

新田 そうですね。僕にもよくわからなかった。小田君はその後も自分の心の中をアルバムタイトルにしてメッセージを発し続けましたね。メンバーに対してもスタッフにも媒体にもファンにも織田信長の天下布武の旗印のように……。例えば、『The best year of my life』は、まさに今年1984年はお互いにそういう年にしようというメッセージが、『As close as possible』ではメンバーやスタッフが出来る限り近くになってというメッセージが……。そうだ、面白い話を思い出しました。ある日、小田君が自分の会社の要のスタッフがアズ・クロースなのに「クローズ」と発音したといって笑っていました。『STILL a long way to go』はグループを解散しこれから一人になるけれど音楽に終わり無し、これからも歩き続ける決意が出ていますね。セルフカバーアルバムに付けた『LOOKING BACK』もそのままですね。考えてみればデビューの前からOFF COURSEのOFFは群れない、並みでない、アウトロー的なロックスピリットが入っているし、それなのに「Fairway」、花道というタイトルは面白いですよね。2nd アルバムの「この道をゆけば」、GOIN'MY WAYも、初期に宣言した通りの人生になっって行ったし。ある時、嬉しそうに「“等身大”って英語で何て言うかわかる?」と聞くのです。「えー、何だろう?」と言うと「Life size っていうんだよ。いい英語だと思わない?」という話をしたことを思い出しました。

――この時期の曲では、どれを聴いてみましょうか。

新田 やはり聴かせてもらうとしたら、「言葉にできない」かな。

♪「言葉にできない」(1982年)pc_btn_play.png

新田 終始流れている4分音符の正確なキックは心臓の鼓動、これまでひたすら歩いて来た彼の人生、ソロアルバムも出さないでオフコース一筋で歩いて来た今日までをじっと振り返っているように僕には聞こえました。GのKeyでイントロが始まって「ラ~ラ~ラ~」の歌が入った瞬間にEbのKeyに転調する。何だこれと驚く。イントロのメロディー最後の音がG、転調したKey:Ebの出だしのLaが同じG。綺麗な転調ですね。「ラ~ラ~ラ~」が左右に分かれて二重で聞こえてくる。小田君ならいくらでも2つの歌を同じに揃えることが出来るのにわざと思うがままに無心で歌っている。「終わるはずのない愛が~」という歌の出だしでセンターから歌が登場する。ステージで言えば1本の明るいピンスポが中央の顔に当たった感じ。こんな優しく強い歌声は聞けない。また、「ラ~ラ~ラ~」で声は左右に広がる。「もう消えた~」の歌詞はダブルの声で強調している。美しい建築のような作りです。間奏のメロディーをハーモニカで吹いているのは、2人いるリードギターを誰にももう頼めなくなったのか? と妄想させる。妄想ですよ? あれだけうまくいっていたのに親の心子知らずか? 「リズムセクションの音量を上げて歌を下げるべきでないか? 小田さんは古いのではないか?」なんて3人から突き上げられることもあった。孤独だ。だから、この歌を聞いていて「哀しくて」、「くやしくて」のところまではこらえていた涙が「嬉しくて」でもう我慢出来なってくるんです。努力家だと思っていた人は、実は手の届かない天才だった。すごい歌ですね。世の中にはやたら長いだけの無駄な歌が多い中で、6分23秒のどこにも省けるところがない。エンディングではメロが8分音符で奏でられる。武道館10日間公演のひまわりが見えてくる。Codaはただの繰り返しではない。最後のリピート2回目に奏でられるラミファ・ソレミの対旋律にまたはっとする。昔、ビートルズの「All you need is love」を聞いていて終わりのほうでイギリスの第2の国歌とも言われるグリーンスリーブスがかすかにかに聞こえてくるのを発見した時のような感動が走る。小田和正のこだわりと才能にほれぼれとしたものです。聴き直してまたそう思います。是非、改めてハイレゾで聴いて欲しい。

――私が小田さんに取材した時のご本人の話では、まず“ラ~ラ~ラ~”の冒頭が出てきて、まさにこれは“言葉には出来ない感情なんだ”ということで、こうした作品になったんだと仰ってましたけど……。

新田 武道館10日間が終わって、これから先のグループのことを考えるに当たって僕は小田君にある提案をしました。「メンバー全員で中国に行かないか?」という誘いでした。「何故?」小田君はけげんな顔をしました。当然です。あまりにも唐突だし、しかもその頃は簡単には中国に行けない時代でしたから。冒険でした。僕は、「中国の長い歴史、文化、広さ等に触れれば我々が当面している問題が如何に小さいか、その先が見えてくるのでは?」といったようなことを答えました。ちょうど東芝EMI会長の高宮昇さんが中国の招きで、日中友好協会が主催する長旅に行かれる計画が進んでいました。「お供で連れて行ってもらわないか?」と言いました。小田君は、「行こう」と答えてくれました。準国賓待遇の正式訪中団の随伴ということで、我々は3週間を費やして北京、西安、洛陽、上海の旅に出ました。車は僕らが乗っている車くらいしか見当たりません。広い道路の対向車線からは何百何千という数の自転車が赤とんぼのように途切れること無く走ってくる時代でした。北京の最後の晩、お世話になった中国の人たちに対して日本側が中国料理店で答礼宴を開きました。丸いテーブルが4つか5つくらいの人数でした。最後にオフコースからも一言ということになり小田君は挨拶の代わりに日本から持って来たオベイションのギターでメンバーと「いつもいつも」を歌いました。「あなたのことは忘れないよ ふるさとの海や山のように、ふるさとの父や母のように、いついつまでも、いつもいつもいつも……」通訳が歌に合わせて訳していきます。歌う側も聞く側も涙無しにはいられませんでした。音楽の力は偉大だと思ったことは何度もありますがこの時のことはいつまでも決して忘れません。おそらくメンバーは並みでは味わえない経験をして、それなりの収穫を持って帰国したのだと思います。それから約6年、解散をする1989年までオフコースは活動を続けます。

 

――前編・後編と、2回に渡りお話を伺ってきましたが、最後にハイレゾで音楽を楽しめる時代がやってきたことに関して、最後にご感想を伺えますでしょうか。

新田 映像はどんどん画像が進化していってるし、家庭内でも屋外でも大型化している中で、オーディオだけはどんどん小さくなっている。音というのはある音量を出さないと本来の音になはなりません。ですからスピーカーにしろヘッドホンにしろ、音の質だけが大事なのでなくて音量そのものが必要だと考えます。個人的にはスタジオモニターのようなスピーカーでそれなりの音量で聴くのが好みですが、ハイレゾ対応のヘッドホンには驚かされました。日進月歩で想像をはるかに超えていました。私も考えを改めないといけないと思っています。そもそもCDが登場した1982年から5%台に普及した1984年あたりはアナログは古いもので音が悪く、デジタルこそが万能みたいに思っていました。その後も暫くそういう風潮が続いたし、実際CDの普及でどれだけ便利になったか、個人的にもどれだけお世話になったかわからない。業界は特需景気を経験しました。約30年が経過しデジタルの究極の目標は、限りなくアナログの音質に近づけることだと誰もが感じるようになった。我々音楽の制作者たちはいつかCDの限界を解決してくれるシステム、ハードウェア、インフラが出現することを夢見て、せめてスタジオにおけるレコーディング時にはいつかそういう時代が来たら対応出来るようにと192khzのサンプリング周波数、24bitで原盤、いわゆるオリジナルコンテンツを固定してきたんです。CDを開発したのもSONYですが、それ以上の音を開発するために今も同じSONYが先頭に立って挑戦されていることに素直に敬意を表します。そして、この先を楽しみにしています。夢が無くなったら音楽産業は成り立ちません。ミュージシャンが演奏しているそのままの音、或はそれ以上の音、プロの人達が普段スタジオで聞いている音が世の中に届けられたら、ただマーケットが拡大するだけでなく誕生する音楽そのものに影響を与える。ライブにしか興味を感じていない人達に家庭でいい音で何度でも誰とでも聞ける楽しみ方が出来るようになって欲しい。ヒットした曲をライブで聴くだけでなく、ヒットを生み出していく聴き方を皆がしてくれると嬉しいです。

――2回に渡り、貴重なお話をありがとうございました。

 

 


 

オフコースのハイレゾ音源はアルバム10作品が配信中!(2015年12月現在)
『JUNKTION』『FAIRWAY』『We are』『over』など……

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ファン投票によるセレクション・ベスト
『OFF COURSE BEST "ever" EMI Years』

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 「僕の贈りもの」、「眠れぬ夜」、「さよなら」、「Yes-No」など、数々の名曲を世に送り出してきたオフコース。解散後、安易な再結成は一切せず、まさに伝説の存在として人々の記憶のなかに在る。デビューはフォークが全盛だった69年。しかし程なく、その後の「ニューミュージック」を予感させる洗練された音楽性を示す。最初のメンバーは小田和正と鈴木康博であり、さらなる発展を目指し、5人組となったことで新たな地平を切り拓き、82年の武道館10日間公演という偉業へと突き進むのだった。そんな彼らの作品が、遂にハイレゾで楽しめるようになった。今、改めて聴いてみると、カーペンターズをはじめとした良質なアメリカン・ポップに影響されたコーラスワークが見事であり、また、ミシェル・ルグランなどの映画音楽から影響された流麗なストリングス・アレンジも極上の余韻を残す。まさに音のディテイルにこそこだわった音楽性ゆえ、よりクリアに音が届く今の環境は、大いに歓迎すべき出来事だろう。お話を伺ったのは、デビュー以来、彼らをずっと見守ってきた新田和長さん。サディスティック・ミカ・バンド『黒船』の回に続き、二度目のご登場である。

(インタビュー&テキスト:小貫信昭)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――新田さんはオフコースとはデビューからの付き合いで、新田さんのほうが小田さんや鈴木さんより二歳年上とはいえ同世代。音楽の新たな地平を拓いた同志でもあると思いますし、それにちなんでまず勝手に僕が選んだこの曲からスタートさせてください。オフコースのアルバム『We are』から、「僕等の時代」。

♪「僕等の時代」(1980年)pc_btn_play.png

新田 いきなりすごい選曲ですね。この曲を聴くと僕は、当時のバンド内の葛藤など様々な人間関係が思い出されます。でも勇気あるメッセージソングですよね。

――ハイレゾ音源はいかがですか?

新田 いいですね。特に進化したヘッドホンで聴くと相性がいいように思います。僕のように音楽に関わってきた人間がずっと思ってきたことは、自分達がスタジオで創り上げたそのままの音を「みなさんにも聴いてもらいたい!」ということでもあったし、今のこの環境は、その想いに相当近づいたということで、とても嬉しく思っています。

――さて本題です。そもそも新田さんがオフコースを知ったのは、どんなキッカケからだったのでしょうか?

新田 彼らがヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」に出場したあたりです。それは1969年で、実はぼくが東芝に入社したのもその年だったんですよ(当時の名称は「東芝音楽工業」。1973年より「東芝EMI」となる)。メンバーは小田和正くん、鈴木康博くん、地主道夫くんの三人で、小田くんと地主くんが東北大学、鈴木くんは東工大の四年生でした。

――ヤマハのコンテストへは確か、東北ブロックからのエントリーですよね。

新田 当時、彼らがどのように練習してたかというと、鈴木くんが車にベースを積んで、まだ東北自動車道もない時代に8時間掛けて小田くん達に会いに行ってたようです。しかも週末毎にね。

――しかもベースって、運ぶのが大変なウッドベースですよね。

新田 本当に凄いことです。それで四年生の時、学生生活の有終の美を飾る積もりでコンテストに応募するんですね。それさえ終われば、なんの悔いもなくグループも解散する積もりだったのではないでしょうか。ところが新宿の厚生年金会館で行われた全国大会で、一位は赤い鳥で彼らは二位だった。それが運命を変えたと思うんです。

――小田さん自身、のちに「打ちのめされ、ずっと引きずった」とまで言ってますね。ところで新田さんはその大会をご覧になったわけですか?

新田 いや、その場には居なかった。どうやって彼らを知ったかというと、TBSラジオでコンテストの特集番組があって、そこでオフコースを耳にしたわけなんです。演奏したのはジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」とピーター・ポール&マリーの「ジェーン・ジェーン」かな? ビートルズの「In my life」だったかも知れない。ちょっと曖昧です。聴いてすぐ、「これは凄い、契約したいなぁ」、と……。でもその番組では、もちろん一位になった赤い鳥も紹介されて、彼らが演奏してたのは「竹田の子守唄」、そして同じピーター・ポール&マリーの「Come and go with me」で、これまた凄いわけです。甲乙つけがたい。だったら両方契約したいと思いました。

――すぐ、行動に移したわけですね。

新田 ヤマハへ行って、横浜に居る小田くん達に会わせてもらって契約できて、でも赤い鳥は武庫之荘(兵庫県尼崎市)ですからね。東京へ出てきてもらわなければならないし、そうなると生活の面倒も見ないといけない。レコード会社はプロダクションじゃないからそこまではできないし、しかも僕は新入社員の身ですし……。そうこうするうち、村井邦彦さんが「バード・コーポレーション」という赤い鳥のための事務所を作って契約することになるんですけどね。

――全国大会は1969年11月2日の開催のようですね。

新田 僕が小田くんたちと会って契約したのは、11月の内だったと思います。まだ12月にはなってなかった。でも契約したとはいえ、彼らとしては“プロとアマチュアの中間”くらいの意識だったと思うんです。ところが早くも翌年の4月5日には、「群衆の中で」というシングルを出すわけです。二位とはいえコンテストで賞を取ったんだから「早くレコードを出そう」という、そんな流れのなかのことだったんじゃないかな。言葉で説明出来ない新しいグループに出会って興奮していたのだと思います。曲は外国の曲で詞は山上路夫さん。これは東芝というより、ヤマハさん主導のことでした。でもここで地主くんが就職するためにグループを抜けるんです。

――我々はよく、オフコースの“実質的なデビュー曲は「僕の贈りもの」”などと記述しがちですが、そこに至るまでには何曲もあったわけですね。

新田 次の「夜明けを告げに」(71年10月)は、歌詞が山上さんで曲は加藤和彦さんです。ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のイントロのベースのラ⇒ソ⇒ファ#と半音下がっていく進行や、あとサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」の♪タン タタン タン タタンというリズムとか、洋楽からの影響も加藤くんのアイデアとして入ってます。さらに次の「おさらば」(72年4月)は、東海林修さんの詞・曲・編曲で、僕がトワ・エ・モアの『トワ・エ・モワ イン U.S.A.』というアルバムの仕事でロスへ行った時、東海林さんと親しくなったのが縁でした。彼にオフコースの話もさんざんして、ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」など、ちょっとウェストコースト・サウンドの要素もあるものが出来上がる。この曲で、オフコースは「第1回東京音楽祭」にも出てます。ただこの頃はメンバーが頻繁に変わってて、「夜明けを告げに」の時は実は三人で、「おさらば」は四人だった。

――確かに当時のシングルのジャケットを見ると、そうなってますね。

新田 しかもレコード会社としては、契約はしたけど彼らは音楽続けるのか就職するのか分からない時期でもあって、僕は上司から、「あれ、もうやめろ。暗い」って言われたりもしたんです。確かに小田くんは、会社に来ても愛想を振りまいて挨拶とかは絶対しませんでしたけど(笑)。

――契約を取ったのはいいけど、新田さんとしても辛かった、と……。

新田 僕は上司達に「もうちょっと待ってください、東北大学を出たら……」って言ったけど、そしたら小田くん、今度は「早稲田の大学院へ行く」って言うから「ええ~っ」って(笑)。確かにまだ、自分達で詞が書けるとか曲が書けるとかアレンジが出来るとかではなかったけど、今の日本の歌謡曲はイヤだし、普通のフォークも違うし……、という中で、試行錯誤の時期でした。メンバーもプロになりきれていない、僕も力不足のディレクターでした。

――このあたりの音源はハイレゾ化されてませんので、「では聴いて頂きましょう」、とはいかないのですが、小田さん鈴木さんの二人で「オフコース」を続けると決心してからが、第二幕の始まりでしょうか?

新田 そうですね。やっとハッキリしたというか、ここがひとつの区切りです。でも試行錯誤といっても小田くんが偉かったのは、この時期、ヤマハの教室に通って、和声法とか対位法とかの楽典を勉強したことなんです。

――そしていよいよ「僕の贈りもの」です。さっそく聴いてみましょう。

♪「僕の贈りもの」(1973年)pc_btn_play.png

新田 ああ……(様々なことを思いだした様子)。でも凄くいいです、ハイレゾで聴くと倍音が増えますね。ストリングスもいい。このアレンジは小田くんです。あと曲の構成も。イントロからヴァースのキーはCなんですけど、いつのまにかサビでAに行ってるんです。それも、「いかにも転調してます」っていうイヤらしいものじゃなく、綺麗に分からないうちに転調してて、アウトロというかコーダというか、エンディングではCに戻っていく……。そのあたりも実に巧みですよ。さっき小田くんはヤマハへ勉強に行ってたと言ったけど、そうしたことも活かされていると思いますね。彼は昔から、自分に「才能がある」ことに気がつくより、「才能が足らない」ことに気がつく人だったんです。普通は自分のいいとこばっか見るでしょ? でもほかの人との比較論ではなく、自分の基準で足りないことに気がつくから、じゃあどうするかというか、人より努力することにもなるわけでね。

――この作品を含むファースト・アルバム『僕の贈りもの』がリリースされたのが73年6月ですね。

新田 当時、オフコースは杉田二郎くんのいる事務所に所属してコンサートのバックを務めたりしてた関係で、彼を担当していた橋場正敏さんが最初の一枚は担当しました。そもそも「オフコースに一枚、アルバムを作ってやってほしい」というのは、杉田くんから頼まれたことでもあったのでね。このあたりのことは話せば長いんだけど、当時の東芝にビートルズの最初のディレクターだった高嶋弘之さんという方がいて、その人が途中から邦楽も兼任するようになり、ザ・フォーク・クルセダーズとか黛ジュン、由紀さおりといった数々のヒットを出すわけです。で、それが邦楽二課で、そこに橋場さんも僕もいて、のちに武藤敏史くんや重実博くんも加わるわけなんですけどね。

――武藤さんのお名前が出てきましたが、橋場さんの後、オフコースを担当するのが新田さんの部下となった大学の後輩、武藤さんですね。

新田 本来ならNHK交響楽団に入ってコントラバスを弾く予定だった武藤君を、この道に誘ったのが僕だったんですよ。

――この方のお名前が出るとファンが想い出すのは、名作の誉れ高い『ワインの匂い』。同時期のシングルではオフコースの出世作となった「眠れぬ夜」ということになります。ではここで、その曲を。

♪「眠れぬ夜」(1975年)pc_btn_play.png

――みんなが知っているエピソードとして、最初はバラードだったこの曲を、「エイトのロック調でやってみない?」と小田さんや鈴木さんに提案したのが武藤さんだったとか……。

新田 よく分かりませんが、多分その伝説は本当なのでしょう。で、『ワインの匂い』といえば、実は武藤くん、東芝に誘ったのはいいんですが、酒を飲み過ぎて階段から落ちて、半年会社を休んだ時期があったんですよ。そのとき人生を考え、夢を膨らまし復帰して、命がけで、水を得た魚のように取り組んだのがあのアルバムだったわけなんです。

――当時のレコーディングで、覚えていらっしゃることはありますか?

新田 武藤君は新宿のフリーダムスタジオを好んで使ってました。東芝には1スタという良いスタジオがありましたが、オフコースのような手作りで時間をかけて丁寧に作り上げるには稼働率が高すぎて不向きだった。フリーダムなら、自分たちの家のように自由に使える。今で言うロックアウト状態というか、そのままの状態で帰っても、明日の昼から継続できたわけです。実は労働組合の力が強い時代だったので、エンジニアの蜂屋君くんなども残業は許されていなかったんですけど、上司や組合の目を盗むように、やりたいことに没頭していましたね。

――そしてオフコースは徐々に二人から五人になり、さらなる躍進を遂げるわけですが、そのあたりは後編で伺いたいと思います!

 

後編につづく

 


 

オフコースのハイレゾ音源はアルバム10作品が配信中!(2015年12月現在)
『僕の贈りもの』『ワインの匂い』『We are』など……

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 グループアイドルの先駆けであり、ドラマチックな解散劇が今なお語り継がれるキャンディーズ。代表曲を一挙収録したベスト盤がハイレゾ配信されたことを受け、それら大半のプロデュースを手がけたまさに「生き証人」、松崎澄夫さんにインタビューを行った。三人のメンバーの奇跡的なハーモニーと絆、また彼女らを支えるバックミュージシャンやエンジニアとの秘話など、ファンならずとも貴重な証言の数々が飛び出した。「歌とサウンドのバランスがとても気持ちいい」と松崎さんも語るハイレゾ音源を聴きながら、ぜひ名曲の生まれたプロセスに思いを馳せてみてほしい。

(リード文:mora readings編集部)

 


 

【プロフィール】

松崎澄夫(まつざき・すみお)

1948年(昭和23年)生まれ。
1965年、専属ミュージシャンとして渡辺プロダクションと契約。
1971年、渡辺音楽出版入社。
1988年、アミューズ入社アミューズ常務取締役(1991年)、専務取締役(1999年)を経て 2005年4月、代表取締役社長に就任。
2010年4月、株式会社エフミュージック代表取締役。 

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――松崎さんがキャンディーズと出会う以前のキャリアを教えてください。

松崎 僕はアウト・キャスト(1967年デビュー)、そのあとはアダムス(1968年デビュー)というバンドをやっていまして、解散したあと渡辺音楽出版に入って制作ディレクターになったんです。伊丹幸雄さんのデビュー・シングルの「青い麦」(1972年)が僕が最初に手がけたレコードです。当時、渡辺音楽出版にはディレクターが十何人かいて、渡辺プロダクション所属のタレントさんのレコードのほぼ90%の原盤制作をしていました。

――そういう中でキャンディーズと出会ったわけですね。

松崎 東京音楽学院(渡辺プロダクションが設立した音楽学校)に別の用事で行ったときに、たまたま授業を覗いたんですよ。そのときに、遅れて来た3人の女の子が一番前にちょこんと座ったんです。かわいかったので気になってスタッフに訊いたら、キャンディーズというグループで、まだデビューはしていないけど、NHKの「歌謡グランドショー」にレギュラー(マスコットガール兼アシスタント)で出ていると。それで会社に帰ってから、「キャンディーズの担当をぜひ僕にやらせてほしい」という話をしたんです。

――キャンディーズのデビューにあたっては、どういう方向性を目指したのでしょうか?

松崎 3人のコーラスを活かすのが面白いと思いましたね。ユニゾンは一番大事なんだけど、3人だとハーモニーを使っていろいろできるから面白いんじゃないかな、と思いました。

――その当時の3人の歌唱力はどうでしたか?

松崎 3人の声質のバランスは、最初はスーさんが一番メロディーに合う声で、3人でハモるとランさん、ミキさんの声が生きて、あのキャンディーズのサウンドになりましたね。

――だから最初はスーさんがセンターだったんですね。

松崎 そうです。

――では、デビュー・シングルの「あなたに夢中」をハイレゾで聴いてみたいと思います。

 

♪「あなたに夢中」(1973年)pc_btn_play.png

 

松崎 3人の声の違いまではっきりと聴こえますね。本当に当時のアナログのレコーディングで、3本のマイクで彼女たちが歌っていたときのそのまんまの感じに聴こえますね。

――当時、レコーディングではどういうご苦労があったのでしょう?

松崎 最初のころは、歌詞をまず一緒に読ませて、呼吸が少しでもずれたらやり直しさせていました。歌詞が頭に入って気持ちが一緒になってくると、だんだん呼吸が合ってきて、ブレスも一緒になってくるんです。それをずっと、4小節に5時間ぐらいかけて練習させていました。そのうちに自分たちでそういうことが全部できるようになって、ハーモニーも自分たちで付けられるようになっていったんですけど、「その気にさせないで」(1975年)ぐらいまでは本当に大変でしたね。

――「年下の男の子」(1975年)からランさんが真ん中でメイン・ボーカルを取るようになって、キャンディーズはブレイクしました。それにはどういう経緯があったのでしょうか?

松崎 当時のマネージャーの篠崎(重)さんから、ファンレターの数もランさんが断然多いし、地方へ行っても人気がものすごい、だから今度はなんとかランさんを真ん中にしたいから、合う曲を作ってくれないかという依頼があったんです。本当はシングルB面の「私だけの悲しみ」がA面の予定だったんですけど、その依頼を受けて「年下の男の子」を作ったら、こっちのほうがいいねということでA面になりました。夜中にランさんだけスタジオに呼んでレコーディングしましたね。

――スーさんとしては、ショックだったということはなかったんでしょうか?

松崎 そんなことは全然なかったですね。彼女たちは、3人でキャンディーズを作ろうね、という気持ちが強かったし、彼女たち自身がキャンディーズのファンだったんです。僕は彼女たちをデビューさせるときに、グループというのは3年ぐらいしか続かないものだから、思い切り3年間頑張ろう、という話をしたんですよ。自分がバンドをやっていたせいで、グループの難しさがわかっていましたからね。

――そういうある種の覚悟があったから、誰がセンターだということは、彼女たちにとっては関係なかったんですね。

松崎 そうです。解散宣言(1977年)をしたあとに、ランさんとスーさんが僕のところに、ミキが真ん中でやったことがないからミキを真ん中にさせたいんです、って言いに来たんです。あ、気がつかなかった、そうだよね、って言って(笑)。それで「わな」(1977年)でミキさんが真ん中になったんですけど、そういうお互いへの思いやりを彼女たちは持っていましたよね。

――では、キャンディーズのターニング・ポイントになった「年下の男の子」を聴いてみましょう。

 

♪「年下の男の子」(1975年)pc_btn_play.png

 

松崎 生でスタジオで歌ってるみたいな感じですよね。バックの音も、そんなに分厚くはないんだけど全部バランス良く出てきてるし。僕と穂口(雄右/アレンジャー・作曲家/元アウト・キャストのメンバー)さんはアマチュア時代から一緒にバンドをやってきた仲なので、アレンジはツーカーでできちゃっていました。ギターもほとんどの曲が水谷(公生/元アウト・キャスト、アダムスのメンバー)さんでしたし。キャンディーズの曲はだいたい、そうした僕の周りの仲間たちが集まった固定チームで作っていました。そういえば、「暑中お見舞い申し上げます」の頭の、ウ~ワォ! っていうのも水谷さんが考えたんですよ(笑)。

――この曲のヒットで、彼女たちに変化はありましたか?

松崎 とにかく忙しくなって、いつも眠そうでしたけど(笑)、でもこの曲のおかげで自信を持ったということはあると思いますね。この曲のあとから、ライブのイメージも変わりましたしね。大里(洋吉)さんがマネージャーになって、MMPをライブのバックにつけたことで、楽曲も演奏もガラッと変わりました。あのころのライブは本当にかっこよかったですよ。この時期から彼女たちは、それまでと違う音楽性をいっぱい得ていったと思います。

――そして、1976年3月発売の「春一番」がオリコンチャートの3位という大ヒットになりました。

 

♪「春一番」(1976年)pc_btn_play.png

 

松崎 この曲は水谷さんのギターがなかったらこんなにヒットしなかったと思いますね(笑)。最初、ソニーの六本木スタジオで別のレコーディングをやっているときに、空いた時間に穂口さんがピアノでこの曲を歌って聴かせてくれたんです。気に入ったので、この曲をキャンディーズでやろうという話になったんですけど、最初はもっと童謡みたいだった(笑)。それが、水谷さんのギターが入って、アレンジを施されるとこんなにノリが良くなるのかと驚きましたね。最初はアルバム『年下の男の子』(1975年)に入れた曲だったんですけど、ライブでやると異常に盛り上がるから、どうしてもシングルにしてくれって大里さんが会社に頼んだんです。でも、(渡辺)晋(渡辺プロダクション創業者)さんがうんと言わないから、CBS・ソニーからプロデューサーの稲垣(博司)さんも出て来て頼み込んだんです。そしたら「イニシャル50万枚ならやっていい」ということになって(笑)。

――50万枚はすごいですね。でも実際にヒットになったわけで、これは松崎さんにとってもかなり嬉しいことだったのではないでしょうか?

松崎 あんまりそれはなかったですね。当時は渡辺プロの歌手がベストテンに7曲ぐらい入っている時代でしたから。でも、チャートの上のほうにいられるというのはいいことだとは思いました。なぜかと言うと、好きなことができるからです。違うことにトライもできるわけで、それでいい結果になれば、またさらにいいものを作れる。そういう感覚でした。

――では次に、1977年の「やさしい悪魔」をお聴きください。

 

♪「やさしい悪魔」(1977年)pc_btn_play.png

 

――このあたりの時期になると、コーラス・ワークが本当に素晴らしいですよね。

松崎 このコーラスを録るのには4~5時間ぐらいかかりましたね。“あの人は悪魔、ハァ”や“ア~ア~、デビル”のところの微妙な間合いがなかなか上手くいかなくてね。最後の余韻みたいなものがなかなか出せなかったんですよ。これをやるのは本当に大変でした。

――そして、1977年7月17日、日比谷野外音楽堂のライブでキャンディーズは突然の解散宣言をします。そして、最後のシングル「微笑がえし」(1978年)で念願の1位を獲得するわけですね。作詞には阿木燿子さんが起用されています。

松崎 これに関してはソニーのプロデューサーの酒井(政利)さんのアイディアでした。ただ、泣いて別れるのはやめよう、笑って別れよう、明るく終わろうということは全員で決めましたね。それを受けて、「微笑がえし」というタイトルにして、シングルの曲名を歌詞に入れたっていうのは、やっぱり阿木さんは大したものだなあと思いました。

 

♪「微笑がえし」(1978年)pc_btn_play.png

 

松崎 シンセ・ドラムをシングルに使ったのは、日本でこの曲が一番初めだと思います。うーん、こうして聴くと歌が上手いですね。解散を決めて、気持ちがスッキリしたのが声にも出てるんだと思います。実は解散前に、青山のピアノ・バーであるパーティーがあって、そこで彼女たちはピアノ1台にマイク1本だけでこれを歌ったんです。それが素晴らしかったのを思い出しました。あれは本当に上手かった。彼女たちのあんなにすごい歌を聴いたのは、僕もあの1回だけしかないです。

――最後に、今回こうしてハイレゾでキャンディーズの楽曲を聴いてみたご感想を改めてお願いします。

松崎 アナログに近い感じがありますよね。歌とバックの音のバランスが良くて、ひとつずつの音もとてもよく聴こえて来ます。当時は、最先端のサウンドをどうやって取り入れるかということばっかり考えて作っていました。だから、全体的にどうかというのは実はあまり考えていなかったように思うんですよね。でも、こうして聴いてみると気持ちいい音になっています。レコーディング・エンジニアの吉野金次さん、野村正樹さんのお2人がキャンディーズのサウンドをしっかり育ててきた功績は大きいと思いますね。

 

(インタビュー&テキスト:細川真平)

 


 

今回ご紹介した代表曲の数々を含む決定盤ベスト!
GOLDEN☆BEST キャンディーズ コンプリート・シングルコレクション

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