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mora readingsのトピックス

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新連載「Younger Than Yesterday~ハイレゾで蘇る巨人たちの足跡~」は洋楽を中心にハイレゾで楽しむことのできる「名盤」の数々を各分野で活躍する音楽ライター、評論家の方々に語っていただくシリーズです。歴史的文脈や古今東西の作品との見えないつながりなど、専門家ならではの「深い」楽しみ方を貴方にご提供。ぜひダウンロードした音源とともに、テキストをお楽しみください。

 


 

 見るからに度の強そうな厚いレンズの、それも黒縁のメガネ。短い髪。細いジーンズを短めに履いて、斜めにギターを構える。誰かに挑みかかるように。デビュー・アルバム『マイ・エイム・イズ・トゥルー』のジャケットの中で、エルヴィス・コステロは、不良を気取ったバディ・ホリーみたいだった。

 

『マイ・エイム・イズ・トゥルー』

 

 ファースト・ネームが、エルヴィスとなっていたからなおさらだ。もちろん、それはプレスリーに由来し、本名は、デクライン・パトリック・アロイシャス・マクマナスという。ちなみに、コステロは、父方の祖母の旧姓からとったらしい。

 一癖も二癖もあるというか、一筋縄ではいかなそうだなというのが、第一印象だった。そして、実際そうだった。その最たるものが、1978年11月の初来日公演にまつわるエピソードだろう。いまではすっかり有名で、先ごろも、米国のテレビ番組で本人が喋っていたが、宣伝のために、彼は、銀座でゲリラライヴをやったのだ。

 「今来日公演中」との垂れ幕をしたトラックで、歩行者天国に乗り込み、その荷台で演奏した。それも、学生服姿で。彼の思惑では、日本中に反響を巻き起こすか、国外追放を命じられるか、いずれにせよ一夜にして異国の地で有名になる予定だった。ところが、違反チケットをきられて、即座に撤退を命じられる。行き交う人たちの反応もなく、たいした騒ぎにはならなかったという。

 他にも、数々のエピソードがあり、とにもかくにも、屈折した皮肉屋で、突っ込みどころも満載の人だった。鼻にかかったような歌いかたからしてそうだったが、物腰にも鋭さがあった。当時、既存のロックに反旗を翻す形で、パンク、あるいはニューウェーブという動きが騒がれたが、そういった時代の気風もあった。

 だからと言って、音楽が突拍子もないものだったかと言えば、そうではない。むしろ、ロックンロールに、時代という棘を吹きかけたような音楽だった。そんなコステロを、アナログの懐かしいレコード盤で、そして、ハイレゾで比較しながら聴いた。

 近年は、アラン・トゥーサン、バート・バカラック、ビル・フリゼール、ブロースキー・カルテット等々、いろんなジャンルの人たちとの共演が多いが、基本的には、この人の音楽はシンプルだ。殊に、『マイ・エイム・イズ・トゥルー』や『ディス・イヤーズ・モデル』を含めて、初期の作品にはそれが目立つ。リンダ・ロンシュタットが取り上げて、彼の名前を広めた「アリスン」にしたってそうだ。かつての恋人への思いを愛憎交えながらつづった名曲を久しぶり聴いたが、このシンプルきわまりない歌に、ギター・ソロを含めていろんな情報が込められているのが手に取るようにわかる。これが、ハイレゾ効果なのか、と単純に驚いてしまった。

 その「アリスン」を含めて、『マイ・エイム・イズ・トゥルー』は、クローヴァーがバックの演奏を受け持っていた。ヒューイ・ルイスが在籍していたことで後に話題になるサンフランシスコのバンドだ。「レッド・シューズ」などは、ザ・バーズを思わせるようなギターがずっと背後で鳴っていて、そこに注いだアイディアのようなもの、彼らが頭で描いていたサウンドの青写真さえ見える気がした。

 『ディス・イヤーズ・モデル』以降の精鋭バンドを率いてのものになると、演奏がずっとタイトになるが、そちらでも楽器が細分化されて聞こえるので、表情は豊かだ。「アクシデント」のように、ギターやコーラスで比較的厚く重ね着した曲でも弾力が失われずに響き、サム&デイヴのソウル・カヴァー、「アイ・キャント・スタンド・アップ・フォーリングダウン」にしても、ビートとホーンがよく弾む。切々と歌い込まれた「シップビルディング」でも、表情の豊かさが目立った。「ニュー・アムステルダム」のように、薄着なのに、この人の歌の艶っぽさはなんだろうと思えるところもあった。

 

『ディス・イヤーズ・モデル』

 

 つまるところハイレゾ効果は、そうやって歌の背後の情報も伝えてくれるが、ぼくが本当に驚いたのは、それらを一切とっぱらった真っ裸の状態もみせてしまうということだ。だから、良いものはもっと良いし、つまらないものはつまらないのだとわかってしまう。「アリスン」がその典型で、この歌は、どんな形で聴いても優れた歌だと、楽曲としての体力の強さにつくづく驚かされた。

 かつては、怒れる若者と呼ばれた人も、現在61歳。最近では、歌や演奏に見事な成熟ぶりをみせる人だ。音楽の表現に深みが加わり、見識の広さに惚れ惚れさせられることも多い。だからと言って、物わかりのいい大人になったかと言えば、そうではなくて、そういうありきたりな表現からはみ出したところで、くだらない大人にはなりたくない、それをいまだに追い続けているようなところがあって、少なくともぼくは、新しい大人の在りかたみたいなものをこの人から問いかけ続けられている気がする。

 「大きな声でこぶしを振り上げながら脅すよりは、耳元でささやくように脅したほうが数倍効果がある」。その昔、彼が言ったというこの言葉が、いまもなお、彼の音楽とともに耳元で響いて、震えることがある。

 


 

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エルヴィス・コステロのハイレゾ音源はこちらから

 


 

【執筆者プロフィール】

天辰保文(あまたつやすふみ)

1949年、福岡県生まれ。音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て1976年独立、それ以降、新聞や雑誌を通じてロックを中心とする評論活動を行っている。レコードやCDのライナーノートも多数手掛ける。著書に「ロックの歴史~スーパースターの時代」、「ゴールドラッシュのあとで」、「音が聞こえる」等がある。

 

 

 

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Vol.21 Theme : 「ニューウェーブはいつまで新しい波なのか
 

 

 先日、四日市の老舗ガレージBAND、GASOLINE(ガソリン)のやんちゃなギタリスト、コウイチロウが率いるニューウェーブBAND、XERO FICTION(ゼロ・フィクション)が1stアルバムをリリースし、70'sパワーPOP(これに関してはいつかまた)や80'sニューウェーブ好きの琴線に触れる懐かしくもフレッシュなサウンドを聴かせてくれたのですが……そもそも「ニューウェーブ」って何でしょう? それを考察するべく、今回は元祖ニューウェーブと言っても過言ではないDEVO(ディーヴォ)をご紹介します。

 DEVOは70年代中頃から活動する、おそらくアメリカ初の……もしかしたら世界初の? ニュー・ウェーブBANDです。初期はガレージROCK的な初期衝動溢れるサウンドを鳴らしながら、3コードではないちょっと捻ったROCKを演奏していましたが(「Uncontrollable Urge」や、もはや原形を留めていないストーンズのカヴァー「[I Can't Get No] Satisfaction」等)、徐々にシンセ・ベースや打ち込みを導入し(「Girl U Want」「Whip It」等)、テクノっぽいビート感とギターサウンドを両立させるという離れ業をやってのけました。

  なぜ「離れ業」なのか……それまでのROCKでは、ラウドギター+生ドラムに、シンセサイザーを混ぜるという音楽が存在しなかったからです。ディーヴォも今の耳で聴くとさほどラウドには聴こえませんが、当時としては革命的なことだったのです(「Jerkin' Back 'N' Forth」「Peek-A-Boo」等)……PUNKっぽいギターサウンドに鍵盤が入る場合は、エルヴィス・コステロのようなオルガン主体のサウンドが殆どでしたし、逆にシンセサイザーが入る場合はアンビエントな物か、打ち込みドラムによる非ラウドなテクノサウンドしかなかったのでした。

 世界でも類を見ない「勢いのあるPUNK ROCKにシンセサイザーを混ぜる」という革命的なスタイルを確立しながらも、音楽的に保守的だった当時のアメリカでは(アメリカ人の皆様すみません)なかなか理解されず、まずはヨーロッパで人気を博したのもディーヴォっぽいエピソードで、その証拠に彼らの最初のリリースは、コステロやダムドマッドネス等エッジーなリリースで知られるイギリスのインディー・レーベルSTIFFからでした。

 それがアメリカに逆輸入されて人気を博し、ここ日本でもカルト的な人気が爆発。YMOプラスチックス等、80年代当時のテクノ/ニューウェーブBAND達は、ディーヴォのアレンジを相当研究したという逸話も聞いたことがあります。ゆえに昭和チルドレンな我々はそこから遡ってディーヴォを聴くことになるのですが(俺より一周りも二周りも若いポリシックスのように、更に遡って影響を受けるパターンもあり)、もしかしたら今の四つ打ちサウンド好きにもそれは当てはまるかもしれませんね。

 ちなみにディーヴォといえば、お揃いの黄色いツナギに、巻きグソみたいな赤い帽子(通称エナジードーム)という個性的なルックスでも知られており、おそらく当時のアメリカ及び世界的なエコノミズムへの警鐘として、わざとブルーカラーっぽい匿名性を出すためにお揃いの格好をしていたのだと思いますが(リーダーのマークと中心メンバーのジェリーは美大生だったので色んなメッセージが込められているとも思いますが)、アートを通じてメッセージを発信する活動も非常にパンキッシュで、その個性的なサウンドも含め、どれだけイロモノ的な活動をしようとも、リスナーからの絶大な支持を得続けている稀有なBANDでもあります。この機会に是非ご一聴をば。

 

今回ご紹介した楽曲を収録!
ベストアルバム『Greatest Hits』/Devo

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【日高央 プロフィール】
 
ひだか・とおる:1968年生まれ、千葉県出身。1997年BEAT CRUSADERSとして活動開始。2004年、メジャーレーベルに移籍。シングル「HIT IN THE USA」がアニメ『BECK』のオープニングテーマに起用されたことをきっかけにヒット。2010年に解散。ソロやMONOBRIGHTへの参加を経て、2012年12月にTHE STARBEMSを結成。2014年11月に2ndアルバム『Vanishing City』をリリースした。

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 「僕の贈りもの」、「眠れぬ夜」、「さよなら」、「Yes-No」など、数々の名曲を世に送り出してきたオフコース。解散後、安易な再結成は一切せず、まさに伝説の存在として人々の記憶のなかに在る。デビューはフォークが全盛だった69年。しかし程なく、その後の「ニューミュージック」を予感させる洗練された音楽性を示す。最初のメンバーは小田和正と鈴木康博であり、さらなる発展を目指し、5人組となったことで新たな地平を切り拓き、82年の武道館10日間公演という偉業へと突き進むのだった。そんな彼らの作品が、遂にハイレゾで楽しめるようになった。今、改めて聴いてみると、カーペンターズをはじめとした良質なアメリカン・ポップに影響されたコーラスワークが見事であり、また、ミシェル・ルグランなどの映画音楽から影響された流麗なストリングス・アレンジも極上の余韻を残す。まさに音のディテイルにこそこだわった音楽性ゆえ、よりクリアに音が届く今の環境は、大いに歓迎すべき出来事だろう。お話を伺ったのは、デビュー以来、彼らをずっと見守ってきた新田和長さん。サディスティック・ミカ・バンド『黒船』の回に続き、二度目のご登場である。

(インタビュー&テキスト:小貫信昭)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――新田さんはオフコースとはデビューからの付き合いで、新田さんのほうが小田さんや鈴木さんより二歳年上とはいえ同世代。音楽の新たな地平を拓いた同志でもあると思いますし、それにちなんでまず勝手に僕が選んだこの曲からスタートさせてください。オフコースのアルバム『We are』から、「僕等の時代」。

♪「僕等の時代」(1980年)pc_btn_play.png

新田 いきなりすごい選曲ですね。この曲を聴くと僕は、当時のバンド内の葛藤など様々な人間関係が思い出されます。でも勇気あるメッセージソングですよね。

――ハイレゾ音源はいかがですか?

新田 いいですね。特に進化したヘッドホンで聴くと相性がいいように思います。僕のように音楽に関わってきた人間がずっと思ってきたことは、自分達がスタジオで創り上げたそのままの音を「みなさんにも聴いてもらいたい!」ということでもあったし、今のこの環境は、その想いに相当近づいたということで、とても嬉しく思っています。

――さて本題です。そもそも新田さんがオフコースを知ったのは、どんなキッカケからだったのでしょうか?

新田 彼らがヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」に出場したあたりです。それは1969年で、実はぼくが東芝に入社したのもその年だったんですよ(当時の名称は「東芝音楽工業」。1973年より「東芝EMI」となる)。メンバーは小田和正くん、鈴木康博くん、地主道夫くんの三人で、小田くんと地主くんが東北大学、鈴木くんは東工大の四年生でした。

――ヤマハのコンテストへは確か、東北ブロックからのエントリーですよね。

新田 当時、彼らがどのように練習してたかというと、鈴木くんが車にベースを積んで、まだ東北自動車道もない時代に8時間掛けて小田くん達に会いに行ってたようです。しかも週末毎にね。

――しかもベースって、運ぶのが大変なウッドベースですよね。

新田 本当に凄いことです。それで四年生の時、学生生活の有終の美を飾る積もりでコンテストに応募するんですね。それさえ終われば、なんの悔いもなくグループも解散する積もりだったのではないでしょうか。ところが新宿の厚生年金会館で行われた全国大会で、一位は赤い鳥で彼らは二位だった。それが運命を変えたと思うんです。

――小田さん自身、のちに「打ちのめされ、ずっと引きずった」とまで言ってますね。ところで新田さんはその大会をご覧になったわけですか?

新田 いや、その場には居なかった。どうやって彼らを知ったかというと、TBSラジオでコンテストの特集番組があって、そこでオフコースを耳にしたわけなんです。演奏したのはジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」とピーター・ポール&マリーの「ジェーン・ジェーン」かな? ビートルズの「In my life」だったかも知れない。ちょっと曖昧です。聴いてすぐ、「これは凄い、契約したいなぁ」、と……。でもその番組では、もちろん一位になった赤い鳥も紹介されて、彼らが演奏してたのは「竹田の子守唄」、そして同じピーター・ポール&マリーの「Come and go with me」で、これまた凄いわけです。甲乙つけがたい。だったら両方契約したいと思いました。

――すぐ、行動に移したわけですね。

新田 ヤマハへ行って、横浜に居る小田くん達に会わせてもらって契約できて、でも赤い鳥は武庫之荘(兵庫県尼崎市)ですからね。東京へ出てきてもらわなければならないし、そうなると生活の面倒も見ないといけない。レコード会社はプロダクションじゃないからそこまではできないし、しかも僕は新入社員の身ですし……。そうこうするうち、村井邦彦さんが「バード・コーポレーション」という赤い鳥のための事務所を作って契約することになるんですけどね。

――全国大会は1969年11月2日の開催のようですね。

新田 僕が小田くんたちと会って契約したのは、11月の内だったと思います。まだ12月にはなってなかった。でも契約したとはいえ、彼らとしては“プロとアマチュアの中間”くらいの意識だったと思うんです。ところが早くも翌年の4月5日には、「群衆の中で」というシングルを出すわけです。二位とはいえコンテストで賞を取ったんだから「早くレコードを出そう」という、そんな流れのなかのことだったんじゃないかな。言葉で説明出来ない新しいグループに出会って興奮していたのだと思います。曲は外国の曲で詞は山上路夫さん。これは東芝というより、ヤマハさん主導のことでした。でもここで地主くんが就職するためにグループを抜けるんです。

――我々はよく、オフコースの“実質的なデビュー曲は「僕の贈りもの」”などと記述しがちですが、そこに至るまでには何曲もあったわけですね。

新田 次の「夜明けを告げに」(71年10月)は、歌詞が山上さんで曲は加藤和彦さんです。ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のイントロのベースのラ⇒ソ⇒ファ#と半音下がっていく進行や、あとサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」の♪タン タタン タン タタンというリズムとか、洋楽からの影響も加藤くんのアイデアとして入ってます。さらに次の「おさらば」(72年4月)は、東海林修さんの詞・曲・編曲で、僕がトワ・エ・モアの『トワ・エ・モワ イン U.S.A.』というアルバムの仕事でロスへ行った時、東海林さんと親しくなったのが縁でした。彼にオフコースの話もさんざんして、ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」など、ちょっとウェストコースト・サウンドの要素もあるものが出来上がる。この曲で、オフコースは「第1回東京音楽祭」にも出てます。ただこの頃はメンバーが頻繁に変わってて、「夜明けを告げに」の時は実は三人で、「おさらば」は四人だった。

――確かに当時のシングルのジャケットを見ると、そうなってますね。

新田 しかもレコード会社としては、契約はしたけど彼らは音楽続けるのか就職するのか分からない時期でもあって、僕は上司から、「あれ、もうやめろ。暗い」って言われたりもしたんです。確かに小田くんは、会社に来ても愛想を振りまいて挨拶とかは絶対しませんでしたけど(笑)。

――契約を取ったのはいいけど、新田さんとしても辛かった、と……。

新田 僕は上司達に「もうちょっと待ってください、東北大学を出たら……」って言ったけど、そしたら小田くん、今度は「早稲田の大学院へ行く」って言うから「ええ~っ」って(笑)。確かにまだ、自分達で詞が書けるとか曲が書けるとかアレンジが出来るとかではなかったけど、今の日本の歌謡曲はイヤだし、普通のフォークも違うし……、という中で、試行錯誤の時期でした。メンバーもプロになりきれていない、僕も力不足のディレクターでした。

――このあたりの音源はハイレゾ化されてませんので、「では聴いて頂きましょう」、とはいかないのですが、小田さん鈴木さんの二人で「オフコース」を続けると決心してからが、第二幕の始まりでしょうか?

新田 そうですね。やっとハッキリしたというか、ここがひとつの区切りです。でも試行錯誤といっても小田くんが偉かったのは、この時期、ヤマハの教室に通って、和声法とか対位法とかの楽典を勉強したことなんです。

――そしていよいよ「僕の贈りもの」です。さっそく聴いてみましょう。

♪「僕の贈りもの」(1973年)pc_btn_play.png

新田 ああ……(様々なことを思いだした様子)。でも凄くいいです、ハイレゾで聴くと倍音が増えますね。ストリングスもいい。このアレンジは小田くんです。あと曲の構成も。イントロからヴァースのキーはCなんですけど、いつのまにかサビでAに行ってるんです。それも、「いかにも転調してます」っていうイヤらしいものじゃなく、綺麗に分からないうちに転調してて、アウトロというかコーダというか、エンディングではCに戻っていく……。そのあたりも実に巧みですよ。さっき小田くんはヤマハへ勉強に行ってたと言ったけど、そうしたことも活かされていると思いますね。彼は昔から、自分に「才能がある」ことに気がつくより、「才能が足らない」ことに気がつく人だったんです。普通は自分のいいとこばっか見るでしょ? でもほかの人との比較論ではなく、自分の基準で足りないことに気がつくから、じゃあどうするかというか、人より努力することにもなるわけでね。

――この作品を含むファースト・アルバム『僕の贈りもの』がリリースされたのが73年6月ですね。

新田 当時、オフコースは杉田二郎くんのいる事務所に所属してコンサートのバックを務めたりしてた関係で、彼を担当していた橋場正敏さんが最初の一枚は担当しました。そもそも「オフコースに一枚、アルバムを作ってやってほしい」というのは、杉田くんから頼まれたことでもあったのでね。このあたりのことは話せば長いんだけど、当時の東芝にビートルズの最初のディレクターだった高嶋弘之さんという方がいて、その人が途中から邦楽も兼任するようになり、ザ・フォーク・クルセダーズとか黛ジュン、由紀さおりといった数々のヒットを出すわけです。で、それが邦楽二課で、そこに橋場さんも僕もいて、のちに武藤敏史くんや重実博くんも加わるわけなんですけどね。

――武藤さんのお名前が出てきましたが、橋場さんの後、オフコースを担当するのが新田さんの部下となった大学の後輩、武藤さんですね。

新田 本来ならNHK交響楽団に入ってコントラバスを弾く予定だった武藤君を、この道に誘ったのが僕だったんですよ。

――この方のお名前が出るとファンが想い出すのは、名作の誉れ高い『ワインの匂い』。同時期のシングルではオフコースの出世作となった「眠れぬ夜」ということになります。ではここで、その曲を。

♪「眠れぬ夜」(1975年)pc_btn_play.png

――みんなが知っているエピソードとして、最初はバラードだったこの曲を、「エイトのロック調でやってみない?」と小田さんや鈴木さんに提案したのが武藤さんだったとか……。

新田 よく分かりませんが、多分その伝説は本当なのでしょう。で、『ワインの匂い』といえば、実は武藤くん、東芝に誘ったのはいいんですが、酒を飲み過ぎて階段から落ちて、半年会社を休んだ時期があったんですよ。そのとき人生を考え、夢を膨らまし復帰して、命がけで、水を得た魚のように取り組んだのがあのアルバムだったわけなんです。

――当時のレコーディングで、覚えていらっしゃることはありますか?

新田 武藤君は新宿のフリーダムスタジオを好んで使ってました。東芝には1スタという良いスタジオがありましたが、オフコースのような手作りで時間をかけて丁寧に作り上げるには稼働率が高すぎて不向きだった。フリーダムなら、自分たちの家のように自由に使える。今で言うロックアウト状態というか、そのままの状態で帰っても、明日の昼から継続できたわけです。実は労働組合の力が強い時代だったので、エンジニアの蜂屋君くんなども残業は許されていなかったんですけど、上司や組合の目を盗むように、やりたいことに没頭していましたね。

――そしてオフコースは徐々に二人から五人になり、さらなる躍進を遂げるわけですが、そのあたりは後編で伺いたいと思います!

 

後編につづく

 


 

オフコースのハイレゾ音源はアルバム10作品が配信中!(2015年12月現在)
『僕の贈りもの』『ワインの匂い』『We are』など……

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

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今回から10回にわたって心が優しくなる名曲をご紹介していきます。ラインナップは次の通り。
(※表記は曲名/作曲者/曲の生まれた年)

 

1.G線上のアリア (J・S・バッハ) 1720年頃または1730年頃

2.白鳥 (サン=サーンス) 1886年

3.ムーンリバー (ヘンリー・マンシーニ) 1961年

4.アヴェマリア (シューベルト) 1825年

5.見上げてごらん夜の星を (いずみたく) 1960年

6.子守歌 (ブラームス) 1868年

7.Over The Rainbow (ハロルド・アーレン) 1939年頃

8.夜想曲 (ショパン) 1831年

9.ベンのテーマ (ウォルター・シャーフ) 1972年頃

10.LaLaLu (ペギー・リー & ソニー・バーク) 1955年頃

10曲が収録された安眠に特化したアルバム『Anming Piano Songs ~聴いてるうちに夢の中~』はコチラ

 

 10曲に共通しているのは、メロディーに最小限の和声を合わせるだけで、その美しさが伝わるところです。そういった曲が僕は大好きなのですが、実はメロディーと最小限の和声だけで聴いている人の心を動かす、ということはそのままその曲の名曲性を表していることになるのです。まずメロディーが美しく、心を動かす力があります。そして作者がイメージして演奏者に指定した和声も、メロディー同様美しく、心を動かしてくれます。さらにその和声とメロディーには、実に深い結びつきと相関関係があるのです。

 これまでもこの連載で私は書いてきましたが、作品を生んだ作曲家は、メロディーと和声で自分の心の震えやうねりを表現しています。メロディーが上にあがる、下にさがる、同じ高さを持続させる、離れた音に飛ぶ、滑らかに動く、リズムを強調する、静かで動かない、などの様々な動きで、生んだ作曲家の心を豊かに表現しています。一方和声も、その種類によって, 明るい感じ/暗い感じ/切ない感じ/広がる感じ/不思議な感じ/複雑な感じ/緊張感のある感じ/穏やかな感じ……などを表現します。さらに和声では、和声つまりコード(和音)が順番に変化していくことで、さらに豊かな表情を伝えることができます。我々ポップス音楽の世界ではこれを『コード進行』と呼ぶのですが、このコード進行が曲に豊かな表情を与えつつ、聴いている人の心を動かすのです。

 そして、とても重要なことなのですが、その 『コード進行が醸し出す表情』と『メロディーが紡ぎ出す表情』が、どのように絡み合って人の心に届くのか……というところが、その曲が名曲であるかどうかを左右するのです。ですから、私がこのコラムでご紹介する名曲たちはみな、上記の絡み合った結果が本当に素晴らしく、人の心を打ち震わせてくれる曲ばかりなのです。

 今回選んだ10曲以外にも、私がその名曲性をご紹介したい曲はまだまだたくさんあります。ただ今回、私があるピアノアルバム(DSD配信専門レーベル "Onebitious Records" 第3弾アルバム『Anming Piano Songs ~聴いてるうちに夢の中~』)を制作することになり、それに向けて選んだのが、この10曲のラインナップだったわけです。そのピアノアルバムは『究極に優しいピアノアルバム』という趣旨で企画されたものでした。究極に優しいピアノで名曲を演奏すれば、聴いている人の心が癒され、豊かで幸せな気持になるだろう、という想いから生まれた企画です。このアルバムを聴くと、その名曲の魅力と優しいピアノ演奏によって緊張や悩みがほぐされて心が柔らかくなり、聴いているうちにウトウトとまどろんでしまうことでしょう。それほど優しい演奏を心がけたのですが、その結果『名曲性』はさらに明確になりました。なぜなら、究極に優しい演奏を心がけたため、演奏でリズムやダイナミクスがほとんど表現されていないからです。そのため、曲のメロディーとコード進行の関係だけが浮き彫りにされ、結果としてその曲がいかに名曲であるかがとてもわかりやすく伝わることになったのです。

 ですから、私にとっては、この『名曲の理由』で様々な名曲をご紹介する上で、今回の10曲がとてもその理由をお伝えしやすいわけです。 10曲はご覧の通り、曲を生んだ人もその人が生きていた時代も、曲が生まれた年もバラバラですが、それぞれの曲が持つ名曲性によって世界中の人に愛され、多くの人の心を打ち、震わせ、優しく包んできました。いったいこの10曲は、なぜそこまで人の心を惹きつけるのだろう? その理由の一部を、これから順番に解説していこうと思います。それぞれの曲の魅力に触れて頂き、名曲が持つ不思議な力を感じてもらえたら嬉しいです。

 


 

【プロフィール】

津田直士 (作曲家 / 音楽プロデューサー)
小4の時、バッハの「小フーガ・ト短調」を聴き音楽に目覚め、中2でピアノを触っているうちに “音の謎” が解け て突然ピアノが弾けるようになり、作曲を始める。 大学在学中よりプロ・ミュージシャン活動を始め、'85年よ りSonyMusicのディレクターとしてX(現 X JAPAN)、大貫亜美(Puffy)を始め、数々のアーティストをプロデュ ース。 ‘03年よりフリーの作曲家・プロデューサーとして活動。牧野由依(Epic/Sony)や臼澤みさき(TEICHIKU RECORDS)、アニメ『BLEACH』のキャラソン、 ION化粧品のCM音楽など、多くの作品を手がける。 Xのメンバーと共にインディーズから東京ドームまでを駆け抜けた軌跡を描いた著書『すべての始まり』や、ドワンゴ公式ニコニコチャンネルのブロマガ連載などの執筆、Sony Musicによる音楽人育成講座フェス「ソニアカ」の講義など、文化的な活動も行う。

FB(Fan Page) : https://www.facebook.com/tsudanaoshi
Twitter : @tsudanaoshi
ニコニコチャンネル:http://ch.nicovideo.jp/tsudanaoshi

 

バックナンバーはこちら

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第13回:「旅の宿」よしだたくろう

~ハイレゾで、ふたたび拓郎に影響されそうな~

 

 moraのハイレゾ配信は、邦楽、洋楽、ジャズ、クラシック、アニソンと賑やかである。ずらりと並ぶジャケットを見ていると、つくづくハイレゾも一般的になったものだなと感慨深い。

 そのなかでも僕の場合、特に感慨深いのは邦楽だ。日本のアーティストが外国のアーティストとまったく同等に輝いている。ハイレゾに限らず、今の日本の音楽界には洋楽も邦楽もない、ということをつくづく感じる。

 こんなことを書くと、若い人たちは「何を当たり前のことを」と思われるかもしれない。しかし僕がレコードを聴き始めた70年代初頭までは、音楽の良し悪しは別として、邦楽は洋楽より一歩下がったところに見られていた。ポップスであれクラッシックであれ、日本人のレコードは、ジャケットを見ただけで、申し訳ないけれど「ダサいなあ」と思っていたのだ。

 そんな状況を変えたのが吉田拓郎だった(当時は“よしだたくろう”)。1972年の「結婚しようよ」の大ヒットである。当時、僕は中学三年生でビートルズに夢中だったにもかかわらず、まるで日本にもビートルズがデビューしたかのような興奮を覚えた。吉田拓郎はそれまでの、洋楽中心だった日本の音楽マーケットと、リスナーの心を一新したと思う。

 今回取り上げた「旅の宿」も同じくらい衝撃的だった。「ゆかたの〜キミィは〜」とか「俳句でもひねって〜」とか、日本の歌謡界から最も離れたところにいる男(テレビ出演の拒否など)が歌うには、ずいぶんと日本風で、逆にそれが吉田拓郎の大胆不敵さを感じて、中学生には“大人びた行為”と思えたものである。

 そして僕たち中学生が(というか日本中の若者が)もっとも拓郎の影響をうけた“大人びた行為”といえば、ギターであった。昨日まで、教室でバカ話をしていた級友が、突如ギターを弾きだした。おまえは剣道ばかりだったろ、音楽に興味があったの? 野球部のお前が、なんでギターを弾き始めるの?

 ギターを弾きだす男子は、それこそタケノコのようにあらわれた。給食後の休憩時間ともなると、下駄箱の横で、花壇の前で、女子の目を気にしながら「ゆかたの〜キミィは〜」と歌うのである。もちろん僕もギターを始めた。しかし初歩的なハードルであるFのコードでつまづき、タケノコの一つにさえなれなかった。以後はずっと音楽は“聴くだけ”の男である。

 今ハイレゾで「旅の宿」を聴くと、そんな頃を思い出す。アルバム『元気です。』収録の「旅の宿」はシングル・ヴァージョンと違って、ギターとハーモニカだけのシンプルな演奏である。ハイレゾでは解像度も申し分なく、ギターのアルペジオの装飾音がグッと身に染みる。

 やっぱり拓郎はいい。ハイレゾで聴いていると、この歳でふたたび吉田拓郎の影響を受けそうである。今度こそギターに挑戦してみようか、とも思う。女子は周りにいないけれど。

 

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よしだたくろう『元気です。』
(FLAC|96.0kHz/24bit)

「たどり着いたらいつも雨降り」「旅の宿」など収録

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【牧野 良幸 プロフィール】
 
1958年 愛知県岡崎市生まれ。
1980関西大学社会学部卒業。
大学卒業後、81年に上京。銅版画、石版画の制作と平行して、イラストレーション、レコード・ジャケット、絵本の仕事をおこなっている。
近年は音楽エッセイを雑誌に連載するようになり、今までの音楽遍歴を綴った『僕の音盤青春記1971-1976』『同1977-1981』『オーディオ小僧の食いのこし』などを出版している。
2015年5月には『僕のビートルズ音盤青春記 Part1 1962-1975』を上梓。
 
 
 
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