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6月1日、デビュー25周年を記念したニューシングル「ゴールデンタイム」の配信がスタートしたORIGINAL LOVE。NHK・Eテレ「ニッポン戦後サブカルチャー史」で90年代音楽の特集が組まれた際、渋谷を中心に独自のチャートが形成されていた現象を紹介する文脈で大きく名前が取り上げられるなど、今再び注目を集めている。「渋谷系」と呼ばれたそのムーブメントは現在に至るまで錯綜した定義を持つが、ORIGINAL LOVEの首謀者たる田島貴男は「ミュージシャン主体で音楽を作って、それが結果的に動きになった」ものだったと語る。音楽が純粋に音楽であれた、その特別な時代と空間。当事者としてつぶさに見つめてきたからこその証言を、いまここにお届けする。

 


 

――今年に入って、ORIGINAL LOVE初期の4アルバム(『LOVE! LOVE! & LOVE!』『結晶』『EYES』『風の歌を聴け』)がハイレゾ化されました。新曲の配信もスタートしましたが、ここでいま一度ORIGINAL LOVEのルーツを紐解くべく、今回デビュー当時のお話を伺いたいと思います。

 

ORIGINAL LOVE前夜

――ORIGINAL LOVEってレコーディングバンドという側面はもちろんありつつも、肉体的なライブバンドという側面が強い気がするんですけれど。

田島 ORIGINAL LOVEの前身であるThe Red Curtainを始めた頃は違ったんです。僕は宅録少年でした。中学一年のときからずっとピンポン録音で曲を作ってて、高校卒業するくらいまでにストックが100曲くらいありました。大学に入って自分の曲を聴いてもらった友達の薦めもあって、バンドを組んで曲をお客さんに披露することになりました。しょっちゅうライブをやることによって、ライブの面白さに気づいて、ライブバンドにいつの間にかなってたんですよね。ただやっぱり曲をレコーディングしたものを人々に聴いてもらいたいという気持ちは同時にあったし、あの頃はいろいろやりたいことがいっぱいあって、楽しくて苦労は感じませんでした。とにかくあれもこれもやりたいという感じで。最初のORIGINAL LOVEのライブは自分で企画して、僕と木暮晋也ですけど、彼は彼でバンドを組んで。渋谷のライブハウス、ラママでやりました。

――その頃は木暮さんはロッテンハッツ(木暮の他、GREAT3の片寄明人、白根賢一らが在籍したバンド)ですか?

田島 いや、ワウワウ・ヒッピーズです。というかライブの日程が決まったとき、木暮はワウワウ・ヒッピーズもまだ組んでませんでした。僕のデモテープを持って行って、いろんなライブハウスを回るんだけど、ほぼ門前払い状態で(笑) ラママの、その頃の店長が、優しい人だったんで、お願いしますって言ったら、とりあえず貸切だったらいいよと。ライブハウスとしてブッキングはしないけど、貸し切りだったら貸すよって。 それでぜひやらせて下さいと。だからたぶん最初のライブはラママで出してるフリーペーパーあるじゃないですか、あれに「貸切」って出ちゃって。で、そういう感じで、お金もまったくなかったし、でも企画しちゃったもんだから、しかも木暮はまだバンドも組んでないしという状態で。「木暮はやくバンド組め」って言って、フールズメイト(音楽誌)にバンド募集の告知を出して。それで集まってきたのが白根賢一と高桑圭だったんですよね。

――すごいですね。

田島 Charaさんとかラブ・サイケデリコもやってる。あと僕の和光大の友達を紹介してワウワウ・ヒッピーズはその四人でやることになりました。僕はすでにThe Red Curtainを結成していました。準備期間は半年以上ありましたね。チケットは手売で、僕はひとりで60枚くらい売りましたよ。大学のキャンパスだとか、駅前で売ったりとかしました。結局満員だったんですよ。それで店長さんも「じゃあ、きみたち月イチで、やっていいよ」と言ってくれて、それで始まったんですよ。それから、うちでもやらないかって、他のライブハウスからも声がかかるようになっていって。

――それが何年くらいの話ですか?

田島 86年ですかね。

――宅録から始まり、その辺りで音楽家としての人格形成がされるわけですね。

田島 そうですね、とにかくパワーはありまくりで(笑) 髪型とか服装とかめちゃくちゃ変な格好してたんですけど、それでも気持ち悪がられながらもチケットを買ってくれる人はいてね。インディーで『ORIGINAL LOVE』ってアルバムを作るんですけど、あのサウンドはもうできてたんで、レコード会社の人も面白いって声をかけてくれて。

――それではここでようやくまずは1stアルバム。『LOVE! LOVE! & LOVE!』のお話をおうかがいしたいのですが2枚組ということもあって、ビジュアル的にも音的にも情報量に圧倒されたんですけど、なぜこういうデビュー作にして濃厚な作品ができたのでしょうか?

 

ORIGINAL LOVE黎明期~アルバム『LOVE! LOVE! & LOVE!』『結晶』『EYES』

田島 その前にORIGINAL LOVEの活動が5・6年くらいあったのでね。僕が18,19ぐらいからやり始めて、2年目か3年目くらいにピチカート・ファイブの誘いがあったんですね。なんで誘いがあったかというと、インディーレーベルであるミントサウンドレコードが作ったオムニバスアルバムに参加したんです。2枚作ったんですけども、1枚目はThe Red Curtain名義で2枚目はもうORIGINAL LOVEになってたかな。そこに小西さんも参加してたんですね。そこで小西さんに出会って、ピチカート・ファイブがソングライター兼ボーカリストを探してると。しかもレコーディングだけじゃなくライブ活動をするために……ということでライブ要員としても、僕がぴったりだと。あと僕の音楽を聴いて気に入ってくれてたということで、加入することになりました。

――『couples』(ピチカートファイブのCBS・ソニー第一弾アルバム)のを出す前の話?

田島 出してからですね。そこで僕が入って、でも専属契約だったんで、ORIGINAL LOVEは他のレコード会社と契約しちゃいけないと。でもピチカート・ファイブはレコーディングの知識とか、音楽の知識を学ぶためにとてもいい現場だと思っていました。そのときから二足のワラジの生活が始まったんですね。ORIGINAL LOVEは基本的にロックバンドですから。パンク、ニューウェイブから始まって、中学高校のときからずっと曲を書いていてそれをやる場だったんですけど、ピチカート・ファイブは小西さんのアイデアがまずあって、それに基づいてどういう作品を作るかっていう場所なんですね。だから全然曲の作り方、コンセプトが違う。ORIGINAL LOVEはレコードは出せないから書いた曲を、ライブハウスでやってたんですね。ピチカートで3枚やったあとやっぱりORIGINAL LOVEで自分の音楽を追求したいと。それで脱退して、ソニーの契約も切れたんで、じゃあORIGINAL LOVEでデビューしようと。だからめちゃくちゃ曲がたくさんあったんです。デビュー前にもう何十曲あったのかな、どの曲を選ぼうっていう状態でね。それとメジャーデビュー直前でメンバーチェンジがいろいろあったんですね。メジャーデビューする前と後とでORIGINAL LOVEのサウンドはかなり違います。メジャーデビューする前のサウンドにはキーボードがいない。ギターバンドだった。そんなこんなで曲がやっぱり絞り込めないから、2枚組にしようってことになって。

――それは誰のアイデアだったんですか?

田島 当時のマネージャーだった井出さんだったと思います。そのほうが面白いんじゃない?って。2枚組にすると値段が高くなるけど、それでもいいんじゃないかという感じで。

――『結晶』はもう次の年ですよね? 先行シングルも出て。ということはそこまでのストックがかなりあって?

田島 ストックというかアイデアがありましたよね。4枚目ぐらいまではありました(笑) あのころはいろんな音楽を浴びるように聴いてましたね……高校のときはパンク、ニューウェイブが好きだったんですけど、大学で東京に出てきて、中古レコード屋さんでバイトしたりいろんな音楽やってる人に出会ったり、小西さん、ピチカート・ファイブに関わることによって、パンク、ニューウェイブのアーティストはこんな音楽に影響されたのか、ロックの系譜はこうで、ポップスはこうでというふうに、なんとなくポピュラーミュージックが分かってきて、僕もいろいろ学びたいっていう時期だったんで、雑食的っていうか、いろんなところに手を伸ばした時期で、曲がいっぱいできちゃっていいたので。1stではとにかくストックを消化したかったんです(笑) 1stのアイデアっていうのは、僕はジャズが高校時代から好きで、郡山にいたときにジャズ喫茶にしょっちゅう行ってて。マイルスとかソニー・ロリンズとかを聴いてました。もちろんパンク、ニューウェイブも好きでしたけど、どっちかっていうとジャズの影響を受けたパンク、ニューウェイブってあるじゃないですか。リップリグ&ザ・パニックとかピッグバッグとか、ジョン・ルーリーのラウンジ・リザーズとか。そういうサウンドに影響を受けました。あと小西さんに出会って、ジョージ・シアリングを知るようになって。それをORIGINAL LOVEの曲にあてはめてやってみたりしましたね。あとモノクローム・セットも大学に入って友達から教えてもらって好きになりました。でも高校のころから好きだったバンドはギャング・オブ・フォーやザ・キュアーや、エコー&ザ・バニーメンとかでしたね。

――このころU2とかXTCなんかも出てきたりして。

田島 XTCはすごい好きでしたね。そういったアーティストたちに影響を受けて作った曲をライブでやって、1stアルバムのようなサウンド、いわゆる渋谷系的なサウンドが出来上がってきたんです。

――いろんな時代の最先端の音楽のごった煮てというか、そういう感じもあったんですね。

田島 そうです。そう言えば日本で最初にネオアコをやったのは僕だって言われてます。

――なるほど(笑)

田島 当時ネオアコサウンドをやってる人はまだ誰もいませんでした。ちょっと難しいからだと思うんですよね。4つぐらいコード覚えてガーッてやりゃいいって音楽でもないんで。アズテック・カメラみたいな音楽は、コードをある程度知ってなきゃできない造詣のある音楽なんですよ。僕はXTCが好きだったこともあっていろんなコードで曲を作るのが好きだった。ネオアコみたいな音楽をやり始めたのはフリッパーズ・ギターより先です。そう言った音楽に影響を受けて作った曲をベース、ドラム、ギター、女性コーラス二人という編成でやっていたのがデビュー直前のORIGINAL LOVEです。ところがデビュー直前でメンバーがほとんど総入れ替えになって、もうちょっと違うサウンドになった。そうなったのが1stの『LOVE! LOVE! & LOVE!』なんですね。デビュー前に作ったたくさんの曲をとにかくリリースして消化して、その上で次のいま自分が面白いと思っている音楽をやり始めたくて作ったのが2ndの『結晶』で。ヒップホップがサンプリングしていた、元のソウルミュージックなり、フュージョンミュージックなりのパーツがあるじゃないですか。あのパーツの音楽をいかに面白く生バンドで再構成して曲にするかっていうアイデアなんですよ。アシッドジャズをやってた人たちも、きっとそういうことだったと思います。それをポップス化するというか……でも前衛的なかっこいいことばかり考えてたわけじゃなくて、僕も小西さんもピチカート・ファイブにいるころから、ほんとにヒット曲を書きたかったんですから!(笑) どうやったらヒットチャートに上がるような音楽を作れるかっていうことは小西さんもすごく考えてたし、僕も考えてましたね。だから英語にしなかったわけだし。日本語で歌われる、みんなが共感できるポップスが一番つくりたかった、今もそうですけれども。昔の阿久悠さんの詞を読んだりとか……僕はどっちかというとサウンド志向でしたが、でもヒットチャートを上がるにはやっぱり詞が書けないといけないと思ってたんで。だからいろいろ自分で昔の歌詞を読んだりとかし始めて。そう言ったことがようやく上手くいき始めたのが「接吻」のころですね。

――「接吻」というシングルがあって、その前に『EYES』というアルバムが出て。そのころもヒットを狙ってはいた?

田島 もちろんですよ! 毎回狙ってましたよ。

――(笑)

田島 ORIGINAL LOVEが世間ですこしずつ話題になりはじめて、いいムードができてきてるんじゃないかっていう感じはありましたね。それが2ndのころで……ライブの動員が増え始めた時期です。「ヴィーナス」がブティックJOYのCMソングになって。あの曲はインディーのときからずっとやっていた自信のある曲でした。一番最初の大きなタイアップだったんじゃないかな。

――なるほど。

田島 3rdアルバム『EYES』での先行シングル「サンシャイン・ロマンス」はCMのタイアップが先にあった話です。歌詞とサビの部分を先に作ってくれと。CMタイアップ曲はそうやって作られることが昔から多いんです。その頃は独立して自分で事務所を作ってやり始めた最初の頃でして、その時まずやりたかったのが音楽をより本格化させたいと。日本のポップスの金字塔みたいな人たち、山下達郎さんだったり、ユーミンだったり。ああいった人たちが作り上げたサウンドのクオリティを僕も本格的に目指したいというのがあって、参加ミュージシャンも『EYES』の頃は、ちょうど過渡期なんですよね。井上富雄さんが2ndアルバムで離れて……最初からメンバーじゃなかったですけど、ほとんどメンバーみたいな感じでいたんですね。井上さんはバンドというものから少し距離を置きたいと。それでもすごく深く関わってくれたんですけど、でも一旦距離を置こうということになって。『EYES』ではいろんな人にサポートで入ってもらったんじゃないかな、渡辺等さんだったりとか、沖山優司さんだったりとか。

――名うての人たちですよね。

田島 そういう時期だったと思います。それで結局ベーシストのオーディションをして……『EYES』のあとに小松秀行が加入することになって。「接吻」がたしか小松のキャリアの最初なんじゃないかな。「接吻」のベースは小松です。

――93年とかですね。

 

シングル「接吻」

田島 そうですね。一瞬のうちにいろんなことが上手くいっちゃいました。その前には「sweat and sugar night」って曲がありますけど、あれは「接吻」の土台になったような曲ですね。「接吻」のタイアップの話をいただいたんですが締切が間近で、すぐ書かなきゃいけないと。でもうまい具合に、曲が1日とか2日くらいでできちゃった。作詞期間もなかったんですけど、仕事の移動中に書いたらできちゃったんです(笑)

――ああ、でもえてして名曲の誕生ってそういうもんだったりするって言いますよね。

田島 ええ。で、「この歌詞どうですかね?」 「ばっちりじゃないの」っていう。で、「接吻」の頃はまわりのスタッフが代わってたんです。新しいスタッフは、わりと歌詞についていろいろ言う人なんですけど、「接吻」については何も。全然ばっちりじゃないか! ということで。

――神が降りてきたというか。

田島 サビのメロディができた瞬間をいまだに覚えてますけど、タイアップの話をいただいて、来週までに作れ!みたいな感じになって、どうしようと思って、家に帰って2万円くらいのしょぼいエレキギターで「ふふふ~ん♪」で、できたみたいな(笑)

――ははは(笑)

田島 で、あーよかったみたいな。あの部分ができたらもう他のメロディは、あの部分が“呼んだ”んですよね。もうそこからはすぐできたという感じでしたね。

――手応えもその瞬間あって。

田島 うん、これはいけたな! と。でもそれはその仕事に対する、「いけたな」であって……こんなに長く聴かれる曲になるとは思いませんでしたね。初めてのゴールデンタイムのドラマタイアップだったんで、その仕事はクリアできたかなこの曲でという。

――達成感みたいな。

田島 はい。そういう実感でした。それがこんなに長くみなさんに聴いていただける曲になるとは……。

――カラオケでも世代を越えてみなさん歌ったことのある……

田島 最近は僕のことは知らなくてもこの曲は知ってるよっていう若い人もいて。そんな風になるとは全然予想もしなかったんですけど。ただいい曲ができたなという手応えはその時ありましたね。どちらかというとクライアント側の希望はもっと軽いタッチのお洒落な音楽を求めてたんですけど、僕としてはもうちょっとソウルミュージック的な、ディープな、セクシーな曲を書きたかったんですね。やっぱりネオアコとかパンクニューウェイブの音楽って、非肉体的なんです。でも当時、僕はそういうことをやってきた自分をのりこえたくてあえて肉体的なソウルミュージックをやらなければと思っていたし、ソウルミュージックがすごく好きだったし。大ヒットする音楽っていうのはそっちのほうだと思ってたし。ダイレクトに肌で感じさせるものがあるというか、そういう言葉なりメロディを持ってる音楽を目指してたんで。でも、実際の現場はとにかく「ヤバい! 時間ねーぞ! どうする!」みたいな感じだったのかな(笑)
僕の曲の作り方は、あんまりこの曲をモチーフにして……みたいな考え方ではないんですよね。どっちかというとギター弾きの曲の作り方で。ギターを弾きながら「メロディ浮かんでこないかなー」っていう風な作り方ってあるじゃないですか。あれでいまでもずっとやってるんで。渋谷系ってたとえばDJ的っていうか、レコードをいろいろ持ってて、この曲のこういう感じをこうしてっていう、編集的っていうか、そういう作り方ってあると思うんですが、僕はどっちかというとやっぱり楽器弾きの作り方で。

――だからおっしゃるような身体性というのが出てくるのかもしれないですね。

田島 そうですね。そこは決定的に違いますね。渋谷系の特徴と言われる「エディター的」というのは僕にはそんなにないんです。

 

シングル「朝日のあたる道」 アルバム『風の歌を聴け』

田島 それで話は前後しますが……より本格化したサウンドを作りたかったんですよね。いろいろオーディションをした中で小松のベースが圧倒的にすごかったんです。小松はポップスというよりはフュージョンやソウルの知識があるベーシストで、小松に「一緒にやりたいドラマーは?」って聞いたら「佐野康夫と俺はやりたい」って。で、佐野と小松と、木原龍太郎さんは残って。『風の歌を聴け』から小松と僕と龍太郎さんで三人で作ったんですね。だから(ベスト盤の)『SUNNY SIDE OF ORIGINAL LOVE』のときは過渡期ですね……メンバーがいろいろ代わって。

――では『風の歌を聴け』で初めて全国区になったという印象がご自身でもあって。

田島 そうですね。『SUNNY SIDE OF ORIGINAL LOVE』の後あたりにだんだん手応えを感じ始めて、『朝日のあたる道』で資生堂さんのCMタイアップがあって。アルバム「風の歌を聴け」はいろんなことが上手くいったというか、サウンドプロダクションも一から考え直せってなって、とにかく本格的な音を、絶対に作ってやるんだって、ミックスエンジニアの森岡さんもめっちゃ気合いが入ってました。全員がこだわってたんで、作る現場は大変だったんですけど(笑)

――制作期間もやはりそれなりにかけて。

田島 いや、制作期間は超短かったですね。一ヶ月ですから。とにかく忙しくなり始めた時期なんで。

――同時にライブもコンスタントにやっていたわけですもんね。

田島 そうですね。ただこのタイミング……『SUNNY SIDE OF ORIGINAL LOVE』でがっと盛り上がり始めたタイミングを逃すわけにはいかないと。

――ストックはもちろんあったと思うんですが……

田島 いや、その頃はもうゼロでしたよ(笑)

――ははは。そこから名盤を作るということになって。

田島 『風の歌を聴け』を作るまでにアルバムを4枚くらい作っているから、もうストックもなくて。でもそのときは気合いが入ってるから、それこそまた神が降りてくるじゃないけど、やってやるよみたいな(笑) この時やらなきゃどうするんだみたいな雰囲気もありましたし。スタッフも含めてみんな。で「The Rover」みたいな曲ができたり。でも僕ひとりじゃ一ヶ月じゃ無理だから、小松と龍太郎さんも1,2曲ずつ……共作の曲も入ってて。一番大変だったのは歌詞ですよね。曲を作る時間は一ヶ月あったけど、歌詞を作る時間はなかったんで(笑) 地獄を見ましたね。でも、こういうサウンドのアルバムを作ろうというヴィジョンは見えてたんで、とにかく自分たちの盛り上がりがあのアルバムを作ったなっていう。僕もそうだったし、ミュージシャンもそうだったし、エンジニアの森岡さんも、とにかくあのアルバムのこだわり方は大変なもんでしたね。「俺はもう絶対NEVEの卓でしか録らないから!」みたいな(笑) そうしてできたいい作品がオリコン1位にもなって。全部照準が合ったという感じですよね。

――曲単位でいうと、「朝日のあたる道」のエピソードなどは……

田島 あの曲もCMタイアップの話が先にあって、先に15秒のサビの部分を作って、全体を作る。あの曲だけ先に作ったんですよね、それも時間がなくて。スタッフの前でメロディーを口ずさみながら……あと歌詞ができなくてできなくて、現場の全員がとにかく気合いが入ってたんですよ。売れる直前の雰囲気ってあるじゃないですか。時間がないからなかなかいい歌詞ができなかったんだけど、頑張って僕が書いてこれどうですかって言ったらダメだこんなもん!って(笑)

――それは誰にダメ出しをされるんですか?

田島 そのときのスタッフです。でも自分でもダメだなとは思ってて(笑) あー時間もないしここまでかなという感じだったんです。でスケジュール仕切り直しになって。製作費どうしてくれるんだとめっちゃ怒られながら……(笑) 僕は自分で言うのもなんなんですけど、わりとタフっていうか、ワーカホリックというか……結構丈夫だと思ってるんですけど、そのときは一回だけ参っちゃって。熱だしてダウンしちゃって、医者に行って点滴打ってレコーディングも飛ばして。

――文字通り不眠不休という感じだったと。

田島 そうですね、スタッフも、ああやりすぎたかなって思ったかもしれませんけど(笑) 二週間くらいかけてまた歌詞書き直して。それで、もう一回書いてできたのが「朝日のあたる道」ですね。最初の歌詞でレコーディングした歌はボツになって。 とにかくレコーディングすること自体の費用がすごく高かった時代で、一日でうん十万円からですから。大御所の人ならともかく、僕なんてその頃はまだ新人扱いですからね。そこでダメなテイクとか録ったら、「お前バカヤロウ!」みたいな感じで。書き直しをして2回目に録ったのが完成形の歌詞ですね。プロデューサーは基本的に自分でしたんで、その間にアレンジもやったりしてるわけです。だから自分の体が五つくらいほしかった。普通プロデューサーやアレンジャーがいるわけじゃないですか? でも全部僕がやってたわけだから。

――自分の作る曲については自分が全部責任をもってアレンジすると。

田島 そうですね。『風の歌を聴け』に関しては小松とやった「時差を駆ける想い」と龍太郎さんとやった「二つの手のように」かな。あと「Sleepin' Beauty」、これも小松と龍太郎さんとやったかもしれません。基本的にあのときは最初の1か月の制作期間で完全に打ち込みでアレンジしてマルチのデモを作ったんです。それはスタッフのアイデアだったんですけども、レコーディングスタジオ現場で訳わかんなくなったりしないように、マルチの段階でアレンジも最初から全部決めとけと。曲を作りながらアレンジも全部完成させてたんです、ホーンアレンジも弦のアレンジも。で、A‐DATという……

――懐かしいですね!(笑)

田島 でしょ? 自宅でレコーディングして打ち込みで作って、そういったアレンジは全部僕がやって。「The Rover」のホーンアレンジも全部できてました、打ち込みの段階で。それをそのままレコーディングスタジオで差し替えてくと。マルチでA‐DATのデータをSONYのPCM-3348にダビングして、3348にアナログレコーダーをスレーヴで回しました。で、リズム録りはアナログで。ダビングの時にあらかじめできてたホーンやストリングスのアレンジをそのままミュージシャンたちにやってもらって、ベースラインに関してもほとんどそのままやってくれと。「The Rover」もあのパターンで。佐野くんがすごいのは僕が考えたフレーズをそのまんまやるんだけど、全然違うものになるんです。すごいグルーヴになる。僕の予想の五倍ぐらいかっこいい。初めて「The Rover」を僕と小松と佐野くんでスタジオで鳴らしたときはもうガッツポーズでしたから。「きた!!!」みたいな。リズムを録り終わった段階で、今回のアルバムこれきたなと。だからアレンジは最初の一ヶ月でもうできてたわけです。

――まさに一人五役とかやってたわけですね。

田島 セルフ・プロデュースはピチカートのときから自分の曲に関してはずっとやってきたし、山下達郎さんもセルフプロでデュースだし俺もやりたいって思ったし、みんなも「田島、それやれ」みたいな。だからめちゃくちゃ忙しかったですよ。大変でしたね。客観的な判断基準がないわけですし。

――誰かに任せたほうが楽だという風には思わなかったんですか。

田島 思いましたよ。いま思うとね。あんな倒れるまでなんでやったんだろうって。

――(笑)

田島 あのレコーディングはとにかく超大変で。ピチカートのときからアルバムレコーディングはいつもめっちゃ大変でしたね。とにかく全体力全ての力を使いきって。

――年齢的には……ぎりぎり20代くらいの感じですか。

田島 風の歌が29歳ですね確か。「接吻」が28歳だから。

――若かったからできたってところもあるかもしれないですね。

田島 ですね。しかもプロモーションも僕ひとり出ていって、取材受けたりとかするわけですから、超大変だったけど楽しかったですね。その大変さが。自分の音楽を思う存分やれてる時期だったし、いまでもやれてますけど、それまで夢として「こういう風に音楽やりたいな」って思ったことが実現していった喜びもあったんで。だからそういう馬鹿力みたいなもんが発揮できたっていうかね。

――「朝日のあたる道」はチューブラー・ベルが入ってるじゃないですか。

田島 あれは小松が。あらかじめメロディーラインは出来てて、チューブラー・ベルのミュージシャンを呼んでもいいんだけど、小松できるこれ? って言ったらやるやるって言って(笑) なんで入れたかっていうのは、フィル・スペクターとか昔のモータウンのサウンドが好きだったから、ああいうイメージで。だいたいチューブラー・ベルが入ってるじゃないですか。僕のポップス感覚というのは60年代のスペクターサウンドとか、モータウンサウンドが基準になってるところがあって。ビートルズだってそうなわけだし。だから自分がシングル曲作るってなると、なんとなくそういうサウンドになっていくんですね(笑) どこかしらモータウン的な。

――でもリズムの跳ね方とか、そういう影響を受けられてるんだなっていうのは。

田島 そうですね。だから「朝日のあたる道」に関しては、スティービー・ワンダーとモータウンみたいな。あとビーチ・ボーイズ……今考えるとそうなのかなあって感じがしますけど、当時はそんな余裕はないですよ。とにかく時間がないし、やるぞやるぞという感じで。

――血肉となってインプットされてたからそういうとき出てくるってことですよね。

田島 聴く人がこれはビーチ・ボーイズで……とか言うんですけど、現場ではもうそんなこと考える余裕ないっていうか。無我夢中で作ってたわけですよ。

――「The Rover」とかやっぱり気迫がすごいじゃないですか。そういう意味では当時の衝動が全部入ってるとか。

田島 スライ&ザ・ファミリー・ストーンが好きで、そういう曲を作ってみたかったんですよ。リズムボックスで始まって、それと同時にドラマーがドラムを叩くっていう。スライがやってた「暴動」とか「Fresh」のアイデアをやってみたかった。サビのコード進行とかホーンのラインも、スライを意識しました。ホーンセクションのレコーディングの時、数原晋(日本を代表するトランペット奏者)さんに褒められて嬉しかったです。ホーンセクションレコーディングが終わったときに、「ホーンセクションを上げたツーミックスを作ってくれ、俺帰って聴くから」と言ってくれて。嬉しかったですね。「The Rover」はアルバムの中でもキー曲というか、象徴するような曲ということで託して作りました。「LET'S GO」(『EYES』収録曲)の延長上にあるっていうか。「LET'S GO」はギル・スコット・ヘロンの影響があって作った曲ですけども。そのさらに延長上にあるのが「The Rover」なのかなというのが今思い起こすとありますね。

 

おわりに

――最後に、当時を振り返ってなにか一言あれば。

田島 あの当時はミュージシャンが作りたいと思ったことを実現できてた時代で。なんだかんだ怒られながらも自分の我を通せてたというか、それが売れてた時代で。そう言った現象があとから渋谷系って言われるようになったのかなと。僕と同じように言われてる人たちっていうのはおそらく同じようにセルフプロデュースで、自分の作りたいものを作ってた人たちなんですよね。小西さん、小山田(圭吾)くん、小沢(健二)くん……それまでのアーティストはプロデューサーやディレクターがいたりしていろいろああだこうだって作りこんでいく音楽だったんですけど。僕らが作った音楽ってのはミュージシャンがほとんど全部決めてたというか。最初の2枚は井出さんがビジュアルを作ってくれたというのはありますけど、サウンドに関してはやっぱり僕が作っていたし。ああいったことが実現できてそれがヒットしたのがうれしかったし。渋谷系とか言われるようになっていろんな誤解や面倒くさいこともあるんですけど。ミュージシャン主体で音楽を作ってそれが結果的に動きになったというのが、後から考えるとうれしいことだなと思いますね。でも自分のアーティステックな欲求を満たすためだけにやってたかというと、そういうことではなくて。僕はとにかくポップスを作りたかったんだから! 「田島さんの作ってる音楽は“渋谷系”なんですよね」「違います。僕の作ってる音楽はポップスです」と、ずっと言ってるんですけどねえ……。

――ははは。

田島 それはいわゆる売れ線ってことではなくて、音楽的なポップスていうのかな、ビートルズだったり、バカラックだったり、スティービー・ワンダーだったり。単純にいいポップスを作ってヒットさせたいと思って、そのためにはどうしたらいいんだということを考えました。でもその代わり売れるためにダサいことをやるってことではない。音楽としていいクオリティのものを、なおかつ普遍性のあるものをってことばかりを考えてたんです。その時もそうだったし、今現在もそう思いながら、曲を作り続けていますよ(笑)

 

(取材・テキスト:mora readings編集部)

 


 

 

デビュー25周年記念 ニューシングル!

『ゴールデンタイム』

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初期の傑作4タイトル ハイレゾ配信中!

 

1stアルバム
『LOVE! LOVE! & LOVE!』

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2ndアルバム
『結晶』

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3rdアルバム
『EYES』

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4thアルバム
『風の歌を聴け』

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ORIGINAL LOVE 配信一覧はこちら

 

 

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第23回:ドゥービー・ブラザーズ「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」

〜あの軽快なリズムはカッコよかった〜

 

 アメリカンロックの人気バンド、ドゥービー・ブラザーズのアルバムがハイレゾでどっと配信された。それで今回取り上げるのは、1978年の『Minute by Minute』から「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」である。

 

 今日まで幾多の変遷を繰り返してきたドゥービー・ブラザーズであるけれども、彼らの最大のヒット作はやはり78年の『Minute by Minute』だと思う。なにせ〈第22回グラミー賞最優秀レコード賞〉に輝いた名盤だ。ヒットシングル「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」も〈グラミー賞最優秀楽曲賞〉を受賞した。

 

 

 ワイルドなイメージのドゥービー・ブラザーズが、グラミー賞というセレブな賞を取ったことに当時はビックリしたものである。しかしそれもそのはず、『Minute by Minute』も、シングル「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」も都会的で洗練された曲だった。今なら「AOR」と言えばすむのであるが、ともかくドゥービーはマイケル・マクドナルドが加入して数年前とはかなり違うバンドになっていたのだった。

 その「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」。当時は「ある愚か者の場合」という邦題がつけられていたけれども、実際はグラミー賞以上のインパクトがあったと思う。とにかくあの、タタタン、タタ、タタタン、タタという軽快なリズムが斬新で、めちゃめちゃカッコよかったのだ。その影響かどうかわからないが、当時は洋楽から日本の歌謡曲まで、いろいろなところで似たようなリズムを聴いた記憶がある。

 

 続く80年の『One Step Closer』もマイケル・マクドナルド色が出た作品だ。実のところ僕が初めて本格的にドゥービーを聴いたのはこのアルバムだった。NHK-FMが新譜紹介で、LPをまるごと流したのをエアチェックしたのだ。

 

 

 この年の春、僕は大学を卒業したものの就職せずドロップアウト(当時はフリーターという便利な言葉はなかった)。先のことを思うと不安な夜もあったが、そんな時も『One Step Closer』を聴いていると心強くなって、絵描きになりたいという夢を失わずに過ごせたのだった。思い出深いアルバムである。

 

 しかし僕にとっては最高のドゥービーでも、その変貌を誰もが受け入れたわけではなかった。
 ある日先輩ロックファンに「ドゥービーは『Minute by Minute』や『One Step Closer』が好きです」と言ったところ、「今のドゥービーが好きじゃねぇ…、ドゥービーは昔のほうがドゥービーでしょ」と冷や水を浴びせられたことがある。

 

 確かに僕だって70年代初頭はロック小僧を始めていたからドゥービー・ブラザーズの活躍は知っていた。『The Captain and Me』からは「チャイナ・グローブ」も大ヒットしていた。しかし食わず嫌いというか、ジャケットのイメージから泥臭いバンドに思えてレコードを買うまでにいたらなかったのだ。

 

 

 続く『What Were Once Vices Are Now Habits』も『ドゥービー天国』という邦題がついていたものだから、「“天国”という言葉は荒っぽいなあ」とこれまたスルー。さらに次の『Stampede』ではジャケットの乗馬姿に、またしてもアメリカ南部のイメージに捕われてスルーしたのだった。

 

 

 

 

 

 しかしである。新生ドゥービーが好きになったあと、それら初期のアルバムを聴くとそんなに泥臭くないと思ったのである。「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」「チャイナ・グローブ」など、当時の大ヒット曲は実にノリがいい。例のタタタン、タタ、タタタン、タタと同じくらいノリがいい。今では「ドゥービーは昔のほうが」という言葉にも賛同していていて、どうしてあの頃聴かなかったのかなあと思う。まあ当時は“愚か者の”高校生だったのだろう。

 

 それでようやくハイレゾの話である。

 「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」の入っている『Minute by Minute』はパンチの効いた音で心地良い。ただ昔はひたすらタイトな印象だったけれども、ハイレゾではそこここに、アナログ時代のなごりか、ゆったりとした鳴り方もあって、柔と剛をかねそなえた理想の“グラミー・アルバム”になった気がする。

 『One Step Closer』は前に書いたエアチェックのカセット、その後買った中古LPと、今でもちょくちょく聴くアルバムであるが、僕の再生システムではハイレゾはLPよりも音の厚みがあり、かつ繊細になっている気がした。特にバックコーラスが美しい。これからは思い出のLPよりもハイレゾのほうを聴いてしまうことだろう。

 最後に『The Captain and Me』。
 やはり素晴らしい。マクドナルド加入後の都会的なドゥービーも素晴らしいが、初期の野性味とスピード感は特筆ものであろう。とくにハイレゾでは荒々しい演奏がストレートに届くものだから、すごく躍動感を感じる。サザンロックとか、そういうククリさえ越えた音楽がここにあったのだとあらためて実感した。

 

 ドゥービー・ブラザーズのアルバムは他にも名作がハイレゾ配信されている。合わせて聴いていただけたらと思う。

 

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The Doobie Brothers ハイレゾ配信一覧はこちらから

 


 

【牧野 良幸 プロフィール】

1958年 愛知県岡崎市生まれ。

1980関西大学社会学部卒業。

大学卒業後、81年に上京。銅版画、石版画の制作と平行して、イラストレーション、レコード・ジャケット、絵本の仕事をおこなっている。

近年は音楽エッセイを雑誌に連載するようになり、今までの音楽遍歴を綴った『僕の音盤青春記1971-1976』『同1977-1981』『オーディオ小僧の食いのこし』などを出版している。
2015年5月には『僕のビートルズ音盤青春記 Part1 1962-1975』を上梓。

 

マッキーjp:牧野良幸公式サイト

 

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~今月の一枚~

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Bob Dylan [Fallen Angels]

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 東京ってやっぱりすごい街なんだなと思います。去る4月、ボブ・ディランエリック・クラプトンブライアン・ウィルソンアイアン・メイデンがほぼ同時に滞在していたのですから。

 

 ぼくがディランに初めて感銘を受けたのは1983年下旬リリースの『インフィデル』というアルバムです(原題はInfidels)。もちろんそれまでにぼくは、ディランが“フォークの神様”と呼ばれ、日本のフォークやニューミュージック(と当時は呼ばれていました)のシンガー・ソングライターたちに影響を与えていたことを音楽雑誌などで知ってはいました。が、当時のぼくはフォークにさほど関心がなく(URCレーベルを聴いて驚くのはずっと後です)、RCサクセションアナーキーザ・スターリンヴァン・ヘイレンなどのロックに夢中でしたし、YMOの“散開”にはクラスの音楽好きみんなで騒然となって、ジャズ関連もマイルス・デイヴィス復活の印象がまだ鮮烈だったり、ジェームズ・ブラッド・ウルマー近藤等則渡辺香津美が意欲的なサウンドを送り出していたりで油断できませんでした。それまでオリジナル曲中心に演奏していたキース・ジャレットが、突如“スタンダーズ”なる3人組プロジェクトでスタンダード・ナンバーを演奏し始めたのもこの時期です。ワールド・ミュージックという言葉がすでにあったのかどうかは記憶にありませんが、アフリカ・バンバータキング・サニー・アデなどもFMラジオからけっこう流れていました。この83年春、ぼくは初めて法事で東京に行き、札幌以上の都会が地球に存在するのだということを体感しました。

 

 『インフィデル』を最初に聴いたのもFMラジオでした。スライ&ロビーという、当時めざましい勢いだったレゲエ界のリズム・チームが参加しているということがセールス・ポイントだったように思います。というのは番組のディスク・ジョッキーが、そこを強調して紹介していたからです。重く引きずるようなビートに、ディランのざらついた声が重なり、うねりにうねって中学生のぼくの心をつかみにきました。ファンキーだなあ、もう降参です。だからでしょうか、ぼくはディランに、ハーモニカホルダーをつけたアコースティック・ギターをかき鳴らし、社会的なトピックを盛り込んだ曲を早口で歌う、というイメージがあまりないのです。ただ歌声のよさ、サウンドのかっこよさにしびれ、好きになりました。初めてライブを見たのは1997年のことだったと思います。それからは来るたびに1公演は見ようと決めているのですが、いまにして思えばギターを弾いてオリジナル曲を勢いたっぷりに歌っていた頃のディランをもうちょっと多めに体験しておけばよかったな、という気持ちもあります。ここ数回の来日公演を体験された方ならご存知でしょう、十数年間、ディランはほとんどギターをプレイしていないはずです。そして鍵盤楽器を弾きながら歌うことが増えました……と書きたいところですが、先日の渋谷・Bunkamuraオーチャードホールのライブでは鍵盤もあまり演奏しませんでした。殆どの曲でステージ中央に立ち、スタンドマイクの前で朗々と歌ったのです。どんなオリジナル曲を? どんなグレイテスト・ヒッツを?

 

 いいえ、演目はいわゆるスタンダード・ナンバー、ロックやフォーク界隈のファンよりもジャズ関連のヴォーカリストを聴きこんだひとたちが「うんうん」とうなずくに違いない楽曲が半数でした。もっとくだいていえば、フランク・シナトラナット・キング・コールビリー・ホリデイが歌っていたような、第二次大戦戦前から大戦後まもなくに書かれた曲のカヴァーが主です。「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」、「ザ・ナイト・ウィ・コールド・イット・ア・デイ」、「オール・オア・ナッシング・アット・オール」、「枯葉」。メロディをほとんど崩さず、スキャットを入れることもなく、ディランは朗々と、実に聴きとりやすい英語で明瞭に歌い込みます。「枯葉」に出てくる“winter’s song”という箇所、そこだけ急に音程が上昇するので、よほどの歌手でも最初に高めの音程をとって下がってくるか、もしくは低めのところから上に向けてグリッサンドするか、そのどちらかをとることが多いような印象が個人的にはあります。しかしディランはバッチリ、その音程に命中させました(少なくとも、ぼくの耳にはそう感じられました)。やり直しの利かないライブという場、しかも満員のオーディエンスの前で、ビシッと。なんという音感の持ち主なのだろう。なんというプロフェッショナルな歌うたいなのだろう。ゾゾッと鳥肌が立ちました。アイ・ラブ・ユーと心の中で叫びました。あの魅力的な声に、この音感。作詞作曲をしない、他人の書いた曲を歌う、いちシンガーに徹していたとしても、彼は歴史に名を残したに違いない。ぼくはそう確信しました。

 

 新作についてのインフォメーションは、この執筆時点では皆無に近いのですが、前作『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』と同じ時のセッションで、名エンジニアのアル・シュミットが録音を担当しているのは間違いないようです。11曲目「ザット・オールド・ブラック・マジック」の前奏にspliceの形跡がうかがえますが(ありえない速さでドラマーが、スティックからブラッシュに持ち替えています)、基本的には一発録りであるように聴こえました(編集部注:その後、正式に一発録りであることがアナウンスされた)。「スカイラーク」「イット・ハド・トゥ・ビー・ユー」など曲によっては低い音程のほうにメロディをフェイクしているところもありますが、それがレコーディングのその日その時のディランの“気分”だったのでしょう。枯れているのにやけに艶っぽい歌声、弦楽器を中心とした幻想的なバンド・アンサンブル。ハイレゾで入手し、ボリュームをあげて聴けば聴くほど、音の色気に魅了されるに違いありません。

 

 ぼくは近年のディランに、“スタンダーズ”を始めた頃のキース・ジャレットをダブらせています。またキースはディランのファンで、キャリアの初期に「マイ・バック・ペイジズ」をカヴァーしたこともあります(もっとも、手本にしたのはディランの自作自演ではなく、ザ・バーズのヴァージョンのようですが)。その“スタンダーズ”も2013年、30年にわたる活動に終止符を打ちました。ディランの歌声とキースのピアノ、たったふたりだけのスタンダード・ナンバー集が制作されたらどんなに幸せだろう。それは永遠に叶わぬ夢なのでしょうか。

 

 


 

■執筆者プロフィール

 

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原田和典(はらだ・かずのり)

ジャズ誌編集長を経て、現在は音楽、映画、演芸など様々なエンタテインメントに関する話題やインタビューを新聞、雑誌、CDライナーノーツ、ウェブ他に執筆。ライナーノーツへの寄稿は1000点を超える。著書は『世界最高のジャズ』『清志郎を聴こうぜ!』『猫ジャケ』他多数、共著に『アイドル楽曲ディスクガイド』『昭和歌謡ポップスアルバムガイド 1959-1979』等。ミュージック・ペンクラブ(旧・音楽執筆者協議会)実行委員。ブログ(http://kazzharada.exblog.jp/)に近況を掲載。Twitterアカウントは @KazzHarada

 

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第22回:ディープ・パープル「ハイウェイ・スター」

~ロック小僧ならハイレゾでノリノリ~

 

 僕のようなオヤジでも70年代初頭はニキビ面の中学生であり、高校生であった。昔の友だち(こちらもオヤジ)に会えば、たちまちロック小僧に戻ってしまうのである。最近も高校生の頃の友人Sとハード・ロックの話で盛り上がった。

 

 「ハード・ロックで一番すごいバンドは何だった?」とS。
 「そりゃあ、ツェッペリンじゃないかな」と僕は言った。しかしSは言うのだった。
 「僕はディープ・パープルだと思うな。ツェッペリンもディープ・パープルのノリノリにはかなわないよ」

 

 Sの言うディープ・パープルのノリノリとは「ハイウェイ・スター」のことを指しているのは、40年以上も前、一緒にこの曲を爆音で聴いた間柄だから一卵性双生児のように分かる。

 

 「ハイウェイ・スター」、流行ったなあ。
 今でこそハード・ロックにはいろいろあって、メタルとか細分化されているけれども、当時はもっと素朴で、ヘヴィにノリノリなのがハード・ロックだった。一度走りだしたらアクセルは踏みっぱなし。その意味で思索的なツェッペリンではなく、ディープ・パープルを一番に上げたSの意見は正直なものだと思う。

 実際、僕も「ハイウェイ・スター」のノリノリにはブッ飛んだものである。
 ただそれは『Made in Japan』の1曲目に収録されている「ハイウェイ・スター」を意味する。Sも頭にあったのはそちらの演奏だろう。ちょうど『Made In Japan』(発売時は『ライヴ・イン・ジャパン』)が発売された時で、二人ともその迫力の虜になっていたからだ。

 

 しかし今回のエッセイに書く「ハイウェイ・スター」は『Made In Japan』収録のものではなく、『Machine Head』に収録されたオリジナルの「ハイウェイ・スター」である。というのも『Made In Japan』が出たせいで、長い間スタジオ録音の「ハイウェイ・スター」はおとなしい演奏と思い込んでいた。それが今回ハイレゾで聴いてみて、とんでもない迫力にビックリしてしまったからだ。

 

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 まずはスタジオ録音なのにライヴ感のあるパワーに驚かされる。それがセッション録音ならではのキチンと作られた音場で聴けるのだから、実に心地良いハード・ロックになる。『Made In Japan』の「ハイウェィ・スター」が公衆のまっただ中でのライヴ感としたら、こちらは自分一人でバンドと対峙しているライヴ感である。

 ハイレゾの音質もアナログレコードではないかと思うほどコクがある。配信されているのはFLAC(96.0kHz/24bit)であるが、アナログ・ライクな音を再現することで定評のDSD(DSF)ではないかと錯覚するほどコッテリしている。僕にしてみればハイレゾでスタジオ録音の「ハイウェイ・スター」もノリノリのハード・ロックになった感があった(もともと有名なだけに、気付くのが遅くてスミマセン)。

 

 ちなみに先ほどから書いている『Made In Japan』もハイレゾで出ている。今さら説明するまでもないほどの名盤なので解説は不要だと思うが、ハイレゾでは生まれたばかりのような新鮮な音だ。リッチー・ブラックモアの疾走するギターソロもクリアだから、フレーズの細かいところまで耳がついていける。もちろんクリアになったからといっても、オリジナルのライヴの迫力は健在なので心配無用だ。

 

 ついでに書けば74年作品の『Burn(紫の炎)』もハイレゾで配信されている。『Burn』ではイアン・ギランが脱退して、新生ディープ・パープルとしてのスタートであったが、『Made In Japan』の爆発的人気の余波も手伝って、これも当時のロック小僧には歓迎を持って迎えられたレコードだ。

 なかでもタイトル曲「Burn」は、はやばやと「ハイウェイ・スター」と並ぶ“ディープ・パープル入門曲”の座についたと思う。ひょっとしたら最初にSが言ったディープ・パープルのノリノリは、この「Burn」を念頭においていたのかもしれない。ハイレゾは重たすぎず、軽すぎずで、スピード感のあるサウンドを堪能できる。

 

 今回は僕が当時ディープに聴き込んだ3つのアルバムについて触れたが、『Deep Purple In Rock』や『Fireball』などのアルバムもハイレゾで配信されている。今だにロック小僧の人なら、ディープ・パープルのハイレゾにきっとノリノリになることだろう。

 


 

 

Deep Purple
『Machine Head』

FLAC|96.0kHz/24bit

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Deep Purple
『Made In Japan (Remastered)』

FLAC|96.0kHz/24bit

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Deep Purple
『Burn』

FLAC|96.0kHz/24bit

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Deep Purple ハイレゾ配信一覧はこちらから

 


 

【牧野 良幸 プロフィール】

1958年 愛知県岡崎市生まれ。

1980関西大学社会学部卒業。

大学卒業後、81年に上京。銅版画、石版画の制作と平行して、イラストレーション、レコード・ジャケット、絵本の仕事をおこなっている。

近年は音楽エッセイを雑誌に連載するようになり、今までの音楽遍歴を綴った『僕の音盤青春記1971-1976』『同1977-1981』『オーディオ小僧の食いのこし』などを出版している。
2015年5月には『僕のビートルズ音盤青春記 Part1 1962-1975』を上梓。

 

マッキーjp:牧野良幸公式サイト

 

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2016年、音楽シーンにおける新しい才能の登場。 "ダ・ヴィンチのサーバー"から練られたバンド名だというSrv.Vinci(サーバ・ヴィンチ)。まるでミニシアター系映画のようなインテリジェンスある雰囲気を醸し出しながらも、そのたたずまいやエッジーな演奏からバイオレンスさを畳み掛けてくる1992年生まれによる4人組ロックバンドだ。ヒリヒリとした演奏力、世界観ある表現力の高さ。ライブのたびに新しい表情をSrv.Vinciは魅せてくれる。

取材・文:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)

 


 

2016年4月29日(金)22時15分 @恵比寿BATICA

<live setlist>

1. intro
2. ロウラヴ
3. Heroine
4. PPL
5. Re:
6. Diving to you
7. Plastic Rain
8. Stem

 

スタンリー・キューブリックの映像美を昇華した世界観とでもいうべきか、ギターを背負いながらキーボードを操る鬼才 常田大希による異世界への扉を開けるかのような妖しきサンプリング音源からスタートした、まるでワルプルギスの夜のようなドープな宴。

 

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「intro」を経て、音楽配信サイト『MORA』にてハイレゾ音源のフリーダウンロードで話題となった「ロウラヴ」から本編はスタート。常田が解き放つ強烈なギターリフの調べ&ラップのインパクト、新井和輝によるスキルフルにうねりをあげる流麗なるベースの迫力、前へ前へ突き進んでいく手数の多い勢喜遊のドラムのアクセントなど、魔法にも近い支配力の強いアンサンブルの力。

 

新井和輝(B)や勢喜遊(Ds)と共に、昨年加入した、常田の幼なじみでもある異色なヴォーカリスト191からも目が離せない。身長が高いながら、あえて座って歌うこだわりのヴォーカリゼーション。時空を超えて俯瞰するかのような視点で歌われる澄んだ歌声が、ワイルドに個性的な常田のダミ声ラップと絡み合う掛け合いから生まれるストーリーテリングの妙。191加入以前に生み出された人気曲「Heroine」も、新ヴァージョンとして生まれ変わっていた。途中、ハードコア風に加熱する緩急あるアプローチにフロアは爆裂に盛りあがりをみせていたことが忘れられない。

 

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中盤「PPL」、「Re:」、「Diving to you」というグルーヴィーな展開に魅了されながら、191によるオーディエンスを煽りまくる「ヤバいんだよオレ達は!」というMCで会場に一体感が生まれた。そして、空気感を再構築するかのように奏でられたのはSrv.Vinci史上最も華麗かつ美しいメロディーを醸し出す「Plastic Rain」だった。

 

そんなSrv.Vinciは、現時点での代表曲「ロウラヴ」に続く新曲「都」をハイレゾ音源にて、5月より期間限定で無料配信をしているのでチェックしてみてほしい。日本の音楽シーンを確実に変える逸材であることは間違いないはずだ。

 


 

ハイレゾ無料楽曲配信中!

 

『都』

『ロウラヴ』

 


 

Srv.Vinci 公式サイト

Srv.Vinci 公式Twitter(@srv_vinci)

 

 

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