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 「僕の贈りもの」、「眠れぬ夜」、「さよなら」、「Yes-No」など、数々の名曲を世に送り出してきたオフコース。解散後、安易な再結成は一切せず、まさに伝説の存在として人々の記憶のなかに在る。デビューはフォークが全盛だった69年。しかし程なく、その後の「ニューミュージック」を予感させる洗練された音楽性を示す。最初のメンバーは小田和正と鈴木康博であり、さらなる発展を目指し、5人組となったことで新たな地平を切り拓き、82年の武道館10日間公演という偉業へと突き進むのだった。そんな彼らの作品が、遂にハイレゾで楽しめるようになった。今、改めて聴いてみると、カーペンターズをはじめとした良質なアメリカン・ポップに影響されたコーラスワークが見事であり、また、ミシェル・ルグランなどの映画音楽から影響された流麗なストリングス・アレンジも極上の余韻を残す。まさに音のディテイルにこそこだわった音楽性ゆえ、よりクリアに音が届く今の環境は、大いに歓迎すべき出来事だろう。お話を伺ったのは、デビュー以来、彼らをずっと見守ってきた新田和長さん。サディスティック・ミカ・バンド『黒船』の回に続き、二度目のご登場である。

(インタビュー&テキスト:小貫信昭)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――新田さんはオフコースとはデビューからの付き合いで、新田さんのほうが小田さんや鈴木さんより二歳年上とはいえ同世代。音楽の新たな地平を拓いた同志でもあると思いますし、それにちなんでまず勝手に僕が選んだこの曲からスタートさせてください。オフコースのアルバム『We are』から、「僕等の時代」。

♪「僕等の時代」(1980年)pc_btn_play.png

新田 いきなりすごい選曲ですね。この曲を聴くと僕は、当時のバンド内の葛藤など様々な人間関係が思い出されます。でも勇気あるメッセージソングですよね。

――ハイレゾ音源はいかがですか?

新田 いいですね。特に進化したヘッドホンで聴くと相性がいいように思います。僕のように音楽に関わってきた人間がずっと思ってきたことは、自分達がスタジオで創り上げたそのままの音を「みなさんにも聴いてもらいたい!」ということでもあったし、今のこの環境は、その想いに相当近づいたということで、とても嬉しく思っています。

――さて本題です。そもそも新田さんがオフコースを知ったのは、どんなキッカケからだったのでしょうか?

新田 彼らがヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」に出場したあたりです。それは1969年で、実はぼくが東芝に入社したのもその年だったんですよ(当時の名称は「東芝音楽工業」。1973年より「東芝EMI」となる)。メンバーは小田和正くん、鈴木康博くん、地主道夫くんの三人で、小田くんと地主くんが東北大学、鈴木くんは東工大の四年生でした。

――ヤマハのコンテストへは確か、東北ブロックからのエントリーですよね。

新田 当時、彼らがどのように練習してたかというと、鈴木くんが車にベースを積んで、まだ東北自動車道もない時代に8時間掛けて小田くん達に会いに行ってたようです。しかも週末毎にね。

――しかもベースって、運ぶのが大変なウッドベースですよね。

新田 本当に凄いことです。それで四年生の時、学生生活の有終の美を飾る積もりでコンテストに応募するんですね。それさえ終われば、なんの悔いもなくグループも解散する積もりだったのではないでしょうか。ところが新宿の厚生年金会館で行われた全国大会で、一位は赤い鳥で彼らは二位だった。それが運命を変えたと思うんです。

――小田さん自身、のちに「打ちのめされ、ずっと引きずった」とまで言ってますね。ところで新田さんはその大会をご覧になったわけですか?

新田 いや、その場には居なかった。どうやって彼らを知ったかというと、TBSラジオでコンテストの特集番組があって、そこでオフコースを耳にしたわけなんです。演奏したのはジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」とピーター・ポール&マリーの「ジェーン・ジェーン」かな? ビートルズの「In my life」だったかも知れない。ちょっと曖昧です。聴いてすぐ、「これは凄い、契約したいなぁ」、と……。でもその番組では、もちろん一位になった赤い鳥も紹介されて、彼らが演奏してたのは「竹田の子守唄」、そして同じピーター・ポール&マリーの「Come and go with me」で、これまた凄いわけです。甲乙つけがたい。だったら両方契約したいと思いました。

――すぐ、行動に移したわけですね。

新田 ヤマハへ行って、横浜に居る小田くん達に会わせてもらって契約できて、でも赤い鳥は武庫之荘(兵庫県尼崎市)ですからね。東京へ出てきてもらわなければならないし、そうなると生活の面倒も見ないといけない。レコード会社はプロダクションじゃないからそこまではできないし、しかも僕は新入社員の身ですし……。そうこうするうち、村井邦彦さんが「バード・コーポレーション」という赤い鳥のための事務所を作って契約することになるんですけどね。

――全国大会は1969年11月2日の開催のようですね。

新田 僕が小田くんたちと会って契約したのは、11月の内だったと思います。まだ12月にはなってなかった。でも契約したとはいえ、彼らとしては“プロとアマチュアの中間”くらいの意識だったと思うんです。ところが早くも翌年の4月5日には、「群衆の中で」というシングルを出すわけです。二位とはいえコンテストで賞を取ったんだから「早くレコードを出そう」という、そんな流れのなかのことだったんじゃないかな。言葉で説明出来ない新しいグループに出会って興奮していたのだと思います。曲は外国の曲で詞は山上路夫さん。これは東芝というより、ヤマハさん主導のことでした。でもここで地主くんが就職するためにグループを抜けるんです。

――我々はよく、オフコースの“実質的なデビュー曲は「僕の贈りもの」”などと記述しがちですが、そこに至るまでには何曲もあったわけですね。

新田 次の「夜明けを告げに」(71年10月)は、歌詞が山上さんで曲は加藤和彦さんです。ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のイントロのベースのラ⇒ソ⇒ファ#と半音下がっていく進行や、あとサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」の♪タン タタン タン タタンというリズムとか、洋楽からの影響も加藤くんのアイデアとして入ってます。さらに次の「おさらば」(72年4月)は、東海林修さんの詞・曲・編曲で、僕がトワ・エ・モアの『トワ・エ・モワ イン U.S.A.』というアルバムの仕事でロスへ行った時、東海林さんと親しくなったのが縁でした。彼にオフコースの話もさんざんして、ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」など、ちょっとウェストコースト・サウンドの要素もあるものが出来上がる。この曲で、オフコースは「第1回東京音楽祭」にも出てます。ただこの頃はメンバーが頻繁に変わってて、「夜明けを告げに」の時は実は三人で、「おさらば」は四人だった。

――確かに当時のシングルのジャケットを見ると、そうなってますね。

新田 しかもレコード会社としては、契約はしたけど彼らは音楽続けるのか就職するのか分からない時期でもあって、僕は上司から、「あれ、もうやめろ。暗い」って言われたりもしたんです。確かに小田くんは、会社に来ても愛想を振りまいて挨拶とかは絶対しませんでしたけど(笑)。

――契約を取ったのはいいけど、新田さんとしても辛かった、と……。

新田 僕は上司達に「もうちょっと待ってください、東北大学を出たら……」って言ったけど、そしたら小田くん、今度は「早稲田の大学院へ行く」って言うから「ええ~っ」って(笑)。確かにまだ、自分達で詞が書けるとか曲が書けるとかアレンジが出来るとかではなかったけど、今の日本の歌謡曲はイヤだし、普通のフォークも違うし……、という中で、試行錯誤の時期でした。メンバーもプロになりきれていない、僕も力不足のディレクターでした。

――このあたりの音源はハイレゾ化されてませんので、「では聴いて頂きましょう」、とはいかないのですが、小田さん鈴木さんの二人で「オフコース」を続けると決心してからが、第二幕の始まりでしょうか?

新田 そうですね。やっとハッキリしたというか、ここがひとつの区切りです。でも試行錯誤といっても小田くんが偉かったのは、この時期、ヤマハの教室に通って、和声法とか対位法とかの楽典を勉強したことなんです。

――そしていよいよ「僕の贈りもの」です。さっそく聴いてみましょう。

♪「僕の贈りもの」(1973年)pc_btn_play.png

新田 ああ……(様々なことを思いだした様子)。でも凄くいいです、ハイレゾで聴くと倍音が増えますね。ストリングスもいい。このアレンジは小田くんです。あと曲の構成も。イントロからヴァースのキーはCなんですけど、いつのまにかサビでAに行ってるんです。それも、「いかにも転調してます」っていうイヤらしいものじゃなく、綺麗に分からないうちに転調してて、アウトロというかコーダというか、エンディングではCに戻っていく……。そのあたりも実に巧みですよ。さっき小田くんはヤマハへ勉強に行ってたと言ったけど、そうしたことも活かされていると思いますね。彼は昔から、自分に「才能がある」ことに気がつくより、「才能が足らない」ことに気がつく人だったんです。普通は自分のいいとこばっか見るでしょ? でもほかの人との比較論ではなく、自分の基準で足りないことに気がつくから、じゃあどうするかというか、人より努力することにもなるわけでね。

――この作品を含むファースト・アルバム『僕の贈りもの』がリリースされたのが73年6月ですね。

新田 当時、オフコースは杉田二郎くんのいる事務所に所属してコンサートのバックを務めたりしてた関係で、彼を担当していた橋場正敏さんが最初の一枚は担当しました。そもそも「オフコースに一枚、アルバムを作ってやってほしい」というのは、杉田くんから頼まれたことでもあったのでね。このあたりのことは話せば長いんだけど、当時の東芝にビートルズの最初のディレクターだった高嶋弘之さんという方がいて、その人が途中から邦楽も兼任するようになり、ザ・フォーク・クルセダーズとか黛ジュン、由紀さおりといった数々のヒットを出すわけです。で、それが邦楽二課で、そこに橋場さんも僕もいて、のちに武藤敏史くんや重実博くんも加わるわけなんですけどね。

――武藤さんのお名前が出てきましたが、橋場さんの後、オフコースを担当するのが新田さんの部下となった大学の後輩、武藤さんですね。

新田 本来ならNHK交響楽団に入ってコントラバスを弾く予定だった武藤君を、この道に誘ったのが僕だったんですよ。

――この方のお名前が出るとファンが想い出すのは、名作の誉れ高い『ワインの匂い』。同時期のシングルではオフコースの出世作となった「眠れぬ夜」ということになります。ではここで、その曲を。

♪「眠れぬ夜」(1975年)pc_btn_play.png

――みんなが知っているエピソードとして、最初はバラードだったこの曲を、「エイトのロック調でやってみない?」と小田さんや鈴木さんに提案したのが武藤さんだったとか……。

新田 よく分かりませんが、多分その伝説は本当なのでしょう。で、『ワインの匂い』といえば、実は武藤くん、東芝に誘ったのはいいんですが、酒を飲み過ぎて階段から落ちて、半年会社を休んだ時期があったんですよ。そのとき人生を考え、夢を膨らまし復帰して、命がけで、水を得た魚のように取り組んだのがあのアルバムだったわけなんです。

――当時のレコーディングで、覚えていらっしゃることはありますか?

新田 武藤君は新宿のフリーダムスタジオを好んで使ってました。東芝には1スタという良いスタジオがありましたが、オフコースのような手作りで時間をかけて丁寧に作り上げるには稼働率が高すぎて不向きだった。フリーダムなら、自分たちの家のように自由に使える。今で言うロックアウト状態というか、そのままの状態で帰っても、明日の昼から継続できたわけです。実は労働組合の力が強い時代だったので、エンジニアの蜂屋君くんなども残業は許されていなかったんですけど、上司や組合の目を盗むように、やりたいことに没頭していましたね。

――そしてオフコースは徐々に二人から五人になり、さらなる躍進を遂げるわけですが、そのあたりは後編で伺いたいと思います!

 

後編につづく

 


 

オフコースのハイレゾ音源はアルバム10作品が配信中!(2015年12月現在)
『僕の贈りもの』『ワインの匂い』『We are』など……

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

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今回から10回にわたって心が優しくなる名曲をご紹介していきます。ラインナップは次の通り。
(※表記は曲名/作曲者/曲の生まれた年)

 

1.G線上のアリア (J・S・バッハ) 1720年頃または1730年頃

2.白鳥 (サン=サーンス) 1886年

3.ムーンリバー (ヘンリー・マンシーニ) 1961年

4.アヴェマリア (シューベルト) 1825年

5.見上げてごらん夜の星を (いずみたく) 1960年

6.子守歌 (ブラームス) 1868年

7.Over The Rainbow (ハロルド・アーレン) 1939年頃

8.夜想曲 (ショパン) 1831年

9.ベンのテーマ (ウォルター・シャーフ) 1972年頃

10.LaLaLu (ペギー・リー & ソニー・バーク) 1955年頃

10曲が収録された安眠に特化したアルバム『Anming Piano Songs ~聴いてるうちに夢の中~』はコチラ

 

 10曲に共通しているのは、メロディーに最小限の和声を合わせるだけで、その美しさが伝わるところです。そういった曲が僕は大好きなのですが、実はメロディーと最小限の和声だけで聴いている人の心を動かす、ということはそのままその曲の名曲性を表していることになるのです。まずメロディーが美しく、心を動かす力があります。そして作者がイメージして演奏者に指定した和声も、メロディー同様美しく、心を動かしてくれます。さらにその和声とメロディーには、実に深い結びつきと相関関係があるのです。

 これまでもこの連載で私は書いてきましたが、作品を生んだ作曲家は、メロディーと和声で自分の心の震えやうねりを表現しています。メロディーが上にあがる、下にさがる、同じ高さを持続させる、離れた音に飛ぶ、滑らかに動く、リズムを強調する、静かで動かない、などの様々な動きで、生んだ作曲家の心を豊かに表現しています。一方和声も、その種類によって, 明るい感じ/暗い感じ/切ない感じ/広がる感じ/不思議な感じ/複雑な感じ/緊張感のある感じ/穏やかな感じ……などを表現します。さらに和声では、和声つまりコード(和音)が順番に変化していくことで、さらに豊かな表情を伝えることができます。我々ポップス音楽の世界ではこれを『コード進行』と呼ぶのですが、このコード進行が曲に豊かな表情を与えつつ、聴いている人の心を動かすのです。

 そして、とても重要なことなのですが、その 『コード進行が醸し出す表情』と『メロディーが紡ぎ出す表情』が、どのように絡み合って人の心に届くのか……というところが、その曲が名曲であるかどうかを左右するのです。ですから、私がこのコラムでご紹介する名曲たちはみな、上記の絡み合った結果が本当に素晴らしく、人の心を打ち震わせてくれる曲ばかりなのです。

 今回選んだ10曲以外にも、私がその名曲性をご紹介したい曲はまだまだたくさんあります。ただ今回、私があるピアノアルバム(DSD配信専門レーベル "Onebitious Records" 第3弾アルバム『Anming Piano Songs ~聴いてるうちに夢の中~』)を制作することになり、それに向けて選んだのが、この10曲のラインナップだったわけです。そのピアノアルバムは『究極に優しいピアノアルバム』という趣旨で企画されたものでした。究極に優しいピアノで名曲を演奏すれば、聴いている人の心が癒され、豊かで幸せな気持になるだろう、という想いから生まれた企画です。このアルバムを聴くと、その名曲の魅力と優しいピアノ演奏によって緊張や悩みがほぐされて心が柔らかくなり、聴いているうちにウトウトとまどろんでしまうことでしょう。それほど優しい演奏を心がけたのですが、その結果『名曲性』はさらに明確になりました。なぜなら、究極に優しい演奏を心がけたため、演奏でリズムやダイナミクスがほとんど表現されていないからです。そのため、曲のメロディーとコード進行の関係だけが浮き彫りにされ、結果としてその曲がいかに名曲であるかがとてもわかりやすく伝わることになったのです。

 ですから、私にとっては、この『名曲の理由』で様々な名曲をご紹介する上で、今回の10曲がとてもその理由をお伝えしやすいわけです。 10曲はご覧の通り、曲を生んだ人もその人が生きていた時代も、曲が生まれた年もバラバラですが、それぞれの曲が持つ名曲性によって世界中の人に愛され、多くの人の心を打ち、震わせ、優しく包んできました。いったいこの10曲は、なぜそこまで人の心を惹きつけるのだろう? その理由の一部を、これから順番に解説していこうと思います。それぞれの曲の魅力に触れて頂き、名曲が持つ不思議な力を感じてもらえたら嬉しいです。

 


 

【プロフィール】

津田直士 (作曲家 / 音楽プロデューサー)
小4の時、バッハの「小フーガ・ト短調」を聴き音楽に目覚め、中2でピアノを触っているうちに “音の謎” が解け て突然ピアノが弾けるようになり、作曲を始める。 大学在学中よりプロ・ミュージシャン活動を始め、'85年よ りSonyMusicのディレクターとしてX(現 X JAPAN)、大貫亜美(Puffy)を始め、数々のアーティストをプロデュ ース。 ‘03年よりフリーの作曲家・プロデューサーとして活動。牧野由依(Epic/Sony)や臼澤みさき(TEICHIKU RECORDS)、アニメ『BLEACH』のキャラソン、 ION化粧品のCM音楽など、多くの作品を手がける。 Xのメンバーと共にインディーズから東京ドームまでを駆け抜けた軌跡を描いた著書『すべての始まり』や、ドワンゴ公式ニコニコチャンネルのブロマガ連載などの執筆、Sony Musicによる音楽人育成講座フェス「ソニアカ」の講義など、文化的な活動も行う。

FB(Fan Page) : https://www.facebook.com/tsudanaoshi
Twitter : @tsudanaoshi
ニコニコチャンネル:http://ch.nicovideo.jp/tsudanaoshi

 

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第13回:「旅の宿」よしだたくろう

~ハイレゾで、ふたたび拓郎に影響されそうな~

 

 moraのハイレゾ配信は、邦楽、洋楽、ジャズ、クラシック、アニソンと賑やかである。ずらりと並ぶジャケットを見ていると、つくづくハイレゾも一般的になったものだなと感慨深い。

 そのなかでも僕の場合、特に感慨深いのは邦楽だ。日本のアーティストが外国のアーティストとまったく同等に輝いている。ハイレゾに限らず、今の日本の音楽界には洋楽も邦楽もない、ということをつくづく感じる。

 こんなことを書くと、若い人たちは「何を当たり前のことを」と思われるかもしれない。しかし僕がレコードを聴き始めた70年代初頭までは、音楽の良し悪しは別として、邦楽は洋楽より一歩下がったところに見られていた。ポップスであれクラッシックであれ、日本人のレコードは、ジャケットを見ただけで、申し訳ないけれど「ダサいなあ」と思っていたのだ。

 そんな状況を変えたのが吉田拓郎だった(当時は“よしだたくろう”)。1972年の「結婚しようよ」の大ヒットである。当時、僕は中学三年生でビートルズに夢中だったにもかかわらず、まるで日本にもビートルズがデビューしたかのような興奮を覚えた。吉田拓郎はそれまでの、洋楽中心だった日本の音楽マーケットと、リスナーの心を一新したと思う。

 今回取り上げた「旅の宿」も同じくらい衝撃的だった。「ゆかたの〜キミィは〜」とか「俳句でもひねって〜」とか、日本の歌謡界から最も離れたところにいる男(テレビ出演の拒否など)が歌うには、ずいぶんと日本風で、逆にそれが吉田拓郎の大胆不敵さを感じて、中学生には“大人びた行為”と思えたものである。

 そして僕たち中学生が(というか日本中の若者が)もっとも拓郎の影響をうけた“大人びた行為”といえば、ギターであった。昨日まで、教室でバカ話をしていた級友が、突如ギターを弾きだした。おまえは剣道ばかりだったろ、音楽に興味があったの? 野球部のお前が、なんでギターを弾き始めるの?

 ギターを弾きだす男子は、それこそタケノコのようにあらわれた。給食後の休憩時間ともなると、下駄箱の横で、花壇の前で、女子の目を気にしながら「ゆかたの〜キミィは〜」と歌うのである。もちろん僕もギターを始めた。しかし初歩的なハードルであるFのコードでつまづき、タケノコの一つにさえなれなかった。以後はずっと音楽は“聴くだけ”の男である。

 今ハイレゾで「旅の宿」を聴くと、そんな頃を思い出す。アルバム『元気です。』収録の「旅の宿」はシングル・ヴァージョンと違って、ギターとハーモニカだけのシンプルな演奏である。ハイレゾでは解像度も申し分なく、ギターのアルペジオの装飾音がグッと身に染みる。

 やっぱり拓郎はいい。ハイレゾで聴いていると、この歳でふたたび吉田拓郎の影響を受けそうである。今度こそギターに挑戦してみようか、とも思う。女子は周りにいないけれど。

 

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よしだたくろう『元気です。』
(FLAC|96.0kHz/24bit)

「たどり着いたらいつも雨降り」「旅の宿」など収録

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【牧野 良幸 プロフィール】
 
1958年 愛知県岡崎市生まれ。
1980関西大学社会学部卒業。
大学卒業後、81年に上京。銅版画、石版画の制作と平行して、イラストレーション、レコード・ジャケット、絵本の仕事をおこなっている。
近年は音楽エッセイを雑誌に連載するようになり、今までの音楽遍歴を綴った『僕の音盤青春記1971-1976』『同1977-1981』『オーディオ小僧の食いのこし』などを出版している。
2015年5月には『僕のビートルズ音盤青春記 Part1 1962-1975』を上梓。
 
 
 

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 グループアイドルの先駆けであり、ドラマチックな解散劇が今なお語り継がれるキャンディーズ。代表曲を一挙収録したベスト盤がハイレゾ配信されたことを受け、それら大半のプロデュースを手がけたまさに「生き証人」、松崎澄夫さんにインタビューを行った。三人のメンバーの奇跡的なハーモニーと絆、また彼女らを支えるバックミュージシャンやエンジニアとの秘話など、ファンならずとも貴重な証言の数々が飛び出した。「歌とサウンドのバランスがとても気持ちいい」と松崎さんも語るハイレゾ音源を聴きながら、ぜひ名曲の生まれたプロセスに思いを馳せてみてほしい。

(リード文:mora readings編集部)

 


 

【プロフィール】

松崎澄夫(まつざき・すみお)

1948年(昭和23年)生まれ。
1965年、専属ミュージシャンとして渡辺プロダクションと契約。
1971年、渡辺音楽出版入社。
1988年、アミューズ入社アミューズ常務取締役(1991年)、専務取締役(1999年)を経て 2005年4月、代表取締役社長に就任。
2010年4月、株式会社エフミュージック代表取締役。 

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――松崎さんがキャンディーズと出会う以前のキャリアを教えてください。

松崎 僕はアウト・キャスト(1967年デビュー)、そのあとはアダムス(1968年デビュー)というバンドをやっていまして、解散したあと渡辺音楽出版に入って制作ディレクターになったんです。伊丹幸雄さんのデビュー・シングルの「青い麦」(1972年)が僕が最初に手がけたレコードです。当時、渡辺音楽出版にはディレクターが十何人かいて、渡辺プロダクション所属のタレントさんのレコードのほぼ90%の原盤制作をしていました。

――そういう中でキャンディーズと出会ったわけですね。

松崎 東京音楽学院(渡辺プロダクションが設立した音楽学校)に別の用事で行ったときに、たまたま授業を覗いたんですよ。そのときに、遅れて来た3人の女の子が一番前にちょこんと座ったんです。かわいかったので気になってスタッフに訊いたら、キャンディーズというグループで、まだデビューはしていないけど、NHKの「歌謡グランドショー」にレギュラー(マスコットガール兼アシスタント)で出ていると。それで会社に帰ってから、「キャンディーズの担当をぜひ僕にやらせてほしい」という話をしたんです。

――キャンディーズのデビューにあたっては、どういう方向性を目指したのでしょうか?

松崎 3人のコーラスを活かすのが面白いと思いましたね。ユニゾンは一番大事なんだけど、3人だとハーモニーを使っていろいろできるから面白いんじゃないかな、と思いました。

――その当時の3人の歌唱力はどうでしたか?

松崎 3人の声質のバランスは、最初はスーさんが一番メロディーに合う声で、3人でハモるとランさん、ミキさんの声が生きて、あのキャンディーズのサウンドになりましたね。

――だから最初はスーさんがセンターだったんですね。

松崎 そうです。

――では、デビュー・シングルの「あなたに夢中」をハイレゾで聴いてみたいと思います。

 

♪「あなたに夢中」(1973年)pc_btn_play.png

 

松崎 3人の声の違いまではっきりと聴こえますね。本当に当時のアナログのレコーディングで、3本のマイクで彼女たちが歌っていたときのそのまんまの感じに聴こえますね。

――当時、レコーディングではどういうご苦労があったのでしょう?

松崎 最初のころは、歌詞をまず一緒に読ませて、呼吸が少しでもずれたらやり直しさせていました。歌詞が頭に入って気持ちが一緒になってくると、だんだん呼吸が合ってきて、ブレスも一緒になってくるんです。それをずっと、4小節に5時間ぐらいかけて練習させていました。そのうちに自分たちでそういうことが全部できるようになって、ハーモニーも自分たちで付けられるようになっていったんですけど、「その気にさせないで」(1975年)ぐらいまでは本当に大変でしたね。

――「年下の男の子」(1975年)からランさんが真ん中でメイン・ボーカルを取るようになって、キャンディーズはブレイクしました。それにはどういう経緯があったのでしょうか?

松崎 当時のマネージャーの篠崎(重)さんから、ファンレターの数もランさんが断然多いし、地方へ行っても人気がものすごい、だから今度はなんとかランさんを真ん中にしたいから、合う曲を作ってくれないかという依頼があったんです。本当はシングルB面の「私だけの悲しみ」がA面の予定だったんですけど、その依頼を受けて「年下の男の子」を作ったら、こっちのほうがいいねということでA面になりました。夜中にランさんだけスタジオに呼んでレコーディングしましたね。

――スーさんとしては、ショックだったということはなかったんでしょうか?

松崎 そんなことは全然なかったですね。彼女たちは、3人でキャンディーズを作ろうね、という気持ちが強かったし、彼女たち自身がキャンディーズのファンだったんです。僕は彼女たちをデビューさせるときに、グループというのは3年ぐらいしか続かないものだから、思い切り3年間頑張ろう、という話をしたんですよ。自分がバンドをやっていたせいで、グループの難しさがわかっていましたからね。

――そういうある種の覚悟があったから、誰がセンターだということは、彼女たちにとっては関係なかったんですね。

松崎 そうです。解散宣言(1977年)をしたあとに、ランさんとスーさんが僕のところに、ミキが真ん中でやったことがないからミキを真ん中にさせたいんです、って言いに来たんです。あ、気がつかなかった、そうだよね、って言って(笑)。それで「わな」(1977年)でミキさんが真ん中になったんですけど、そういうお互いへの思いやりを彼女たちは持っていましたよね。

――では、キャンディーズのターニング・ポイントになった「年下の男の子」を聴いてみましょう。

 

♪「年下の男の子」(1975年)pc_btn_play.png

 

松崎 生でスタジオで歌ってるみたいな感じですよね。バックの音も、そんなに分厚くはないんだけど全部バランス良く出てきてるし。僕と穂口(雄右/アレンジャー・作曲家/元アウト・キャストのメンバー)さんはアマチュア時代から一緒にバンドをやってきた仲なので、アレンジはツーカーでできちゃっていました。ギターもほとんどの曲が水谷(公生/元アウト・キャスト、アダムスのメンバー)さんでしたし。キャンディーズの曲はだいたい、そうした僕の周りの仲間たちが集まった固定チームで作っていました。そういえば、「暑中お見舞い申し上げます」の頭の、ウ~ワォ! っていうのも水谷さんが考えたんですよ(笑)。

――この曲のヒットで、彼女たちに変化はありましたか?

松崎 とにかく忙しくなって、いつも眠そうでしたけど(笑)、でもこの曲のおかげで自信を持ったということはあると思いますね。この曲のあとから、ライブのイメージも変わりましたしね。大里(洋吉)さんがマネージャーになって、MMPをライブのバックにつけたことで、楽曲も演奏もガラッと変わりました。あのころのライブは本当にかっこよかったですよ。この時期から彼女たちは、それまでと違う音楽性をいっぱい得ていったと思います。

――そして、1976年3月発売の「春一番」がオリコンチャートの3位という大ヒットになりました。

 

♪「春一番」(1976年)pc_btn_play.png

 

松崎 この曲は水谷さんのギターがなかったらこんなにヒットしなかったと思いますね(笑)。最初、ソニーの六本木スタジオで別のレコーディングをやっているときに、空いた時間に穂口さんがピアノでこの曲を歌って聴かせてくれたんです。気に入ったので、この曲をキャンディーズでやろうという話になったんですけど、最初はもっと童謡みたいだった(笑)。それが、水谷さんのギターが入って、アレンジを施されるとこんなにノリが良くなるのかと驚きましたね。最初はアルバム『年下の男の子』(1975年)に入れた曲だったんですけど、ライブでやると異常に盛り上がるから、どうしてもシングルにしてくれって大里さんが会社に頼んだんです。でも、(渡辺)晋(渡辺プロダクション創業者)さんがうんと言わないから、CBS・ソニーからプロデューサーの稲垣(博司)さんも出て来て頼み込んだんです。そしたら「イニシャル50万枚ならやっていい」ということになって(笑)。

――50万枚はすごいですね。でも実際にヒットになったわけで、これは松崎さんにとってもかなり嬉しいことだったのではないでしょうか?

松崎 あんまりそれはなかったですね。当時は渡辺プロの歌手がベストテンに7曲ぐらい入っている時代でしたから。でも、チャートの上のほうにいられるというのはいいことだとは思いました。なぜかと言うと、好きなことができるからです。違うことにトライもできるわけで、それでいい結果になれば、またさらにいいものを作れる。そういう感覚でした。

――では次に、1977年の「やさしい悪魔」をお聴きください。

 

♪「やさしい悪魔」(1977年)pc_btn_play.png

 

――このあたりの時期になると、コーラス・ワークが本当に素晴らしいですよね。

松崎 このコーラスを録るのには4~5時間ぐらいかかりましたね。“あの人は悪魔、ハァ”や“ア~ア~、デビル”のところの微妙な間合いがなかなか上手くいかなくてね。最後の余韻みたいなものがなかなか出せなかったんですよ。これをやるのは本当に大変でした。

――そして、1977年7月17日、日比谷野外音楽堂のライブでキャンディーズは突然の解散宣言をします。そして、最後のシングル「微笑がえし」(1978年)で念願の1位を獲得するわけですね。作詞には阿木燿子さんが起用されています。

松崎 これに関してはソニーのプロデューサーの酒井(政利)さんのアイディアでした。ただ、泣いて別れるのはやめよう、笑って別れよう、明るく終わろうということは全員で決めましたね。それを受けて、「微笑がえし」というタイトルにして、シングルの曲名を歌詞に入れたっていうのは、やっぱり阿木さんは大したものだなあと思いました。

 

♪「微笑がえし」(1978年)pc_btn_play.png

 

松崎 シンセ・ドラムをシングルに使ったのは、日本でこの曲が一番初めだと思います。うーん、こうして聴くと歌が上手いですね。解散を決めて、気持ちがスッキリしたのが声にも出てるんだと思います。実は解散前に、青山のピアノ・バーであるパーティーがあって、そこで彼女たちはピアノ1台にマイク1本だけでこれを歌ったんです。それが素晴らしかったのを思い出しました。あれは本当に上手かった。彼女たちのあんなにすごい歌を聴いたのは、僕もあの1回だけしかないです。

――最後に、今回こうしてハイレゾでキャンディーズの楽曲を聴いてみたご感想を改めてお願いします。

松崎 アナログに近い感じがありますよね。歌とバックの音のバランスが良くて、ひとつずつの音もとてもよく聴こえて来ます。当時は、最先端のサウンドをどうやって取り入れるかということばっかり考えて作っていました。だから、全体的にどうかというのは実はあまり考えていなかったように思うんですよね。でも、こうして聴いてみると気持ちいい音になっています。レコーディング・エンジニアの吉野金次さん、野村正樹さんのお2人がキャンディーズのサウンドをしっかり育ててきた功績は大きいと思いますね。

 

(インタビュー&テキスト:細川真平)

 


 

今回ご紹介した代表曲の数々を含む決定盤ベスト!
GOLDEN☆BEST キャンディーズ コンプリート・シングルコレクション

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

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新連載「Younger Than Yesterday~ハイレゾで蘇る巨人たちの足跡~」は洋楽を中心にハイレゾで楽しむことのできる「名盤」の数々を各分野で活躍する音楽ライター、評論家の方々に語っていただくシリーズです。歴史的文脈や古今東西の作品との見えないつながりなど、専門家ならではの「深い」楽しみ方を貴方にご提供。ぜひダウンロードした音源とともに、テキストをお楽しみください。

 


 

~この一枚を聴く~

The Best of The Cutting Edge 1965-1966
The Bootleg Series, Vol.12

通常・36曲通常・111曲
ハイレゾ・36曲ハイレゾ・111曲

 

 ボブ・ディランは正規のアルバムとは別に25年ほど前からブートレッグ・シリーズというアルバムを出し続けている。未発表曲や別録音の数々を次々に蔵出ししているシリーズである。

 その最新盤の第12集『ザ・カッティング・エッジ 1965-1966』は、市販されているスタンダード・エディション(CD2枚組)、デラックス・エディション(6枚組)の他に、18枚組という気の遠くなりそうな通販限定セットもある。

 未発表曲や別録音は残りものだから、一般論として、熱心なファンには興味深くても、正規盤よりおもしろいことはまれ、というのが常識だろう。しかし天才ボブ・ディランにその常識は通用しない。

 なにしろ彼は、デビュー以来ずっと、とんがった音楽を大量に作り続けてきた人である。中でも1965-1966年は「ライク・ア・ローリング・ストーン」「雨の日の女」をはじめ、ロックの歴史を変えることになる作品が格別に多かった時期として知られている。その時代の未発表音源がごっそり発表されたのだから、聴かずにはいられない。

 代表曲の「ライク・ア・ローリング・ストーン」1曲の別テイクだけでCD1枚分の約65分もある。最初はワルツになるかもしれなかったこの曲が、スタジオ・セッションを続けていくうちに、どんどん変化していく。

 歴史的な名曲が、どのようにして発表されたヴァージョンになっていったのかを、具体的にたどれるのだからたまらない。リズムの組み合わせを工夫するたびに、曲の印象ががらりと変わる。あまりの変化にただただ驚いて、なるほど天才の感覚とはこういうものなのかと思う。

 スタジオでは、発売されたヴァージョンをレコーディングした後も、新たなテイクが次々に録られていく。現場ではみんなテンションが上がっているので、いま録ったものが最良とは必ずしも即座に冷静に判断できないからだ。それに、いまのはよかったと思っても、もっといい演奏ができるかもしれないという思いに限度はない。

 もっともっとという気持ちにかられることは、何もレコーディングの現場にかぎったことではなく、どんな仕事にもあることだろう。だから人は前に進めるとも言えるし、それで壮大な無駄を重ねてしまうこともあるとも言える。

 コンピュータ制御で楽器のパートごとに音を作っていく現在主流のレコーディングとちがって、このときは全員「セーノ」で演奏するスタジオ・ライヴ・レコーディングである。長引けば疲れが出て、ミスが起こりやすい。新しいアイデアに熱中できるのも最初のうちだけのことが多い。 「ライク・ア・ローリング・ストーン」の場合は、テイク15まで録音を続けたが、スタジオで完演できたのはわずかで、曲の雰囲気にふさわしいとして採用されたのは結局テイク4のヴァージョンだった。

 この事実を知ると、なにかもう人という生き物の業のようなものさえ感じる、といえば大げさすぎるか。

 この曲のレコーディングには、他にもいろいろなドラマが隠されている。

 特に有名なのは、アル・クーパーがハモンド・オルガンで参加することになったいきさつだ。まだかけだしのミュージシャンだった彼は、当日、あこがれのボブ・ディランのレコーディングの見学を許されて、スタジオに来たにすぎなかった。

 しかしオルガン奏者がピアノの前にすわったのを見た彼は、プロデューサーに無断でスタジオの中に入りこみ、オルガンを弾いた。プロデューサーは彼にやめさせようとしたし、録音も消そうとしたが、ボブ・ディランがその音を気に入ったために、採用されることになった。

 アル・クーパーの横紙破りの行動と、ディランの判断がなければ、「ライク・ア・ローリング・ストーン」全編を通じて流れるオルガンの音はなかったわけだ。歴史に「もし」は禁物と言われるが、仮にオルガンを他のミュージシャンが演奏したとしても、別の音やフレーズが弾かれて、ちがう印象の作品に仕上がったにちがいない。

 『ザ・カッティング・エッジ 1965-1966』をハイレゾの生々しい音で聴いていると、まるで自分がタイム・スリップして、1965年のニューヨークのレコーディング・スタジオのブースで見物しているような気分が味わえる。

 高音質のハイレゾが歌声の豊かさを味わったり、繊細な生楽器の響きをたどったり、凝った音作りの音楽を分析的に聴いたりするのに向いていることは言うまでもない。

 しかしボブ・ディランのこのアルバムの音楽は、それとは対照的な方法で作られている。歌声はざらついて荒々しく、演奏はスタジオ・ライヴの一発録りが多く、完成度より気迫が勝っている。

 ロックは電気楽器のノイズ成分まで含めて成立する音楽なので、その美学は古典的な意味での音楽の「美しさ」とは、必ずしも一致しない。別の角度から見れば、ロックはそのノイズ成分に価値を与えて、音楽の「美しさ」の範囲を広げた音楽とも言える。今回聴いて気付いたのは、ハイレゾがロックのそうした生々しさを見事に引き出す力も持っているということだった。

 このアルバムの音楽が生まれた60年代中期は、世の中に目を向けると、東西の冷戦が緩和する一方で、ベトナム戦争が拡大し、公民権運動が新たな進展をみせ、学園闘争やヒッピーの動きが急浮上するなど、社会が大きく揺れ動いた時期だった。南北格差の拡大や、戦後のベビーブーマー、いわゆる段階の世代の成長にともなって、産業構造の変化がはじまり、消費化社会が到来しつつあった。若者だけが変化を求めたのではなく、時代が変化を必要としていたのだ。

 変化には希望だけでなく、痛みや混乱もつきものだ。ボブ・ディランのこの時期の音楽は、まるでそんな現実に呼応するかのように、混沌として幻想的だった。また、世の不条理に対する怒りやいらだちの感情も表れていた。

 それを具体的な音にしたのが、彼のざらついた歌声だったり、マイク・ブルームフィールドの鋭利なエレクトリック・ギターだったり、アル・クーパーの辛口のオルガンだったりした。
 音を極力加工しない状態のままの演奏をハイレゾで聴くと、そんな響きがストレートに増幅されて伝わってくるような気がする。

 それにしても『ザ・カッティング・エッジ 1965-1966』は聴きどころの多いアルバムだ。

 ボブ・ディランのコンサートに一度でも足を運んだことのある人や、ライヴ・アルバムを聴いたことがある人は、彼がコンサートのたびにメロディを大きく変えてうたっていることをご存知だろう。有名な曲でも、自分が覚えている歌詞が出てくるまで、どの曲がうたわれているのかわからないことがしょっちゅうある。

 毎晩ライヴをやる自分に飽きないために、彼はメロディを変えているのだろうとぼくは思っていたが、今回、さまざまなテイクを聴きくらべると、レコーディングのときもそうだったことがわかった。

 ライヴほど大幅に変わることはさすがに少ないが、それでもキーがちょっと上がるだけで、曲の印象が劇的に変化する。「ジョアンナのヴィジョン」のテイク7や「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」のテイク4などは、オリジナルで発表されたものとはまったくちがうアップ・テンポなロックンロール・ヴァージョンだ。「廃墟の街」にいたっては、2日間ちがいのレコーディングで声までちがっている。

 途中でまちがえて終わる曲は、聴く前は、未完成な曲を聴いて何が面白いのだろうと甘く見ていたが、絶え間ない試行錯誤が彼の音楽を推し進めていく過程を追体験してみると、ますます彼のすごさが実感できるようになった。

 他にもザ・ホークス(ザ・バンド)との初期のセッション、ジョン・セバスチャンの参加曲など、珍しい録音がめじろ押しで、つい伝記本に手が伸びたりする。ああ、時間がいくらあっても足りない。

 


 

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ボブ・ディランのハイレゾ音源はこちらから

 


 

【執筆者プロフィール】

北中正和(きたなかまさかず)

音楽評論家。東京音楽大学非常勤講師。DJ。新聞、雑誌、放送、ネットなどで日本を含む世界各地の音楽を研究、紹介している。最近インタビューして印象に残ったのは、ジェイムス・テイラーと谷川俊太郎。近年はウェブマガジン『ERIS』で日本の古代の音楽に研究にも取り組んでいる。著書『ロック』『にほんのうた』『毎日ワールドミュージック』他、編著書に『世界は音楽でできている』『細野晴臣 エンドレス・トーキング』『事典 世界音楽の本』他多数。

公式サイト『wabisabiland』
http://homepage3.nifty.com/~wabisabiland/

 

 

 

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