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[7/9]サディスティック・ミカ・バンド『黒船』レコーディング秘話を新田和長さんが語る! ピンク・フロイドを手がけた大物プロデューサーと作り上げた「和製プログレ」の名盤をハイレゾで再び!!

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 日本中を驚かせた大ヒット曲『帰ってきたヨッパライ』(オリコン史上初のミリオン・シングル)、『悲しくてやりきれない』、『イムジン河』を作り出したザ・フォーク・クルセーダーズのコア・メンバー、加藤和彦。
 加藤は若くして度々イギリスを訪れ、マーク・ボラン(T-REX)、デイヴィッド・ボウイ、ブライアン・フェリー(ロキシー・ミュージック)らの破天荒さ、煌びやかさを世界に向かって放つグラム・ロックとファッションに多大な影響を受けることで「フォークからロックへ」と自らの音楽を変革させていく。加藤は妻でノン・ミュージシャンの(福井)ミカをシンボルにして日本から世界へと飛び立つことができるバンドを結成。それがサディスティック・ミカ・バンドである。
 メンバーは加藤和彦、高橋幸宏、小原礼、高中正義、今井裕、そしてミカという現在では破格のスーパー・バンドと化し、ザ・ビートルズからピンク・フロイドまでを手掛けていたイギリスの名プロデューサー、クリス・トーマスを迎えてセカンド・アルバム『黒船』をリリース。遂には日本のバンドとして初めてイギリス・ツアーを敢行(しかもグラム・ロックの覇者の一つ、ロキシー・ミュージックのフロント・アクトとして!)した。世界を目指す加藤和彦、サディスティック・ミカ・バンドと音楽を共有したディレクター(※当時、東芝EMI)の新田和長さんに日本のロックに新たな発想と展開をもたらしたレコーディングに迫る。

 

インタビュー&テキスト:伊藤亮(プロジェクト・コンサルタント)

 


 

【プロフィール】

新田和長(にった・かずなが)

早稲田大学在学中の1967年、「ザ・リガニーズ」を結成し「海は恋してる」などを発表。
1969年 東芝音楽工業株式会社(現EMIミュージック・ジャパン)に入社。プロデューサーとして、赤い鳥、オフコース、トワ・エ・モワ、RCサクセション、はしだのりひことクライマックス、加藤和彦、北山修、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンド、長渕剛、かまやつひろし、加山雄三、寺尾聡、稲垣潤一など数々のアーティストを担当。
1984年 株式会社ファンハウスを設立し、代表取締役社長に就任。オフコース、稲垣潤一、舘ひろし、小林明子、岡村孝子、小田和正、永井真理子、辛島美登里、シングライクトーキング、S.E.N.S.、大事MANブラザーズバンド、ACCESS、斉藤和義、THE YELLOW MONKEYなどを輩出。
1998年 株式会社BMGジャパン取締役、RCAアリオラジャパン社長兼務。
1999年 株式会社BMGファンハウス代表取締役副社長。
2001年 株式会社ドリーミュージックを設立、代表取締役社長兼CEO就任。
2013年 株式会社新田事務所代表取締役社長、現在に至る。
これまでに日本レコード協会理事、同副会長、音楽産業・文化振興財団理事などを歴任。

 


 

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インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――サディスティック・ミカ・バンドは70年代初期では極めて特異な存在だったと思います。あのサウンドはどのように受け止められていたのでしょうか?

新田 まずミカ・バンドが世界的に評価を得るまでの日本の音楽の状況をお話しておきましょう。1973年にサディスティック・ミカ・バンドのファースト(『サディスティック・ミカ・バンド』)が出た。同じ年にチューリップは『心の旅』を出しています。そして、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、アリス、赤い鳥で“ラヴ・ジェネレーション”というコンセプト・ツアーをやったんです。まだ彼らにはヒットがないからイベンターやプロモーターを通さずに音楽メーカーが自ら「これからはこういう音楽です」と伝えるためのツアーでした。有料媒体に広告を出すよりも目の前で観て、聴いてもらったほうが確実にリスナーに伝わると考えたからです。同時期にユーミン(荒井由実)もデビューしたばかりでした。ヒットこそなくても、誰の耳にもアコースティック・ギター中心のフォークから新しい音楽へと移行していることが明らかでした。
 しかし、そこには弊害がありました。加藤君がロックをやろうとするとその頃のロック・バンドたちには「オマエはフォーク出身だ。ロックじゃない」と言われる。チューリップの財津(和夫)さんはフォーク・ギターにアッテネーター(アコースティック楽器の音を電気的に変換し、音量に強弱をつける機器)をつけていて、バンドにはドラムがいたもんだから、フォーク・シンガーたちには「オマエはフォークじゃない。ロックだ」と言われていました。僕は彼らの担当で、困惑したわけです。「ミカ・バンドはロックじゃないと言われ、チューリップはフォークじゃないと言われる。それじゃ、彼らの音楽は何なんだ?」と。そして、同時期に音楽業界で自然と発生し、広まったのが“ニューミュージック”という言葉でした。ロックでもない、フォークでもない新しい音楽を総称した言葉です。今となってはニューミュージックなんて誰も使わないし、あの頃でも「言葉が軽すぎる」とも言われました。しかし例えばユーミン(荒井由実)の音楽はフォークではないし、ロックでもないですよね。既存の音楽へのアンチ・テーゼとなった音楽が次々に産まれてきた時代でした。そういう音楽をニューミュージックと総称し、僕たちは「芸能界じゃなくて音楽界を作るんだ」と言ったんです。生意気なことですけどね(笑)。その中でも加藤君、サディスティック・ミカ・バンドは「日本から世界へ」を目指していました。

――ミカ・バンドの『黒船』がイギリスでリリースされた経緯をお話いただけますか?

新田 日本語の音楽だけど、サウンドも演奏力も世界でイケるぞ、という気概があったんでしょうね。まだ日本ではシングル至上主義でしたが、欧米はもうコンセプト・アルバムの時代になっていました。ミカ・バンドにはシングル・ヒットはありませんでしたがアルバム全体で何度も聴いて尚、耐久性があった。そこで、イギリスのEMIに“ハーヴェスト”というレーベルがありまして、そこのマネージャーのスチュワート・ワトソンという男を日本に招いて2カ月ほど僕の世田谷の家に泊まってもらったんです。彼を招いて、日本を知ってもらうことが目的でした。彼も「日本に招待してくれるなら出す」と言ってくれてね。

――日本のバンドの海外リリースが担当者の日本滞在で決まるなんて、相当に牧歌的なエピソードですね(笑)

新田 そうですよね(笑)。でも、おかげでイギリスのEMIから日本の東芝EMI原盤を海外盤でアルバム・リリースをすることができました。思えばあの時代は“西高東低”と言って「日本の音楽は西欧の音楽には敵わない」というのが常識としてずっと続いていました。日本の音楽は西欧の、あるいはアメリカの音楽のパクりだと、ね。いや、実際に影響の大きさは誰も否定してはいませんよね。でも、パクるんじゃなくて影響を受けて咀嚼し、日本の音楽にしてきたんです。加藤君は言わばコンテンポラリー・フォーク(戦後のフォーク・ミュージックの初期)を完璧に把握していました。とにかく詳しいんだ。ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーはもちろん、キングストントリオだって何だって知ってる。もちろんビートルズは言うに及ばず、デイヴィッド・ボウイだって完全にコピーできるほど研究していました。その感性の速さと強さには驚きましたね。西欧の音楽を模倣することから、洋楽をしっかりと咀嚼して日本の音楽のオリジナルを作るということにおいて加藤君の知識は重要な意味があったんだと思います。

――ミカ・バンドは成り立ち自体にも当時の加藤さんが考えた新たなバンドの在り方が反映されていると思います。

新田 ビートルズのメンバー、ポール(マッカートニー)は奥さんのリンダとウィングスを作り、ジョン(レノン)はオノ・ヨーコさんとプラスティック・オノ・バンドを作った。サディスティック・ミカ・バンドはモロにプラスティック・オノ・バンドからきてますからね。加藤君は「これからは家族が核になったバンドだよ」と言っていました。ヨーコさんもミカさんも所謂ミュージシャンではありませんが、個性が強くシンボリックな存在です。

――ファーストの『サディスティック・ミカ・バンド』とセカンド『黒船』の大きな違いはどこにありますか?

新田 一つはバンドの編成。最初のドラムはつのだ☆ひろさんですが(高橋)幸宏さんに変わった。そしてファーストにはキーボードがいなかったけど、セカンドで今井裕さんが入ってきた。この二点はバンドのサウンドに大きな変化をもたらしています。そして最大の違いはセカンドの『黒船』にはプロデューサーとしてクリス・トーマスがいます。

――エンジニアはどちらのアルバムも蜂屋量夫さんですよね。

新田 そうです。当時はレコーディング・エンジニアのほとんどがレコード会社所属、所謂ハウス・エンジニアでした。蜂屋君は東芝EMIのエンジニアです。彼のレコーディング技術も偉大なんです。70年代初期、イギリスではグラム・ロックが流行っていて聴感的にレコードの音がデカい。リミッターを使って音量を突っ込んでいってました。加藤君も「リミッター、リミッター!」って呪文のように言っていた。そこで蜂屋君とのファースト・アルバムのレコーディングは最初のテーマが「T-REXよりも音を突っ込もう!」と(笑)。かなり突っ込んでると思いますよ、70年代初期の日本のロック・サウンドとしてはね。

――あとからフォローした世代の僕にはどれだけ「突っ込んだ」音かは判断できないんですけど、改めてハイレゾでファーストを聴くと、ところどころヴォーカルが歪みそうだったりしてますし、ドラムのキックとベースの音がデカいですよね。

新田 そうかもしれません。でも、もちろん東芝EMIのスタジオの機材なんて大したことはなかったから、実はそんなに音がデカくなったりしてないはずなんです。だから今はちょっと冷静になって「突っ込んだのは音以上に情熱だったんだな」なんて思いますね(笑)。だけど、ファーストの時点で加藤君は吉田拓郎のアルバム・プロデュースをやったりして、言わばアーティスト・プロデューサーの先駆けで、スタジオで言ってたことはエンジニアにすごく近かった。工学的な技術はないから、そこは蜂屋君とガッチリ組んでいましたけど感覚的にはそこら辺のエンジニアよりも優秀だったと思います。

――加藤さんはプロデューサー気質だったんですね。

新田 ザ・フォーク・クルセーダーズで大ヒットを飛ばしたし、東芝EMIの“エクスプレス”からソロ・アルバムも出した。次に彼がやってみたいことが二つありました。一つは加藤和彦個人のレーベルが欲しい、と。それがミカ・バンドをリリースした東芝EMI内の“ドーナッツ・レーベル”です。日本のメジャー音楽メーカーの中にアーティスト個人の自由度が保証されたレーベルなんてなかったんじゃないかな。もう一つはライヴのPAです。70年代は海外のバンド、アーティストが来てライヴをやると前座は日本人のバンドたちです。そうすると日本のバンドの音はPAのマスターで音を下げられちゃうんです。独自のサウンド・システムが日本にはなかったからね。それでイギリスのライヴ・サウンドを目標にして加藤さんがPA一式を買ってシステムを組んで、PA会社を設立しちゃうんです。それが“ギンガム”って独自のライヴ・サウンド・システムの会社です。そこに社員としていたのが重実博君です。忘れることが出来ないスタッフの一人ですね。彼は松任谷正隆さんと同級で慶応幼稚舎から一緒でしたね。重実くんも『黒船』のレコーディングに参加し加藤君のみならず何かとメンバーのヘルプもしてくれました。勿論、私の補佐もしてくれました。イギリスにおける、ロキシー・ミュージックとのジョイントツアーにも私の代理で同行してくれるなど、ミカ・バンド、『黒船』を語るとき黒子としての重実君を外すことは出来ないんです。その後、彼は東芝EMIに入社し、私の部に配属されて稲垣潤一君などを担当してヒットを出すことになるんです。

――改めて考えると一人の音楽家がメジャー・メーカー内にプライヴェート・レーベルを持ったり、PA会社を作っちゃうなんて欧米でもなかなか例がないです。

新田 バンドを作るだけではなくて、「これからの時代」を作ろうとしていたんだと思います。だから彼はファーストの『サディスティック・ミカ・バンド』はまだまだ中途半端な挑戦だと考えていました。常に「次は世界だ!」と言っていました。では「世界に通用するアルバムを作るにはどうすればいいか?」。それはやはり「世界的なプロデューサーを起用すべきだ」となるわけです。加藤さんが僕らに提案してきたのがクリス・トーマスです。

――彼はすでにビートルズに始まり、プロコル・ハルムにピンク・フロイド、加藤さんも影響を受けていたブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックと、まさにイギリスのスーパー・プロデューサーになっていましたね。

新田 それでクリスにプロデュースを依頼に行ってくると僕が言うと、加藤君も一緒にと。加藤君が行くとなれば幸宏さんも高中さんもと、男どもがゾロゾロとロンドンへ(笑)。僕らは予算がなかったから一泊4ポンドくらいの宿ですよ。ミルクと紅茶とパンが一切れの朝ご飯ってホテル。ベッド&ブレックファストですね。すでにクリス世界的なプロデューサーです。どうやって彼に会えたのかと言うと、僕がたまたまジョージ・マーティンさん(ザ・ビートルズのプロデューサー)弟子でもあって、その頃、幸運にもマーティンさんの秘書のシャーリー・バーンズさんがクリスの秘書を兼任していた。バーンズさんが親身になってコーディネートしてくれたこと、クリスがミカ・バンドのファーストを気に入ってくれたことでプロデュース依頼の交渉は思いの外に上手くいきました。ほぼ二日で契約まで漕ぎつけたんじゃないかな。加藤君たちは余裕が出来て、その週末にはパリに遊びに行ってましたから(笑)。

――クリス・トーマスさんとの契約で差し支えない内容を教えていただけませんか?

新田 とにかく大きかったのはレコーディング期間、つまり彼の日本滞在期間です。2カ月も必要だと言うんですよ。もう世界的なプロデューサーですからね、それ相応のホテルに滞在してもらおうと思って都内のホテルで宿泊費を計算したらそれだけでアルバム制作費が吹っ飛ぶ金額になりそうでした。そこで僕が産まれて初めて某大手不動産会社を訊ねて一戸建ての家の賃貸物件を探しました。スタジオからあまり離れた場所では困るんで、六本木の星条旗通りに一軒家を借りました。家賃は一カ月15万円くらいだったな。その頃の僕の月給が4万円ですからけっこうな家ですよね(笑)。クリスはそこで2カ月間、完全にサディスティック・ミカ・バンドのセカンド・アルバムのプロデューサーになったんです。

――おそらく日本で初めてアルバム丸ごとを海外のプロデューサーに完全委任した作品だと思います。

新田 そこからがたいへんでした。レコーディングの初日です。クリスがレコーディングをしないんですよ(笑)。東芝EMIの1スタ(第1スタジオ)のコンソールの「スピーカーの左右バランスが違う」と彼が言うんです。それだけでなく音質まで違うと言い出した。スタジオのスタッフは「そんなはずはない」と。なぜなら当時の東芝EMIのスタジオのメンテナンスは細心の注意を払っていて、世界的にも誇れる環境を維持していたからです。モニター(スピーカー)はアルテック、604Eというシルバーメタルの機種です。クリスは東芝EMI中から、あらゆるスピーカーを1スタに持って来ては吊るして鳴らして組み直して、「違う」「まだ違う」と延々とやるんです。スピーカーの状態を調整するだけで1日が過ぎ、2日が経つ。僕らはスタジオのモニター環境は「そういうものだ」と信じ切っているのが当然だった。でも彼は完全にモニター調整ができなければレコーディングはしない。「海外のプロデューサーはすごいなぁ。スタジオのスピーカーを変えさせちゃったよ!」とただただ感心するしかなかった(笑)。

――今でもそんなことは誰にも出来ませんよ。プロデューサーがモニター環境を変えちゃったら今度はエンジニアがモニターを信じられなくなります(笑)。

新田 次にね、スタジオのイコライザーのシステムは当時の東芝電機が作ったものでした。まだSSLやニーヴ(いずれも70年代後半以降に日本でもスタンダードになったレコーディング/ ミキシング卓、録音システム)もないですからね。クリスは「こんなシステムじゃ足りない」ってんで、東芝EMIにありったけのイコライザーを片っ端から1スタに持ち込んでどんどん繋げていってデカいシステムを作っちゃったんです。さらにリミッターも足りないってあちこちからリミッターを持ち込んでモジュールに繋いでしまってね。気がつけば1スタのコンソールは軍艦みたいな物々しい様相ですよ。僕らはみんな「これが1スタかよ!?」と(笑)。そうなってくると、1スタはもうクリス以外の誰にも使えないスタジオになってしまっているわけです。当時はロックアウト(数週間から数カ月間、一つのスタジオを独占的に使用すること)なんて言葉はなかったけれど、自ずと1スタはサディスティック・ミカ・バンド専用スタジオと化していました。

――加藤さんのお話によると「アナログのスタジオは一度で電源を落とすと音が変わってしまうから、『黒船』のレコーディングでは電源を落さなかった」とまでおっしゃっておられます。

新田 さすがに2か月も電源を落さないってことはなかったと思うけどね(笑)。加藤君がそう言っているなら、そのくらいの勢いというか、厳重にサウンドを管理していたんでしょうね。とにかく過去やったことがないことばかりをやっていましたから。僕が驚いたのは“テープ編集”です。その頃、録音テープは2インチ、チャンネルは16です。そのテープをクリスが「切ってくれ」って言うんですよ。録音テープは普通に剃刀で切って、別に切ったテープに貼り付けて繋げる。それはいいんです。なぜならそれが出来るテープがあり、それが出来るカッティング・レール(テープを切るための専用の台)ってのがあったからね。でも16チャンネルの2インチのテープですよ。専用のカッティング・レールもないのに、そんな高いテープを日本では誰も切って編集したことなんてないです(笑)。そんなもん怖くて切れないってんで、わざわざアメリカのキャピトル・レーベルに頼んで2インチのレールを送ってもらったんです。その上に2インチの幅、しかも厚みのあるテープを乗せてホルダーでガチャガチャって固定する。そうしないとテープが弛んでしまいますからね。テープは固定された。しかし、切る役目のエンジニアの蜂屋君の手が震えていました。失敗したら、取り返しがつかない。今みたいにデータでバックアップもない。2インチのテープが音の記録の全てなんですから。

――この記事を読んでくださるみなさんにも想像を絶する緊張ですね!

新田 エンジニアの蜂屋君の偉業には暇がないんです。『よろしくどうぞ』のチンドン屋風の演奏の録音も面白かった。ノイマン(ドイツの名門マイク・メーカー)の87(ハチナナ)のマイクを使っています。このマイクは12ボルトで交流じゃなくて直流で使えます。それで電池を入れて複数の87を立てて、スチューダ(マルチ・トラック・レコーダー)でバランスをとりながら当時、デンスケって言われてた2チャンネルのテープ・レコーダーに繋いで録った。一発録音です。ヘンなことをやってましたねぇ。蜂谷君がよくぞそんなわけの分らない録音方法に対応してくれたな、と思います。それにミカ・バンドには管楽器奏者はいなかったけど、この曲のサックスは今井さんが吹いている。彼は芸達者だったので、キーボードだけじゃなくて、マルチに楽器を演奏できたんだ。

――それもクリスさんのプロデュース・ワークですか?

新田 彼は意表を突くと言うか、スタジオの現場を驚かすことが好きだったんです。他にもジーパンを使ってジッパーの開け閉めの音を録ったりとか、コップを5、6個ほど割った音をいくつかのチャンネルに振って、何十個ものコップが割れているような音にする。

――今で言うサンプリングですね。

新田 そうそう、まさにサンプリングの手法をアナログ・テープでやっていた。70年代の初めですからね、それこそが作りたい音に対する創造力です。

――最早、何をやっても社内で治外法権だったんですね。プロデューサーとしてクリスさんを立てた『黒船』らしいエピソードです。

新田 だけど、とても印象的なことがありました。クリスがミカ・バンドのプロデュースをするに当たり新聞のインタビューを受けた際にこう言ったんです。「今回はプロデューサーではなく、ディレクターになりたい」って。僕らはディレクターっていうポジションが嫌でプロデューサーになりたいんですよ。でも、彼は「ディレクターがいい」って。プロデューサーは予算を管理しなきゃならない、レコーディングを順調に進めるためにはメンバーたちの健康管理にも気を使わなきゃなりません。クリスは『黒船』に関してはそんなことを考えずにディレクターとしてレコーディングのクリエイティヴに徹したい、集中したいと言ったんです。そういう彼の姿勢が罷り通ったのは日本のミカ・バンドであり、『黒船』だけだったのかもしれません。だから、彼がレコーディングに集中できるように、それ以外のことは僕が全部やった。さっきお話した『黒船』の海外盤では僕はエクゼクティヴ・プロデューサーという肩書になっています。それはディレクターよりもエラいということではなくて、クリスをディレクターとしてレコーディングに集中してもらうために僕が出来ることをやった、それだけです。僕は喜んで裏方になりました。

 

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クリス・トーマス氏(左)と新田和長さん(右)。今回新田さん自らご提供いただいた貴重すぎる一コマ!

 

――そこにクリスさんと新田さんの暗黙の了解があったんですね。それと、もう一つ、『黒船』のレコーディングではメンバーたちはほとんど曲を作らないでスタジオに入ったという説があります。現場でヘッド・アレンジをするライヴ感を活かしたかったのかな、と思うのですけど。

新田 うん、それは間違いないです。ライヴ感というよりは実験的と言ったほうがいいかもしれない。全く何も無い状態でスタジオに入ったというのは誇張だけど、そういう意味では“ほとんど”曲は出来ていなかった。スケッチ的なメロディはあっただろうし、作詞をされた松山(猛)さんと加藤君が話をして、「日本から世界へ、世界から日本へ」って逆輸入の発想で「イギリスのプロデューサーのクリスとアルバム作ってやろう」ということでの『黒船』というコンセプトもあった。日本人バンドが海外のプロデューサーと『黒船』を作るんだってね。だからスタジオでクリスが居る現場で曲を作る。一緒に実験してみる。「一緒に黒船を作って世界に向かって船出するんだ」ということでしょうね。

――予め曲を作らず、アレンジせず、リハーサルもしていない状態の『黒船』のレコーディングで最も印象的な曲はどれでしょうか?

新田 1曲目の『墨絵の国へ』かな。

――意外ですね!ミカ・バンドの代表作とは言われていませんけど。

新田 この曲はね、幸宏さんのナレーションと言うかな、詩の朗読が素晴らしいんですよ。彼の詩の朗読が左と右、ステレオでそれぞれに違いますよね。一つの朗読テイクをパニングしてグルグル回したんじゃなくて、敢えて左右を別々に録って加藤君のヴォーカルとはタイミングをズラしています。丁寧にレコーディングしました。

――幸宏さんは今や世界的にも有名な「曲を作って唄ってドラムを叩くシンガー・ソング・ライティング・ドラマー」ですけど、幸宏さんの「声」が初めてきちんと聞こえたのはこの曲だと思います。

新田 こういう録音にこそ時間がかかるわけです。何でもなさそうなことなんだけど、アルバムではスゴく意味がある。

――それに、この曲の小原さんのベース・ラインが最高にファンキーですね。ゆったりとしている曲なのに、リズミックです。

新田 こうやってハイレゾで聴くとベースの響きが伸びやかですね。ベースをPAで鳴らしてルーム・エコーを使って響きを拾っているように聴こえます。でも、小原さんのベースはこのときは全てライン(ミキサー卓に直接繋ぐ)で録っています。これって、ハイレゾがミックス段階でのエコー処理を活かしているからなんでしょうね。個人的な感想だけど、ミックスの仕方が良く分るなぁ。『黒船(嘉永6年6月4日)』を聴いてみましょう。

――完全にプログレッシヴ・ロックですね。

新田 良くこんなアルバムを作れたなぁ。本当にすごいアルバムですね。今でもそう思います。

――今井さんのキーボードのフレージング、幸宏さんのドラムのタイトさとエコー処理に高中さんのギターが奔放に重なって……。時代が交錯すれば、ミカ・バンドが先かピンク・フロイドが先か?というくらいにプログレです。

新田 この曲は今井さんのキーボードからの始まりもいいし、高中さんのギターの語り方もいいんだけど、何よりも幸宏さんのドラムの入り方が最高なんだよねぇ。あのドラムのフィルに震えるために何度、この曲を聴いたことか(笑)。ハイレゾで聴くと確かにドラムのエコーも実に気持ちいいですね。

――『黒船』はファーストに比べると全体のミックス・バランスが整っているように聴こえます。

新田 『黒船』では「音圧を突っ込む」ということに拘るのをやめたんです。クリスがモニターのバランスに徹底的に拘ったというように、音圧よりは加藤君が理想としたアルバムの世界観とメンバーそれぞれの演奏力、エンジニアの蜂屋君とクリスの実験。そのバランスがあって出来たアルバムです。

――デジタル機材がないときに、どうやって録音してミックスしたのかが分らないエフェクトもあります。

新田 フェイザー(音の位相をズラす効果を出す)みたいな機材も東芝EMIのスタジオにはなかったからね。それで、どうやってフェイザーみたいな音を作ったかと言うと、録音した音をスピーカーで鳴らして、それをマイクで録り直すんですよ。

――録った音をまたモニター・アウトして、それを……?

新田 そう!ご想像の通りです。ステレオでモニター・アウトした音をまた二本のマイクでステレオで録るんですけど、そのときにスピーカーの前で二本のマイクを手動で左右に大きく振るんです。そうするとマイクから拾う音に「シュワシュワ」という左右に響く妙な音響効果が出る。フェイザーに近い音が出来るんです。フェイザーがないなら、フェイザーに近い音を手で作る。

――そうなってくると音響バカですね。

新田 バカですよ(笑)。日本のマイクをスピーカーの前でブンブン振るなんて傍から見たら「オマエら何をやってんだよ?」という姿です(笑)。でも、それが面白い音を作る。今のデジタル・フェイザーでも出来ない音が出来るんです。

――『黒船』って、僕らの世代にとっては革新的でありながらも、スタンダードな作品なんですけど、新田さんのお話を伺っているとデジタル・レコーディングになった今でも手動で面白い音が作れそうなヒントがたくさんあるんですね。

新田 クリス、蜂屋君と加藤君、メンバーたちが『黒船』を東芝EMIでレコーディングしたことで音楽的にというだけではなく、音響だったり録音技術的に東芝が獲得したことは多かった。『黒船』によって日本で初めて実現したサウンドがあります。この音を真似した音楽メーカー、音響機材メーカーの方々は少なくなかったと思います。

――『黒船』は音楽的というだけでなく、録音、音響的にもチャレンジされていたんですね。

新田 「どうして一枚もヒットもないバンドのアルバムにあんなに時間がかかったのか?」と思えば、実験をする時間が必要だったということなんですよ。すでに出来上がっている曲をただ音として録ればいいって言うのが当時の日本のレコーディングの主流だったけど『黒船』ではスタジオでクリスと蜂屋君と加藤君がスタジオで理想のサウンドを議論する時間も必要だったんだと思います。

――日本では『黒船』はどれだけ売れたんでしょうか?

新田 僕はプロデュース側でセールス側ではなかったから正確な数字は分らないですけど、国内では少なくとも8万枚は売れていたんじゃないかな。今ならかなりのヒットですよね。最終的には15万枚くらいは売れたんじゃないかな。

――『黒船』がリリースされて、ミカ・バンドはイギリスでブライアン・フェリー率いるロキシー・ミュージックとツアーを敢行しました。クリス・トーマスさんの力も大きかったとは思いますが、ミカ・バンドは西欧で歓迎されたようですね。

新田 蜂屋君と話をしてみると事実としては必ずしも成功していたとは言えない。会場によっては前座のミカ・バンドのときにはお客さんが外に出ていて、ロキシー・ミュージックになったら大盛況ってこともあったらしい。

――ロキシー・ミュージックとのツアーを終えて日本に帰ってくるとき、ミカ・バンドのメンバーは「さぞや空港でファンもメディアも待っているだろうと思ったら誰も待ってなかったからガッカリした」という話もあります。

新田 それはねぇ・・・僕らスタッフがもっと気を使えば良かったよね(笑)。凱旋して歓迎されるだけのことはやったんだからね。音楽評論家たちだって諸手を上げて『黒船』を評価してくれていたのに、大ヒットにはなってなかった。でもね、加藤君、メンバーたちは当時の日本ではサディスティック・ミカ・バンドの音楽は大ヒットはしないという予感はあったんだと思います。だからこそ、世界に出る意味があったんだろうな、と。

――『黒船』をリリースして売るための東芝EMIの戦略はどんなものでしたか?

新田 やっと『黒船』が完成して、リリースになるってときに僕はレコードの帯に「録音時間300時間」って書きました。どれだけすごいレコーディングだったかを時間で表してリスナーに伝えよう、とね。でも、それはウソなんです。実際には600時間はかかっていました。だけど、「録音時間600時間」って書いちゃうと、東芝EMIの誰が見ても制作予算をオーヴァーしちゃうんです。僕が会社から怒られちゃうよね!だから、仕方なくて半分の「300時間」って書きました(一同爆笑)。本当は「600時間」って書きたかったんだけどねぇ(笑)。でも、僕らの悪知恵ですね。リスナーにはとっては「300時間」でもスゴいわけですから、実際にかかった時間の半分でも驚いて興味を持ってもらえるだろう、とね。

――加藤さんも、新田さんも、クリス・トーマスさんもそれぞれに気質はプロデューサーなので、相互が当たり合うことはなかったんでしょうか?

新田 それはなかったな。クリスが先生で加藤君も僕らも生徒。彼が言うこと、やろうとすることを理解してメンバーに伝えてレコーディングするという意味では加藤君もプロデューサーだったし、クリスが2カ月に渡ってミカ・バンドのレコーディングに集中するために僕がやったこともプロデューサーだったとも言えるのかもしれない。それぞれが『黒船』というとてつもないアルバムを作るために出来ることを精一杯にやっていただけです。それは、「僕らには出来ないことはない」、「日本で作られる音楽が世界へ行けるだけの力を持っている」というメンバーたちの感性と演奏力の素晴らしさへの確信があっただけですね。

――『黒船』のサウンドから今でも伺える多幸感はその確信から40年以上経っても活き活きとしていると思います。

新田 ハイレゾになった『黒船』を聴いて、ありありと思い出すのはやはりあの軍艦のようになったレコーディング・スタジオです。東芝EMIの1スタがクリス・トーマスというプロデューサーによって僕らが知っているスタジオではなくなってしまった。ケーブルで足の踏み場もない。積み上がった機材で照明も十分ではない。そして暑い。気持ちが熱いだけじゃなくて、積み上がった機材に電源が入っているからスタジオの温度が高くて暑い。その熱量は『黒船』を作るぞ、というバンド、クリス・トーマス、蜂屋君、僕らスタッフ、お互いの理想と尊敬の熱量の高さだったんだと思います。

――新田さんはそうして作られ、これまで“ロック・クラシック”になっている『黒船』を今の若い世代が聴いたときに、どう感じると思われますか?今後、CDではなくハイレゾで初めてこのアルバムを聴く世代も現れるでしょうし、サブスクリプションで初めて聴く世代にもなっていくと思うのです。

新田 アナログ・レコードと聴いたこともないし、CDさえも聴いたことがないという方々の話ですね。音楽業界のセールスの中心であるCDというメディアの恩恵は計り知れません。ソニーとフィリップスが世界で標準化した規格で僕らはここまで音楽を作って、届けることが出来ました。しかし、その規格に捕らわれ過ぎてきたとも言えます。16bitと24bitの差、サンプリング周波数での44.1kHzと96kHzの差。この差は大きい。でも、その差の大きさを知らない世代がこれからの相手になるんですよね。

――音楽がインターネットで流通されるようになってからは、「如何に音楽を圧縮するか?」が重要な技術開発になっていましたし、そういう音に耳が慣れてしまった世代も産まれています。

新田 確かにそうですね。そこで改めて考えてみてください。映像の物理メディアの容量はDVDからBlu-rayへとどんどん大きくなっているのに、音楽のデータはCDを基準にして、それ以降はどんどん圧縮される方向に向かってしまったわけです。しかも、“アナログ・レコード”という僕らの耳に最も充実したサウンドが届くメディアを捨ててしまったんです。
 僕は音楽をハイレゾ化する最大の目標は「デジタル化される音楽がアナログ・レコードの音に近づいていくことだ」とさえ思っています。音楽はどこまで追求しても空気の振動なんですから、声を録るマイクも、その声を聴くスピーカーも完全にデジタル化は出来ないわけです。マイクもスピーカーも電気的ではあるけど、デジタルではない。感覚的にはデジタルには隙間がないように思いませんか?隙間を埋めて圧縮することがデジタルであると。そこで圧縮されるのは音と音の間、隙間、空気の響きなんじゃないかな。「どれだけ小さな空間にどれだけの音を詰め込めるか」という、ね。
 ハイレゾはそうではなくて、デジタルの音像、音と音の間に本来のスタジオ録音で僕らが聴いていた隙間をとり戻せるか、ということのように思うんですよ。
 お話したように、クリス・トーマスというプロデューサーはレコーディング・スタジオで2日もかけてステレオのモニターの空間的な響きを調整しました。その音を僕らは聴いていますし、その音が僕らに最大限に再生出来たのはアナログ・レコードです。CDではその「最大限の音」の再生は無理でした。僕らが知っているスタジオの空間的な響きが届けられるならハイレゾ化にはCDからずっと進んだ音楽の未来があるんだろうと思います。

 


 

サディスティック・ミカ・バンド
『黒船』

M.01 墨絵の国へ
M.02 何かが海をやってくる (インストゥルメンタル)
M.03 タイムマシンにおねがい
M.04 黒船 (嘉永6年6月2日)
M.05 黒船 (嘉永6年6月3日)
M.06 黒船 (嘉永6年6月4日)
M.07 よろしく どうぞ (インストゥルメンタル)
M.08 どんたく
M.09 塀までひとっとび
M.10 四季頌歌
M.11 颱風歌
M.12 さようなら

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コメント(1)


ライブインロンドンは本当に、名誉と引き換えの悲しいツアーだったことがわかります。何か超えてはいけない壁を感じるというか。ベビーメタルのように、激しい上に可愛い、更に曲も良くてアイドルがヘビメタという幾重の要素がないとダメなんですね。まさにミカバンドは、功績だけでなく、実力でも、進出は早すぎたのでしょう。でも、ライブインロンドンは大好きなレコードです。



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