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[12/4]オフコースの黎明期~大ヒットまでの道筋を知る音楽人、新田和長さんにインタビュー!(前編)

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 「僕の贈りもの」、「眠れぬ夜」、「さよなら」、「Yes-No」など、数々の名曲を世に送り出してきたオフコース。解散後、安易な再結成は一切せず、まさに伝説の存在として人々の記憶のなかに在る。デビューはフォークが全盛だった69年。しかし程なく、その後の「ニューミュージック」を予感させる洗練された音楽性を示す。最初のメンバーは小田和正と鈴木康博であり、さらなる発展を目指し、5人組となったことで新たな地平を切り拓き、82年の武道館10日間公演という偉業へと突き進むのだった。そんな彼らの作品が、遂にハイレゾで楽しめるようになった。今、改めて聴いてみると、カーペンターズをはじめとした良質なアメリカン・ポップに影響されたコーラスワークが見事であり、また、ミシェル・ルグランなどの映画音楽から影響された流麗なストリングス・アレンジも極上の余韻を残す。まさに音のディテイルにこそこだわった音楽性ゆえ、よりクリアに音が届く今の環境は、大いに歓迎すべき出来事だろう。お話を伺ったのは、デビュー以来、彼らをずっと見守ってきた新田和長さん。サディスティック・ミカ・バンド『黒船』の回に続き、二度目のご登場である。

(インタビュー&テキスト:小貫信昭)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――新田さんはオフコースとはデビューからの付き合いで、新田さんのほうが小田さんや鈴木さんより二歳年上とはいえ同世代。音楽の新たな地平を拓いた同志でもあると思いますし、それにちなんでまず勝手に僕が選んだこの曲からスタートさせてください。オフコースのアルバム『We are』から、「僕等の時代」。

♪「僕等の時代」(1980年)pc_btn_play.png

新田 いきなりすごい選曲ですね。この曲を聴くと僕は、当時のバンド内の葛藤など様々な人間関係が思い出されます。でも勇気あるメッセージソングですよね。

――ハイレゾ音源はいかがですか?

新田 いいですね。特に進化したヘッドホンで聴くと相性がいいように思います。僕のように音楽に関わってきた人間がずっと思ってきたことは、自分達がスタジオで創り上げたそのままの音を「みなさんにも聴いてもらいたい!」ということでもあったし、今のこの環境は、その想いに相当近づいたということで、とても嬉しく思っています。

――さて本題です。そもそも新田さんがオフコースを知ったのは、どんなキッカケからだったのでしょうか?

新田 彼らがヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」に出場したあたりです。それは1969年で、実はぼくが東芝に入社したのもその年だったんですよ(当時の名称は「東芝音楽工業」。1973年より「東芝EMI」となる)。メンバーは小田和正くん、鈴木康博くん、地主道夫くんの三人で、小田くんと地主くんが東北大学、鈴木くんは東工大の四年生でした。

――ヤマハのコンテストへは確か、東北ブロックからのエントリーですよね。

新田 当時、彼らがどのように練習してたかというと、鈴木くんが車にベースを積んで、まだ東北自動車道もない時代に8時間掛けて小田くん達に会いに行ってたようです。しかも週末毎にね。

――しかもベースって、運ぶのが大変なウッドベースですよね。

新田 本当に凄いことです。それで四年生の時、学生生活の有終の美を飾る積もりでコンテストに応募するんですね。それさえ終われば、なんの悔いもなくグループも解散する積もりだったのではないでしょうか。ところが新宿の厚生年金会館で行われた全国大会で、一位は赤い鳥で彼らは二位だった。それが運命を変えたと思うんです。

――小田さん自身、のちに「打ちのめされ、ずっと引きずった」とまで言ってますね。ところで新田さんはその大会をご覧になったわけですか?

新田 いや、その場には居なかった。どうやって彼らを知ったかというと、TBSラジオでコンテストの特集番組があって、そこでオフコースを耳にしたわけなんです。演奏したのはジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」とピーター・ポール&マリーの「ジェーン・ジェーン」かな? ビートルズの「In my life」だったかも知れない。ちょっと曖昧です。聴いてすぐ、「これは凄い、契約したいなぁ」、と……。でもその番組では、もちろん一位になった赤い鳥も紹介されて、彼らが演奏してたのは「竹田の子守唄」、そして同じピーター・ポール&マリーの「Come and go with me」で、これまた凄いわけです。甲乙つけがたい。だったら両方契約したいと思いました。

――すぐ、行動に移したわけですね。

新田 ヤマハへ行って、横浜に居る小田くん達に会わせてもらって契約できて、でも赤い鳥は武庫之荘(兵庫県尼崎市)ですからね。東京へ出てきてもらわなければならないし、そうなると生活の面倒も見ないといけない。レコード会社はプロダクションじゃないからそこまではできないし、しかも僕は新入社員の身ですし……。そうこうするうち、村井邦彦さんが「バード・コーポレーション」という赤い鳥のための事務所を作って契約することになるんですけどね。

――全国大会は1969年11月2日の開催のようですね。

新田 僕が小田くんたちと会って契約したのは、11月の内だったと思います。まだ12月にはなってなかった。でも契約したとはいえ、彼らとしては“プロとアマチュアの中間”くらいの意識だったと思うんです。ところが早くも翌年の4月5日には、「群衆の中で」というシングルを出すわけです。二位とはいえコンテストで賞を取ったんだから「早くレコードを出そう」という、そんな流れのなかのことだったんじゃないかな。言葉で説明出来ない新しいグループに出会って興奮していたのだと思います。曲は外国の曲で詞は山上路夫さん。これは東芝というより、ヤマハさん主導のことでした。でもここで地主くんが就職するためにグループを抜けるんです。

――我々はよく、オフコースの“実質的なデビュー曲は「僕の贈りもの」”などと記述しがちですが、そこに至るまでには何曲もあったわけですね。

新田 次の「夜明けを告げに」(71年10月)は、歌詞が山上さんで曲は加藤和彦さんです。ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のイントロのベースのラ⇒ソ⇒ファ#と半音下がっていく進行や、あとサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」の♪タン タタン タン タタンというリズムとか、洋楽からの影響も加藤くんのアイデアとして入ってます。さらに次の「おさらば」(72年4月)は、東海林修さんの詞・曲・編曲で、僕がトワ・エ・モアの『トワ・エ・モワ イン U.S.A.』というアルバムの仕事でロスへ行った時、東海林さんと親しくなったのが縁でした。彼にオフコースの話もさんざんして、ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」など、ちょっとウェストコースト・サウンドの要素もあるものが出来上がる。この曲で、オフコースは「第1回東京音楽祭」にも出てます。ただこの頃はメンバーが頻繁に変わってて、「夜明けを告げに」の時は実は三人で、「おさらば」は四人だった。

――確かに当時のシングルのジャケットを見ると、そうなってますね。

新田 しかもレコード会社としては、契約はしたけど彼らは音楽続けるのか就職するのか分からない時期でもあって、僕は上司から、「あれ、もうやめろ。暗い」って言われたりもしたんです。確かに小田くんは、会社に来ても愛想を振りまいて挨拶とかは絶対しませんでしたけど(笑)。

――契約を取ったのはいいけど、新田さんとしても辛かった、と……。

新田 僕は上司達に「もうちょっと待ってください、東北大学を出たら……」って言ったけど、そしたら小田くん、今度は「早稲田の大学院へ行く」って言うから「ええ~っ」って(笑)。確かにまだ、自分達で詞が書けるとか曲が書けるとかアレンジが出来るとかではなかったけど、今の日本の歌謡曲はイヤだし、普通のフォークも違うし……、という中で、試行錯誤の時期でした。メンバーもプロになりきれていない、僕も力不足のディレクターでした。

――このあたりの音源はハイレゾ化されてませんので、「では聴いて頂きましょう」、とはいかないのですが、小田さん鈴木さんの二人で「オフコース」を続けると決心してからが、第二幕の始まりでしょうか?

新田 そうですね。やっとハッキリしたというか、ここがひとつの区切りです。でも試行錯誤といっても小田くんが偉かったのは、この時期、ヤマハの教室に通って、和声法とか対位法とかの楽典を勉強したことなんです。

――そしていよいよ「僕の贈りもの」です。さっそく聴いてみましょう。

♪「僕の贈りもの」(1973年)pc_btn_play.png

新田 ああ……(様々なことを思いだした様子)。でも凄くいいです、ハイレゾで聴くと倍音が増えますね。ストリングスもいい。このアレンジは小田くんです。あと曲の構成も。イントロからヴァースのキーはCなんですけど、いつのまにかサビでAに行ってるんです。それも、「いかにも転調してます」っていうイヤらしいものじゃなく、綺麗に分からないうちに転調してて、アウトロというかコーダというか、エンディングではCに戻っていく……。そのあたりも実に巧みですよ。さっき小田くんはヤマハへ勉強に行ってたと言ったけど、そうしたことも活かされていると思いますね。彼は昔から、自分に「才能がある」ことに気がつくより、「才能が足らない」ことに気がつく人だったんです。普通は自分のいいとこばっか見るでしょ? でもほかの人との比較論ではなく、自分の基準で足りないことに気がつくから、じゃあどうするかというか、人より努力することにもなるわけでね。

――この作品を含むファースト・アルバム『僕の贈りもの』がリリースされたのが73年6月ですね。

新田 当時、オフコースは杉田二郎くんのいる事務所に所属してコンサートのバックを務めたりしてた関係で、彼を担当していた橋場正敏さんが最初の一枚は担当しました。そもそも「オフコースに一枚、アルバムを作ってやってほしい」というのは、杉田くんから頼まれたことでもあったのでね。このあたりのことは話せば長いんだけど、当時の東芝にビートルズの最初のディレクターだった高嶋弘之さんという方がいて、その人が途中から邦楽も兼任するようになり、ザ・フォーク・クルセダーズとか黛ジュン、由紀さおりといった数々のヒットを出すわけです。で、それが邦楽二課で、そこに橋場さんも僕もいて、のちに武藤敏史くんや重実博くんも加わるわけなんですけどね。

――武藤さんのお名前が出てきましたが、橋場さんの後、オフコースを担当するのが新田さんの部下となった大学の後輩、武藤さんですね。

新田 本来ならNHK交響楽団に入ってコントラバスを弾く予定だった武藤君を、この道に誘ったのが僕だったんですよ。

――この方のお名前が出るとファンが想い出すのは、名作の誉れ高い『ワインの匂い』。同時期のシングルではオフコースの出世作となった「眠れぬ夜」ということになります。ではここで、その曲を。

♪「眠れぬ夜」(1975年)pc_btn_play.png

――みんなが知っているエピソードとして、最初はバラードだったこの曲を、「エイトのロック調でやってみない?」と小田さんや鈴木さんに提案したのが武藤さんだったとか……。

新田 よく分かりませんが、多分その伝説は本当なのでしょう。で、『ワインの匂い』といえば、実は武藤くん、東芝に誘ったのはいいんですが、酒を飲み過ぎて階段から落ちて、半年会社を休んだ時期があったんですよ。そのとき人生を考え、夢を膨らまし復帰して、命がけで、水を得た魚のように取り組んだのがあのアルバムだったわけなんです。

――当時のレコーディングで、覚えていらっしゃることはありますか?

新田 武藤君は新宿のフリーダムスタジオを好んで使ってました。東芝には1スタという良いスタジオがありましたが、オフコースのような手作りで時間をかけて丁寧に作り上げるには稼働率が高すぎて不向きだった。フリーダムなら、自分たちの家のように自由に使える。今で言うロックアウト状態というか、そのままの状態で帰っても、明日の昼から継続できたわけです。実は労働組合の力が強い時代だったので、エンジニアの蜂屋君くんなども残業は許されていなかったんですけど、上司や組合の目を盗むように、やりたいことに没頭していましたね。

――そしてオフコースは徐々に二人から五人になり、さらなる躍進を遂げるわけですが、そのあたりは後編で伺いたいと思います!

 

後編につづく

 


 

オフコースのハイレゾ音源はアルバム10作品が配信中!(2015年12月現在)
『僕の贈りもの』『ワインの匂い』『We are』など……

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「匠の記憶~Memories of Legend~」バックナンバーはこちら

 

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