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定期連載のトピックス

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 前回に引き続き、新田和長さんにオフコースのお話を伺った。そして今回は、二人から五人へと、グループが発展を遂げた時代のことを。しかしこれは、単に人数が増えた、ということに留まらず、自らのセルフ・プロデュースで音楽を届けていこうという、そんな宣言でもあったのだ。オフコース・カンパニーを設立し、レコーディングもライヴ活動も、より“自前”でまかない、より積極的に展開していくこととなる。五人がスタジオで頭をつきあわせて生み出したサウンドゆえ、それはそのまま、ステージでも響かすことが出来た。つまり彼らは人数が増えたことで、“等身大”にもなれたのだ。そして長い間蓄積してきたものが、「さよなら」の大ヒットで一気にブレイクを果たし、前人未踏の武道館10日間公演を大成功させる。しかし、これまでで最高のバンドの結束を感じさせたアルバム『We are』のあとに待ち受けていたのは、解散をイメージさせる『Over』と題されたアルバムだったのだった……。

(インタビュー&テキスト:小貫信昭)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聰、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――小田さんと鈴木さんのオフコースに、やがてギターの松尾一彦さん、ベースの清水仁さん、ドラムの大間仁世さんが加わり、5人体制となるわけですが……。

新田 1973年に吉田拓郎から「ビートルズを正確にコピーして演奏するバッドボーイズというバンドがいる。アルバムを制作しデビューさせないか?」という話しをもらいました。そのバッドボーイズのベーシストが清水仁君です。一方、武藤君が担当していた「ジャネット」には松尾君と大間君がいた。武藤君はこの3人をオフコースのメンバーに加えようと考え、流れをつくっていった。バックバンドではなくメンバーとして固めて行ったことが大きなポイントです。確かにオフコースの音は、すでにバンド的にはなっていました。(前編で聴いてみた)「眠れぬ夜」にしても、あれはまだ二人だけの時代だけど、その方向を打ち出してます。

――新田さんは「バッドボーイズ」にも関わりがあったわけですね。で、オーディションしたとか、そういうことではなく、この5人の“バンド”になった、と……。

新田 でもオフコースの音は、すでにバンドっぽくなってはいたんですよね。(前編で聴いてみた)「眠れぬ夜」にしても、あれはまだ二人だけの時代だけど、その方向を打ち出し始めてますしね。

――アルバムでいうと『JUNKTION』『FAIRWAY』のあたりで5人が揃いますね。その頃の代表的な作品を聴いてみましょう。「秋の気配」。

♪「秋の気配」(1977年)pc_btn_play.png

――この曲はファン投票でつねに上位にくる、ということでも知られる人気曲ですけど、想い出などございましたら、ぜひ。

新田 元々、彼等はアコギ2本,或は、アコギと生ピアノという編成であったために見た目からもフォークとカテゴライズされていました。しかし、他の日本の叙情派フォークとまったく違うのは、バート・バカラック、ジム・ウエッブのメロディーやコード感、或は、ポール・ウイリアムスの詞などにも強い影響を受けた正統派ポップスグループでした。74年に発売された2枚目のアルバム『この道をゆけば』ではかなりの曲がスタジオミュージシャンによる演奏に戻ってしまい悲観するようなこともあったと思いますが、そういう時間を経て、「秋の気配」は小田君とヤスさんの目指す音楽が形になった頃のすごい作品だと思います。アレンジも演奏も録音もすごい。ビートの取り方が16ビートで当時ではごくごく稀でした.16ビートで記憶にあるのはユーミンの「あの日に帰りたい」とか「中央フリーウェイ」くらい少なかった。小田君もヤスさんも大事にしていたビート感を高める為に大間ジロー君、松尾和彦君、そして、清水仁君を迎える。「秋の気配」は5人が揃った歴史的な作品なのだと思います。ドラムやパーカッションの演奏や音も驚きでした。清水仁君のあんな知的なベースにも驚いたものです。バッドボーイズの時はビートルズというお手本があった。今度は何も無いところから作り上げるのですから勝手が違ったと思います。仁君は慣れるまでの間、録音に時間がかかることもありましたが、大間君と松尾君の優しさ、忍耐力が助けたし、小田君にとっても仁君の不良性、正直さ、笑顔は救いだったのだと思います。で、その直後ではないけど、『Three and Two』というアルバムが出来上がるんです。本来なら長いこと苦労してきたんだし、“Two and Three”でいいところだけど、新しい三人を敢えてジャケットの“表1”にした。

――あれは画期的、いや、衝撃的でもありました。オフコースは小田さんと鈴木さんだと思ってた人達は、失礼ながら、「こ、この人達、誰?」、みたいな(笑)。

新田 しかも小田君の偉いところは、「五等分でやっていこう」って、みんなに言ったことです。こういう話しを私が披露していいものかどうかいくらか躊躇しますが……一例が給料の額です。いつから3人が正式にメンバーとなったかは分かりませんが、『Three and Two』の頃だとすれば1979年、『FAIRWAY』の頃と考えれば1978年です。オフコースが正式に何時から始まったかについてもいろいろな考え方がありますが、1969年には間違いなくレコードデビューをしています。芸能界の時代に音楽界を目指して、当時の人達とは似て非なる音楽を目指した訳ですから大変な苦労をしています。僕の力不足もあったし……。どう考えても小田君とヤスさんは新しく加わった3人よりかれこれ10年くらい先にデビューし困難な道を切り開いて来ました。ようやく自分たちがやりたい音楽を自由にやれるところまで来たし、ぼちぼちスターの仲間入りも果たしつつあります。普通は先輩であり功労者の2人の給料を多くし新たに加わった3人については少なくするものだと思います。でもリーダーの小田君はメンバーになった以上、新しいメンバーに対して公平、平等にしたということを知って、私は今でも忘れない程の感銘を受けました。小田君はそんなことを話しません。当時、武藤君から聞きました。本来、今回のインタビューは武藤敏史君が受けるのが一番良いのですが、実現しなかったので私は武藤君のことを語ることを条件に出てきたというわけです(笑)。今回は彼のことで言っておきたいことがあります。話にまとまりがなくて悪いけれど……彼が、もう口癖のように“ホップ・ステップ・ジャンプ!”って言っていた時期があるんです。

――と、いいますと?

新田 1978年の春には2人の時代のオフコースの記録、ベストセレクションが発売され、秋には新しい局面を迎えた最初のアルバム『FAIRWAY』が発売されました。その頃、武藤君は翌1979年度中には必ずミリオンヒットを出す!と編成会議や企画会議の席上機会あるごとに宣言をしていた。曲も勿論タイトルも存在しないうちから3部作をホップ、ステップ、ジャンプといった具合に時間をおかずに発売し、3作目は百万枚を売るという計画を打ち上げたのです。そんなにうまくいくものかしらという気持ちがないわけでもありませんでしたが、「武藤理論」と気迫に会社中がまとまりました。気持ちが揃った時の会社は底力が出るものです。メンバーも期待に応えてくれた。この頃は会社は営業的にもオフコースに期待をしてくれ、精神的にも理解者になってくれていた。といっても、長い道のりの中で通過して行った人達から受けた理不尽な経験の記憶はそう簡単には消えるものでもありませんでした。組織変更や人事,経費配分、アーティストの評価など、もう少し考えてくれればどれだけ嫌な思いもせず遠回りをしなかったか? と納得のいかないことは多々ありました。今に見返してやろう!という気持ちは作品づくりの素直な気持ちの中に常に混ざっていたように思う。振り返ってみれば良く会社を辞めなかった。高宮昇社長がいる間は頑張ろうといったウェットと言われるかも知れないがメンタルにはギリギリでやっていました。

――ではここで、“三部作”の最初、“ホップ”の役割を担った「愛を止めないで」を聴いてみたいと思います。 

♪「愛を止めないで」(1979年)pc_btn_play.png

――歌だけじゃなく、鈴木さんと松尾さんのツイン・リードの間奏が、まさにバンドの醍醐味も伝わる演奏ですよね。

新田 そうですね。ヤスさんと松尾君のツインリード、カッコ良いですね。イーグルスのホテルカリフォルニアで聞けるジョー・ウォルシュとドン・フェルダーの掛け合いからハモりに入っていくツインギターに匹敵します。イーグルスもオフコースもワイルドであっても知的なロックであることも共通していますね。3人が加わって本当に良かった……。小田君の声が若いですね。遂にやってくれたとうるうるします……。この曲はホップの役割を充分に果たしましたが、もし、ステップの役目で2作目、或いは、ジャンプの役割で3作目に発売されていたらどうだったのだろう等と考えたりします。さっき“時間をおかずに”と言いましたけど(ここで新田さんは持参した“オフコース・メモ”を見る)、79年の1月に「愛を止めないで」を出し、6月に「風に吹かれて」を出し、「さよなら」が12月と、とても短い期間だったわけですよ。そしてご存知の通り「さよなら」で、オフコースは押しも押されもしないバンドになっていったわけですけどね。この頃が会社と一番うまくいっていた時期だと思います。「さよなら」のヒットは、メンバーにとっては音楽をやめてしまいたい程の幾多の困難を乗り越えた結果だとつくづく思う。でもこれは序奏に過ぎないという高い志はみな一様に持っていたんではないかな。

――さて、ここで「さよなら」を聴きたいところなのですが、この作品はオリジナル・アルバムには未収録ということで、ベスト盤のハイレゾ配信化が望まれるところでございます!(※取材日の後日、ファン投票によるセレクション・ベスト『ever』が配信された。試聴・購入はこちらから) ところで会社を「見返してやろう!」というのは、この「さよなら」のヒットで果たすことが出来たのでしょうか?

新田 会社を見返してやろうという気持ちは果たせたのだろうと思います。でも、新しい問題が生じる。それは「さよなら」のヒットで手のひら返しをした人達はこれで一種のゴールのような気分でいるわけだけれど、もっと先の高い山をを登って行こうとする人達との間に存在する問題でしょう。「さよなら」のヒットした1980年はいい年のはずです。6月には武道館公演を2日間やります。11月にはアルバム『We are』が発売され1位を穫ります。私事ですが35歳で制作課長から制作部長に昇格します。武藤君はそのような状況の中で寺尾聰さんとも契約し制作を担当します。翌1981年には「ルビーの指環」とアルバム『Refrection』がとんでもないヒットをします。この場では正確な数字を述べませんが、オフコースの新譜や旧譜のカタログを分母にして、武藤君は一人で会社全体の売り上げの(洋楽も邦楽もビデオも特販もすべての中で)3分の1を売り上げます。さらに、翌1982年には伝説のオフコース武道館10日間公演が行われます。会社の社員一人一人に対する従来の公平感は、もはや能力主義、成果主義の時代において、とりわけ、この業種において不公平感になって来ました。単純に報酬の話をしているのではありません。レコード会社やプロダクションに才能がありやる気のある人財が入って来なくなる。即ち、いずれ会社も無くなる、業界もさびれる。実際、僕が創業したファンハウスも無くなったけれど我々が育った東芝EMIも無くなった。英国のEMIですら無くなった。ビートルズの原盤を持っていた会社ですら……。ジョージ・マーティンさんとは何度もこの辺りの話をしました。あれほどのプロデューサーがEMIを辞めたことを割と軽く捉えていた。金の問題もあったけど金の問題ではなかった。ここではこの問題はここまでにします。オフコースと関係がないからではありません。当然、制作環境は音楽と密接に関係していくのですが……その後のオフコースとハイレゾの話を進めましょう(笑)。

――小田さん自身、「さよなら」の時期は、どうやったらより多くの人達に「受け入れられるか」を意識してたそうですが、もちろんそれは、単に“売れれば”、とも違うような…。

新田 そうですか。「より多くの人達に受け入れられるか」を意識していたんですか? どのような意味か正確には分かりませんが、量的には実現してきているので質的なことも多分に含まれるのではないでしょうか? 小田君の優れた能力のひとつに観察力や分析力を挙げることが出来ます。簡単にブレイクしなかったからこそ多勢のアーティスト達がたどった道、今現在進行形の売れっ子たちを冷静に捉えることが出来たのだと思います。ただ売れるのではなく、どう売れるのか? 業界に利用されないバンドになる為の慎重さ、注意力は時に優柔不断に見える程優れていたと思います。自分達が生涯、「ライフワークとして音楽を続けていくにはどうしたらいいか?」ということを、小田君はずっと考えていた。次男的ポジションかも。長くと言っても、ダークダックス的ではない生き方を。

――80年のアルバム『We are』から、TOTOやボズ・スキャッグスなどを手がけた高名なエンジニア、ビル・シュネーがミックス・ダウンを行うようになります。このあたりは今回のハイレゾ配信においても、とても注目したいところですが……。

新田 僕が東芝音楽工業に入社した1969年、会社にはアンペックスの3チャネルのテープレコーダーしかありませんでした。翌1970年に「赤い鳥」と仕事をするようになってコーラスを多重録音するのに苦労しました.マルチテープレコーダーがないからです。3つのチャンネルをピンポン(移動)させたり2チャンネルから2チャンネルにダビングしたり、ベテランというか先輩のエンジニアからは嫌がられました。面倒くさいとか多重するとS/N比が悪くなるとか。何人も先輩のエンジニア達は逃げて行きました。そんな時に既成概念に縛られない年齢も同じくらいの遠慮なく仕事出来るエンジニアを探しました。徹夜してでもいい音楽をつくろうという熱のある人を。やったことのないことをやろうとする人を……。しかし、徒弟制度のようなものがあって、若いエンジニア達は小川のせせらぎとか鳥の鳴き声とか、蒸気機関車の走る音とか音楽の録音までさせてもらえない状況でした。その中の一人が蜂屋量夫君でした。僕は蜂屋君、通称、8ちゃんを誘いました。案の定、オフコース、ユーミン、サディスティック・ミカ・バンドから寺尾聰まで、いい仕事をしました。オフコースがレコードとライブの音の一致を目指したとき、蜂屋君はPAエンジニアであった木村史郎君にいさぎよくその座を譲り陰に陽に応援をしました。ビル・シュニーがミックスをやるようになった時も蜂屋君は率先してテープを持ってロスに行きました。楽器が出来ないといけないと言っては奥さんが演奏するチェロを自分も買い、習って、生の音を研究しました。そんな人です。コンプの使い方、リミッターの使い方、EQの設定、+のみならず−するのも上手い。時々ひとりごとを言う。組んでる人が駄目だと短気な面もあります。ビルのすごさはこれは世界レベルなので日本一と世界一の違いがあるのだと思います。でも、血の違い、歴史や文化の違いで如何んともし難いところと、実は、本当に紙一重のところとあるように思います。惜しいです。たとえ紙一重であっても大きな差ですから見逃せません。これはエンジニアの世界だけの話しではなくて音楽そのものの話しです。日本の音楽はいつどのように世界に出て行けるのか? ……この話はここではこのくらいに。

――では『We are』から、エンジニアのビル・シュネーのドラムの音処理の特色がイントロから分かりやすいと思われる「時に愛は」を聴いてみましょう。

♪「時に愛は」(1980年)pc_btn_play.png

新田 出だしから悔しいくらいクリスタルな透明感のある音がしていますね……。弦のこすれる音、0コンマ何秒の意図的なタイミングのズレ、すべての楽器の定位、幅、奥行き、隙間が見える氣がします。こじんまりせずおそらく実際のスタジオより広く伸び伸びと聞こえてきます。スティックがタムの皮に触れる瞬間の音、すかさず皮が元に戻る瞬間の音が連続して移動していく空気の流れを感じます。音圧も感じます。視覚的には移動するスティックの2本が何本にも増えてスローモーションで空気を切って流れていく。ベースの音も弾いている目の前50cmで見ている時に聞こえる指と太い弦がこすれボディーに共鳴している生の音が聞こえる。ラインがよく見えるからライン録りをしているのではなんて単純なことではないいい音ですね。アンプから出る音もマイクで拾っているのでは?なんていう単純な話でもない。場所によってコンプのかけ具合も触っているのかそんなことはせず自然のままなのか? わかりませんが素晴らしいです。小田君の歌についても、「始まりはいつも愛~」の出だしの「は」は、かすかな顔の動きを感じる。「それは~」の「そ」で唾が見える。「ただ青く~」の「く」で喉の形を感じる。「そ」は歯の隙間を感じる。舌の形かも知れない……。変態みたいですが(笑)、ディーテールの集合が音楽ですから。日本のエンジニアが録りの段階で丁寧に録っていたからビル・シュニーさんもこのように作れたという意味では日米合作です。アルバム全体についての思いということになると、そうですね、ツアーにおける楽屋がメンバーによって別のフロアーになっていくように難しい人間関係の中でよく作り上げたという感慨を持ちます。スタジオはビートルズの「LET IT BE」のレコーディングの重苦しさと重なるような印象を持っています。「Yes-No」が出来て本当に良かった……。

――でもオフコースって、せっかく『We are』というまとまりを見せたかと思ったら、次は『over』なんですよね。“over”を、バンドの終焉と受け止めた人もいて。

新田 そうですね。僕にもよくわからなかった。小田君はその後も自分の心の中をアルバムタイトルにしてメッセージを発し続けましたね。メンバーに対してもスタッフにも媒体にもファンにも織田信長の天下布武の旗印のように……。例えば、『The best year of my life』は、まさに今年1984年はお互いにそういう年にしようというメッセージが、『As close as possible』ではメンバーやスタッフが出来る限り近くになってというメッセージが……。そうだ、面白い話を思い出しました。ある日、小田君が自分の会社の要のスタッフがアズ・クロースなのに「クローズ」と発音したといって笑っていました。『STILL a long way to go』はグループを解散しこれから一人になるけれど音楽に終わり無し、これからも歩き続ける決意が出ていますね。セルフカバーアルバムに付けた『LOOKING BACK』もそのままですね。考えてみればデビューの前からOFF COURSEのOFFは群れない、並みでない、アウトロー的なロックスピリットが入っているし、それなのに「Fairway」、花道というタイトルは面白いですよね。2nd アルバムの「この道をゆけば」、GOIN'MY WAYも、初期に宣言した通りの人生になっって行ったし。ある時、嬉しそうに「“等身大”って英語で何て言うかわかる?」と聞くのです。「えー、何だろう?」と言うと「Life size っていうんだよ。いい英語だと思わない?」という話をしたことを思い出しました。

――この時期の曲では、どれを聴いてみましょうか。

新田 やはり聴かせてもらうとしたら、「言葉にできない」かな。

♪「言葉にできない」(1982年)pc_btn_play.png

新田 終始流れている4分音符の正確なキックは心臓の鼓動、これまでひたすら歩いて来た彼の人生、ソロアルバムも出さないでオフコース一筋で歩いて来た今日までをじっと振り返っているように僕には聞こえました。GのKeyでイントロが始まって「ラ~ラ~ラ~」の歌が入った瞬間にEbのKeyに転調する。何だこれと驚く。イントロのメロディー最後の音がG、転調したKey:Ebの出だしのLaが同じG。綺麗な転調ですね。「ラ~ラ~ラ~」が左右に分かれて二重で聞こえてくる。小田君ならいくらでも2つの歌を同じに揃えることが出来るのにわざと思うがままに無心で歌っている。「終わるはずのない愛が~」という歌の出だしでセンターから歌が登場する。ステージで言えば1本の明るいピンスポが中央の顔に当たった感じ。こんな優しく強い歌声は聞けない。また、「ラ~ラ~ラ~」で声は左右に広がる。「もう消えた~」の歌詞はダブルの声で強調している。美しい建築のような作りです。間奏のメロディーをハーモニカで吹いているのは、2人いるリードギターを誰にももう頼めなくなったのか? と妄想させる。妄想ですよ? あれだけうまくいっていたのに親の心子知らずか? 「リズムセクションの音量を上げて歌を下げるべきでないか? 小田さんは古いのではないか?」なんて3人から突き上げられることもあった。孤独だ。だから、この歌を聞いていて「哀しくて」、「くやしくて」のところまではこらえていた涙が「嬉しくて」でもう我慢出来なってくるんです。努力家だと思っていた人は、実は手の届かない天才だった。すごい歌ですね。世の中にはやたら長いだけの無駄な歌が多い中で、6分23秒のどこにも省けるところがない。エンディングではメロが8分音符で奏でられる。武道館10日間公演のひまわりが見えてくる。Codaはただの繰り返しではない。最後のリピート2回目に奏でられるラミファ・ソレミの対旋律にまたはっとする。昔、ビートルズの「All you need is love」を聞いていて終わりのほうでイギリスの第2の国歌とも言われるグリーンスリーブスがかすかにかに聞こえてくるのを発見した時のような感動が走る。小田和正のこだわりと才能にほれぼれとしたものです。聴き直してまたそう思います。是非、改めてハイレゾで聴いて欲しい。

――私が小田さんに取材した時のご本人の話では、まず“ラ~ラ~ラ~”の冒頭が出てきて、まさにこれは“言葉には出来ない感情なんだ”ということで、こうした作品になったんだと仰ってましたけど……。

新田 武道館10日間が終わって、これから先のグループのことを考えるに当たって僕は小田君にある提案をしました。「メンバー全員で中国に行かないか?」という誘いでした。「何故?」小田君はけげんな顔をしました。当然です。あまりにも唐突だし、しかもその頃は簡単には中国に行けない時代でしたから。冒険でした。僕は、「中国の長い歴史、文化、広さ等に触れれば我々が当面している問題が如何に小さいか、その先が見えてくるのでは?」といったようなことを答えました。ちょうど東芝EMI会長の高宮昇さんが中国の招きで、日中友好協会が主催する長旅に行かれる計画が進んでいました。「お供で連れて行ってもらわないか?」と言いました。小田君は、「行こう」と答えてくれました。準国賓待遇の正式訪中団の随伴ということで、我々は3週間を費やして北京、西安、洛陽、上海の旅に出ました。車は僕らが乗っている車くらいしか見当たりません。広い道路の対向車線からは何百何千という数の自転車が赤とんぼのように途切れること無く走ってくる時代でした。北京の最後の晩、お世話になった中国の人たちに対して日本側が中国料理店で答礼宴を開きました。丸いテーブルが4つか5つくらいの人数でした。最後にオフコースからも一言ということになり小田君は挨拶の代わりに日本から持って来たオベイションのギターでメンバーと「いつもいつも」を歌いました。「あなたのことは忘れないよ ふるさとの海や山のように、ふるさとの父や母のように、いついつまでも、いつもいつもいつも……」通訳が歌に合わせて訳していきます。歌う側も聞く側も涙無しにはいられませんでした。音楽の力は偉大だと思ったことは何度もありますがこの時のことはいつまでも決して忘れません。おそらくメンバーは並みでは味わえない経験をして、それなりの収穫を持って帰国したのだと思います。それから約6年、解散をする1989年までオフコースは活動を続けます。

 

――前編・後編と、2回に渡りお話を伺ってきましたが、最後にハイレゾで音楽を楽しめる時代がやってきたことに関して、最後にご感想を伺えますでしょうか。

新田 映像はどんどん画像が進化していってるし、家庭内でも屋外でも大型化している中で、オーディオだけはどんどん小さくなっている。音というのはある音量を出さないと本来の音になはなりません。ですからスピーカーにしろヘッドホンにしろ、音の質だけが大事なのでなくて音量そのものが必要だと考えます。個人的にはスタジオモニターのようなスピーカーでそれなりの音量で聴くのが好みですが、ハイレゾ対応のヘッドホンには驚かされました。日進月歩で想像をはるかに超えていました。私も考えを改めないといけないと思っています。そもそもCDが登場した1982年から5%台に普及した1984年あたりはアナログは古いもので音が悪く、デジタルこそが万能みたいに思っていました。その後も暫くそういう風潮が続いたし、実際CDの普及でどれだけ便利になったか、個人的にもどれだけお世話になったかわからない。業界は特需景気を経験しました。約30年が経過しデジタルの究極の目標は、限りなくアナログの音質に近づけることだと誰もが感じるようになった。我々音楽の制作者たちはいつかCDの限界を解決してくれるシステム、ハードウェア、インフラが出現することを夢見て、せめてスタジオにおけるレコーディング時にはいつかそういう時代が来たら対応出来るようにと192khzのサンプリング周波数、24bitで原盤、いわゆるオリジナルコンテンツを固定してきたんです。CDを開発したのもSONYですが、それ以上の音を開発するために今も同じSONYが先頭に立って挑戦されていることに素直に敬意を表します。そして、この先を楽しみにしています。夢が無くなったら音楽産業は成り立ちません。ミュージシャンが演奏しているそのままの音、或はそれ以上の音、プロの人達が普段スタジオで聞いている音が世の中に届けられたら、ただマーケットが拡大するだけでなく誕生する音楽そのものに影響を与える。ライブにしか興味を感じていない人達に家庭でいい音で何度でも誰とでも聞ける楽しみ方が出来るようになって欲しい。ヒットした曲をライブで聴くだけでなく、ヒットを生み出していく聴き方を皆がしてくれると嬉しいです。

――2回に渡り、貴重なお話をありがとうございました。

 

 


 

オフコースのハイレゾ音源はアルバム10作品が配信中!(2015年12月現在)
『JUNKTION』『FAIRWAY』『We are』『over』など……

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ファン投票によるセレクション・ベスト
『OFF COURSE BEST "ever" EMI Years』

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

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File07. 「ムーンリバー」(作曲:ヘンリー・マンシーニ)

 

 

※先に動画を再生してからお読みください。津田氏が実際にピアノを弾きながら解説しています。

 

今回はヘンリー・マンシーニが生んだ名曲「ムーンリバー」をご紹介します。

「ムーンリバー」はオードリー・ヘプバーンの代表作のひとつ『ティファニーで朝食を』の主題歌です。劇中でオードリー・ヘプバーンが歌う姿を見ることもできます。アカデミー歌曲賞に加え、グラミー賞最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞するなど、当時とても高い評価を得たこの作品はやがてスタンダードナンバーとなり、数えきれないほどのカバー作品が発表されていきます。

作曲したのはアメリカ映画音楽の巨匠、ヘンリー・マンシーニ。 同じくオードリー・ヘプバーン主演の「シャレード」や「酒とバラの日々」など、有名な作品がたくさんありますが、私は『刑事コロンボ』のテーマが大好きでした。

それでは早速、名曲としての魅力を確認していきましょう。
(※ 以降、移動ドで音階を表します)

まず最初は「ソーーーレドーー」と とても素直で美しいメロディーで始まります。 明るい和音で始まり、「レドーー」のところで和音が暗くなるところもポイントです。

続いて再び明るい和音にのせて、 「シーーラソファソーー」と、降りてくる 美しいメロディーが登場します。なぜなら、最初の「シ」は支える和音にとって『タブー』の音なのです。だからこそこのメロディーが光るのです。 

その『輝くメロディー』の直後、「ドーーレーー …」のメロディーに導かれるように、悲しみに満ちた和音が響きます。このように、輝くメロディーから憂いを帯びた世界に変わる、といった変化の美しさが名曲には共通して備わっているんですね。 そしてその変化が、聴いている人の心を優しく揺り動かしてくれるのです。

美しい変化は続きます。「ミドーーー」で少し寂しい感じになった直後に、まるで突然 「ソミーーー」で陽が差すかのように明るくなり、 「レドーーー」はそのまま穏やかだけど 「ソミーーー」では迷うような、どこか浮遊した感じに変化します。

そして結局、和音は再び暗めの雰囲気に落ち着くのですが、 その瞬間、直前で穏やかに動いていたメロディーが、下から上へ「ドーミーソー」と一気に昇ります。

和音だけではなく、このメロディーの動きの変化にも注目してもらえれば、と思います。「ドーミーソー」に続いて 「ドーシーーラ」と切なく下がるメロディーに合わせて和音はとても切なく響きます。

そして音程が1度(全音)下がって 「シーラーーソ」と同じようにメロディーが動くのですが、たたみかけるように反復するメロディーも、音程が1度下がったからなのか、切なさから愛のある感じに変化しています。 その雰囲気に合わせるように、和音も愛のある感じに変化しています。

そして「ラーーソ」ともはや優しさが溢れるような落ち着きを取り戻したメロディーを、ちゃんと優しい和音が包んでいます。この一連のメロディーと和音のコンビネーションの素晴らしさも、この曲が名曲であることを物語っています。

その後しばらく、「ソーーーレドーー」の素直なメロディーから「シーーラソファソーー」輝くメロディー、「ドーーレーー …」と悲しみに満ちた和音までが繰り返されますが、続く「ミドーーー」で少し寂しい感じになった次のメロディーは「ミーーソーードーー…」と、高く高くメロディーが昇って、切ない感情の高まりを 豊かに表現します。 この感情を支えている和音は、ちょうど先ほど (「ドーミーソー」に続いて「ドーシーーラ」と切なく下がるメロディーに合わせて和音はとても切なく響きます。) と書いたところの「ドー」を支えている和音なのです。

つまりこの和音は切なさの表情を醸し出す和音のひとつなのですが、優れた作曲家はこのような和音の表情をメロディーに合わせて巧みに使い分けているわけです。

そして、「ミーーソーードーー…」の「ド」よりさらに高い「レ」から始まることによって、 「レドソーーー」と降りてくるメロディーがさらに強い感情を表現しますが、もはやその感情は切なさから、そして悲しみから、まるで決別するかのような強さに満ちています。 悲しみから希望に変化していく予兆を感じさせているわけです。

その、強さと共に降りてきたメロディーはこのキー(調)の中で最も明るいエネルギーを持つ、ホームの和音(トニックコード)に守られながら、次のメロディーにつながっていきます。そのメロディーは、「シラソファソーー」と、降りてくるメロディーです。

実はこのメロディー、最初の一音の長さこそ短めですが、曲の最初の方に登場する、あの『輝くメロディー』と同じなのです。 この曲の最大のポイントである『輝くメロディー』が、僅かに形を変えて、別の役割を担ってここに再び登場しているのです。

悲しみと決別した今、『輝くメロディー』は平和な和音に支えられながら、大切だからでしょうか、2回繰り返されます。

そして最後にメロディー「ド」で落ち着いたあと、 「ファレーーー……ミードーーー……」 と優しさに溢れたメロディーが、このキーで一番優しさに満ちた和音に包み込まれながら、曲は終わります。

いかがでしょうか。 こうして世界的なスタンダードナンバーの美しさ、素晴らしさを見ていくと、名曲である理由がちゃんと存在していることがわかりますね。 そして、このような「名曲の理由」というのは、決して理論や頭で作れるものではなく、作曲した人の心の震えや豊かな感情が、そのまま音となって生まれた瞬間にだけ訪れる奇跡の結果なのです。 

名曲を聴くと心が浄化され豊かになるのは、生んだ人の美しい心と聴く人の心がそのままつながるから……なのかも知れません。

 


 

■津田直士プロデュース作品のご紹介■

DSD配信専門レーベル "Onebitious Records" 第3弾アルバム
Anming Piano Songs ~聴いてるうちに夢の中~

1. G線上のアリア / 2. 白鳥~組曲『動物の謝肉祭』より / 3. ムーン・リバー / 4. アヴェ・マリア / 5. 見上げてごらん夜の星を / 6. 心の灯 / 7. ブラームスの子守歌 / 8. Over The Rainbow / 9. 夜想曲(第2番変ホ長調) / 10. 優しい恋~Anming バージョン / 11. ベンのテーマ /12. LaLaLu

試聴・購入はこちら

 


 

【プロフィール】

津田直士 (作曲家 / 音楽プロデューサー)
小4の時、バッハの「小フーガ・ト短調」を聴き音楽に目覚め、中2でピアノを触っているうちに “音の謎” が解け て突然ピアノが弾けるようになり、作曲を始める。 大学在学中よりプロ・ミュージシャン活動を始め、'85年よ りSonyMusicのディレクターとしてX(現 X JAPAN)、大貫亜美(Puffy)を始め、数々のアーティストをプロデュ ース。 ‘03年よりフリーの作曲家・プロデューサーとして活動。牧野由依(Epic/Sony)や臼澤みさき(TEICHIKU RECORDS)、アニメ『BLEACH』のキャラソン、 ION化粧品のCM音楽など、多くの作品を手がける。 Xのメンバーと共にインディーズから東京ドームまでを駆け抜けた軌跡を描いた著書『すべての始まり』や、ドワンゴ公式ニコニコチャンネルのブロマガ連載などの執筆、Sony Musicによる音楽人育成講座フェス「ソニアカ」の講義など、文化的な活動も行う。

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第14回:ヴェルディ:歌劇『リゴレット』から「女は気まぐれ」

~聴けば「元気100倍」になるオペラ~

 

 ヴェルディの歌劇『リゴレット』には「女は気まぐれ」という曲がある。一般に〈女心の歌〉と呼ばれる有名な曲だ。たとえ知らない人でも、いちど聴けばメロディを覚えてしまうだろう。

 この曲は第3幕で女好きのマントヴァ公爵が歌う。歌詞は「女の気持ちは、風に舞う羽のように移り気だ」といった内容で、今も昔も変わらない(?)女心を歌ったものである。これぞイタリア・オペラと言わんばかりの、明るく、あっけらかんとしたメロディだ。ここには移り気な女心に悩む男の姿などみじんもない。むしろ楽しんでいるかのようである。好色なマントヴァ公爵が歌ってこそのアリアであろう。

 歌詞のことはひとまず横において、僕はこの「女は気まぐれ」の軽快なメロディが大好きである。けっしてこの曲を軽んじているわけではない。それどころか、細かいことを気にしないで、大らかに生きる勇気をもらえる貴重な曲だと思っている。聴いたり、口ずさんだりするだけで元気が出てくるのである。

 しかし「女は気まぐれ」の聴き所は軽快さだけではない。それを説明するためには、オペラのあらすじを簡単に書く必要があるだろう。

 道化師のリゴレットはマントヴァ公爵に仕えていた。そのマントヴァ公爵は女好きで、リゴレットの娘ジルダにも、貧しい学生といつわって言い寄っていた。そんなとき、マントヴァ公爵の家臣たちは、リゴレットを笑い者にするため、ジルダを彼の愛人と勘違いして誘拐してしまう。

 怒ったリゴレットはマントヴァ公爵の館に向かい、娘を無事取り戻す。そして復讐を誓うのだった。リゴレットは殺し屋にマントヴァ公爵の殺害を依頼する。そうとは知らず、マントヴァ公爵が嵐の夜に居酒屋で歌うのが、この「女は気まぐれ」なのである。

 しかしジルダはマントヴァ公爵を愛していた。ジルダは殺人の計画があるのを知ると、マントヴァ公爵の身代わりとなって、殺し屋に身をゆだねるのである。そうとは知らないリゴレットは、殺し屋から死体が入った袋を受け取る。恨みを晴らして勝利に酔うリゴレット。

 とその時、遠くから聞えてくるのが、またもマントヴァ公爵の歌う「女は気まぐれ」である。死んだはずのマントヴァ公爵が、なぜ生きている? 「女は気まぐれ」が能天気なメロディなだけに、この場面は劇的だ。同じ曲でありながら180度違う効果を生み出すヴェルディの手腕は見事である。

 ちょっとオペラの話で熱くなってしまったが、やはり僕が言いたいのは、「女は気まぐれ」を聴くと嫌なことは忘れて元気が出る、ということである。

 ハイレゾではマリア・カラスが歌う『リゴレット』が配信されている。1955年録音(モノラル)とあってオーケストラこそ固めの音質だけれども、オペラを問題なく楽しめる音質である。特に声楽は最新録音と劣らないクオリティで聴ける。ジルダのマリカ・カラス(ソプラノ)やリゴレットのティト・ゴッビ(バリトン)など、20世紀を代表する歌手が豊かな音質で蘇る。マントヴァ公爵を歌うのは、地中海に降り注ぐ太陽のように明るい声のジュゼッペ・ディ・ステファノ(テノール)だ。ハイレゾなら声の艶も際立って、「女は気まぐれ」を聴くとそれこそ元気100倍である。

 

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Verdi: Rigoletto (1955 - Serafin)/Maria Callas
(FLAC|96.0kHz/24bit)

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【牧野 良幸 プロフィール】
 
1958年 愛知県岡崎市生まれ。
1980関西大学社会学部卒業。
大学卒業後、81年に上京。銅版画、石版画の制作と平行して、イラストレーション、レコード・ジャケット、絵本の仕事をおこなっている。
近年は音楽エッセイを雑誌に連載するようになり、今までの音楽遍歴を綴った『僕の音盤青春記1971-1976』『同1977-1981』『オーディオ小僧の食いのこし』などを出版している。
2015年5月には『僕のビートルズ音盤青春記 Part1 1962-1975』を上梓。
 
 
 

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Vol.22 Theme : 「音楽家は政治を語るべきなのか、語らざるべきなのか
 

 

 2015年はどんな年だった? 世間的には決してハッピー一色ではなかった……ってのが皆の共通認識なのかな……グッドニュースよりは悪い知らせの方が印象に残ったんじゃない? オリンピックを巡るドタバタや、イデオロギーの衝突、海外でもイデオロギーや宗教の軋轢が連鎖してる印象だし、ここ日本でも政治に関するニュースでほっこりしたり喜んだりした記憶はほぼ無かったかもね……。

 そんな政治不信をひっくり返すべく始まったのがPUNKの一つのきっかけでもあるんだけど、今回はアメリカで最初にポリティカル(政治的)なメッセージを発信したPUNKバンド、デッド・ケネディーズを紹介するよ。バンド名からしてポリティカルな匂いがプンプンしてるでしょ?

  1978年にサンフランシスコで産声を上げた彼ら、通称デッケネは、元々ロカビリーをやっていたギタリスト、イースト・ベイ・レイが、当時勃発したPUNKに触発されてスタートしたので、いわゆるストレートなPUNKっぽさ……性急な8ビートにシャウト気味なVo.……っていうスタイルとはちょっと一線を画していたというか……どこかキッチュでキャンプな、まるでB級映画のサントラのようなまがまがしさを放ってるんだよね。勿論ビートは早いんだけど、サーフ/ガレージのようなエコーたっぷりのギター(「Holiday In Cambodia」)や、ウェスタン映画のようなギャロップ・ビート(「When Ya Get Drafted」)を、PUNKという解釈で倍以上のスピードで演奏したかのような前のめり感が超気持ち良い。

 そして常に半裸でのたうち回るVo.ジェロ・ビアフラの独特の声……高いダミ声にビブラートたっぷりなスタイルは、その後のフェイス・ノー・モアとかガンズ&ローゼスに影響大な個性。アンセム的名曲「Kill The Poor」冒頭の歌い上げから畳み掛けるバンドインの気持ち良さ、「Drug Me」やこれまた大名曲「Too Drunk To Fuck」等の早口言葉みたいなカタルシスはデッケネの象徴。空恐ろしいタイトルなのに、どこか飄々としたユーモアを漂わせる効果も絶大。勿論タイトルや歌詞、そもそもバンド名も政治的なブラックユーモアだらけなので、アメリカよりも先にブラックジョーク好きなイギリスでチャートインするという逆転現象が起こったり、LIVEではビアフラが客に殴られながら歌ったりと、まさにPUNXらしいカオスに包まれていたのもデッケネらしさ。

 しかし80年に発表された1stアルバム『フレッシュ・フルーツ・フォー・ロットン・ベジタブルズ』は名曲揃いの大名盤なのは間違いなく、その鮮烈なサウンドはキッズから、ブラックユーモア好きのインテリ層まで同時に虜にするという離れ技を見せ、一気に全米アングラ・シーンにその名を轟かせたんだけど……エイリアンのデザインでお馴染み天才画家H.R.ギーガーの卑猥なポスターを封入したことで猥褻罪を巡る裁判沙汰になり、その辺からバンド内の人間関係にも不協和音を生み出してしまったというか……裁判の疲弊や、ビアフラ以外のメンバーへの印税未払い等、数々のトラブルが巻き起こり、ビアフラvsイースト・ベイ・レイの間に決定的な溝が出来てしまい、バンドは86年にあえなく解散。2001年にはレイを中心に、ビアフラ以外のメンバーで再結成を果たし、現在も全世界をツアー中。当のビアフラはレーベルを運営しながら数々の音楽プロジェクトに参加しつつ、サンフランシスコの市長選からアメリカの大統領選挙までチャレンジし、現在もポリティカルな活動に余念がない……どんな状況にあろうともブレないPUNK魂、この機会に是非チェックせよ。

 

 さて、俺にとっての2015年は、ザ・スターベムズのメンバーチェンジがあり、勿論それはバンドにとっては苦境に立たされたような状況だったけど、メンバーやスタッフ、そして勿論リスナーやLIVEで実際に観てくれたオーディエンスに支えられて、スターベムズとしての新たなサウンドやパフォーマンスを体得できたような……うまく言えないけど「雨降って地固まる」みたいな一年だったかも。ひとまずありがとう、来年はもっと精進して更にスゴい音を届けるように頑張ろ。良いお年を!

 

今回ご紹介した作品!
『Fresh Fruit For Rotting Vegetables』
Dead Kennedys

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【日高央 プロフィール】
 
ひだか・とおる:1968年生まれ、千葉県出身。1997年BEAT CRUSADERSとして活動開始。2004年、メジャーレーベルに移籍。シングル「HIT IN THE USA」がアニメ『BECK』のオープニングテーマに起用されたことをきっかけにヒット。2010年に解散。ソロやMONOBRIGHTへの参加を経て、2012年12月にTHE STARBEMSを結成。2014年11月に2ndアルバム『Vanishing City』をリリースした。

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ハロー、エブリボディ!

音楽ライターの原田和典と申します。敷居が低くてわかりやすくて親しみやすい音楽「ジャズ」の魅力を、ハイレゾ化されているアイテムからブロロロロー、ズババババーン、ギュンギュギューンと水木一郎さんの歌声のように痛快に紹介していこうではないか、とたくらんでおります。

ぼくが選んでいるとどんどん社会性のないセレクションになっていくと思われますので、盤のセレクションは編集部のAさんに一任します。Aさんの投げた球を、とにかく俺は打つ! それがホームランになるかファウルになるかは風の吹くままだ!!

 

……今回のお題はハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』です。

 

Head Hunters/HERBIE HANCOCK

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おお、これはなかなか楽しい1枚ですね。そしてぼくを音楽の世界に引きずり込んだきっかけとなる作品でもあります。

というのは3歳の頃でしょうか、両親からクリスマス・プレゼントにもらった記憶があるのです。なぜか? ぼくが「欲しい」と言ったからです。どこでその情報を知ったのか? それはすっぽりと記憶から抜け落ちています。ただどこかで、ウサギがピアノを弾くジャケットを見て、すごく強く印象に残っていたのは間違いありません。

子供にはおもちゃとか何かをプレゼントするのが普通なんじゃないかと思うのですが、ぼくの家は親がバンドマンだったこともあり、小学校3~4年ぐらいまでは毎年レコードをくれました(地球儀をもらったこともあります。「日本ってこんなに小さいのか」「地球って丸いんだ」ということをこの時に知りました)。12月25日の朝、しばらく真空管アンプを暖めて、ターンテーブルにLPを乗せて、流れてきたのがA面1曲目の「カメレオン」。ボンボンボンボンという低音のイントロを聴いた数秒後、幼いぼくは踊り出していたに違いありません。

思い出すと、その当時の原田家にはよく新しい音楽がかかっていました。クール&ザ・ギャングクイーンタワー・オブ・パワーといった“新人バンド”の“新譜”を、親の膝の上で聴きました。当時、同一の会社から国内盤が出ていたためかライバル視されることもあったディープ・パープルとレッド・ツェッペリンは叔父がファンだったので、彼の部屋で聴きました。猫を何匹も飼っていた親戚のお兄さんの部屋の壁にスリー・ディグリーズのポスターが貼ってあったことも、ありありと思い浮かびます。ほかにもフリーシカゴマウンテンサンタナなどなど、むさぼるように聴きました。

ぼくの父はジーン・クルーパ(元ベニー・グッドマン楽団のスター奏者で、昭和27年と28年に来日)に憧れてドラムを始めたのですが、リスナーとしては新しいものに貪欲でした。上京して四半世紀以上になる自分が、今も飽きずに“何か新しい発見はないか”とライヴ会場をうろちょろし、水曜日のカンパネラや3776やハイエイタス・カイヨーテにわくわくしているのは、このDNAによるものかもしれません。

話が飛んでしまいました。やがてぼくは幼稚園に入ります。コレクションにはマイルス・デイヴィス『パンゲアの刻印』やボブ・ジェームスの『2』も加わりました。しかし『ヘッド・ハンターズ』は相変わらず聴き続けていました。「ウォーターメロン・マン」に合わせて空き瓶を吹いたり、「スライ」にあわせて割りばしで雑誌を叩いたり。漢字もすこしずつ読めるようになってきたので、ライナーノーツ(解説文)にも目を通しました。執筆者は小倉エージ氏。ぼくが最初に認識した音楽評論家です。

編集部のAさんは、ぼくとは20歳ほど違います。彼は『ヘッド・ハンターズ』を聴いて、こんな感想を寄せました。

 

“まず、単純にシンセをフィーチャーしたエレクトリック・サウンドであることに驚きました。サックスやトランペット、ピアノなどアナログ楽器でメロディを奏でるのが「ジャズ」だと思っていました。また、リズムのグリッド感が非常に強いことも驚きでした。これも先入観なのですが、ジャズというのはインプロビゼーション、リズムに関しても「ゆらぎ」を重視するものだというイメージがあったので。そもそもスタジオ・ワークで作られたジャズ・アルバムというのがあるとは思っていなかったところがあります”

 

この意見に大いに触発されました。「ジャズはアナログ楽器によるもの」というイメージを、自分は一度も持ったことがないからです。それはぼくがエレクトリック・サウンドを導入した音楽の黄金期(といっていいでしょう)に、さまざまな音楽の洗礼を受けたからではないか、とも感じます。

『ヘッド・ハンターズ』は40数年前の録音です。なのでいくらハイレゾであろうと「2015年の響き」はしません。あなたが当時を体験していないリスナーであれば、オールド・ファッションなサウンドの中から新鮮味をピックアップして聴く、という姿勢が求められるかもしれません。しかし参加メンバーは全員が今も生存しています。ハンコックはロバート・グラスパーに大きな影響を与え、ドラムで参加しているハーヴィー・メイソンのバンドには一時期カマシ・ワシントンが加わっていたりなど、現在の熱いジャズ・ムーヴメント(と断言しましょう)ともしっかりつながっています。そこを踏まえながらぜひ、『ヘッド・ハンターズ』を今の空気に解き放っていただきたいと思います。

 


 

■執筆者プロフィール

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原田和典(はらだ・かずのり)

ジャズ誌編集長を経て、現在は音楽、映画、演芸など様々なエンタテインメントに関する話題やインタビューを新聞、雑誌、CDライナーノーツ、ウェブ他に執筆。ライナーノーツへの寄稿は1000点を超える。著書は『世界最高のジャズ』『清志郎を聴こうぜ!』『猫ジャケ』他多数、共著に『アイドル楽曲ディスクガイド』『昭和歌謡ポップスアルバムガイド 1959-1979』等。ミュージック・ペンクラブ(旧・音楽執筆者協議会)実行委員。ブログ(http://kazzharada.exblog.jp/)に近況を掲載。Twitterアカウントは @KazzHarada

 

 

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